「北戴河会議」とは何か?

先週まで、習近平主席が迷彩服を着込んで軍事パレードを行ったりして喧しかったが、ここ数日は最高幹部の動向が鳴りを潜め、立秋を迎えた北京はひっそりとしている。

これは中南海の権力闘争がストップしたわけではまったくなくて、権力闘争の場所が、東に300q移動しただけのことである。すなわち、華北省秦皇島市にある海辺の保養地、北戴河で、いわゆる「北戴河会議」が開かれているのである。

北戴河はもともと、鄙びた漁村だったが、20世紀前半にイギリス人が別荘を建て、夏の避暑地にした。そこを1949年に中国共産党が接収し、水泳が趣味だった毛沢東主席が気に入って、夏に通うようになった。すると共産党幹部たちも毛主席について北戴河へ行き、そこで幹部人事や重要方針を決める習慣がついたのだ。

1976年に毛沢東主席が死去して以降、北戴河会議は何度か中止されたが、そのたびに復活している。中止された理由は、北戴河会議は、第一線の現場を退いた長老たち(党中央政治局常務委員)にも発言権があるので、現役の指導部にとって鬱陶しいからである。

日本の会社に例えれば、会議の場に相談役たちがゾロゾロいて、社長が行なう人事や経営方針にやかましく口を挟んでくるイメージだ。

社長(共産党総書記)としては、鬱陶しいから会議の廃止を宣言する。するとヒマを持て余している相談役(長老)たちは、本社(中南海)やその他の場所で、さらに一層激しく、現役幹部をたちを巻き込んで権力闘争にいそしむ。

その弊害の方がよほど大きいため、それなら年に1回、会議を開き、ウルサ方にも参加を願って一発で決めてしまおうということになって復活するのだ。

北戴河会議の最重要会議は、通常年は3日間行われる。昨年は8月9日から11日まで行われた。

ところが、5年に一度、秋に共産党大会が開かれる年だけは、「トップ7」(常務委員)、「トップ25」(中央政治局)といった幹部人事を決めるため、時間無制限となる。

5年前の北戴河会議では、習近平主席を共産党総書記(党トップ)に引き上げ、李克強筆頭副首相を首相(党ナンバー2)にするところまではすんなり決まったが、その後が決まらなかった。江沢民vs.胡錦濤のガチンコの権力闘争が繰り広げられたからだ。国民の選挙によらない政治というのも、それはそれで大変なのである。

結局、北戴河会議は時間切れで散会となり、同年9月に予定していた第18回共産党大会は、11月に引き延ばされた。その間、江沢民側は「日本」をダシに使い、「胡錦濤政権は親日政権」というレッテルを貼って、権力闘争を展開した。

当時の野田佳彦民主党(現民進党)政権は、そんな事情はつゆ知らず、同年9月11日に尖閣諸島を国有化し、中国の反日政権樹立に加担してしまったのである。今さら私が指摘することでもなかろうが、民主党(民進党)政権は、つくづく外交オンチの政権だったと思う。

習近平総書記の「3つの掟破り」

さて、今年の北戴河会議は、とても3日間では終わりそうにない。それは、秋に第19回共産党大会を控えていて、新たな「トップ7」「トップ25」を選ぶということが一つ。もう一つは、習近平総書記が「3つの掟破り」を中央突破しようとしているからである。

思えば、5年前の北戴河会議で、習近平総書記が決まったのは、前述した江沢民vs.胡錦濤の権力闘争の「妥協の産物」に他ならなかった。江沢民派と胡錦濤派が互いの潰し合いをやって、そのどちらにも属していない、ただ父親が元副首相というだけの習近平が、漁夫の利を得た格好となったのだ。

私は第18回共産党大会を北京で取材したが、当時、ある中南海関係者は、私にこう解説したものだ。

「共産党初代トップの毛沢東は、重要事項の9割を自分で決める『9割皇帝』だった。2代目のケ小平は、少し減って『7割皇帝』。3代目の江沢民は、ケ小平がいたのと北京に地盤がなかったため『5割皇帝』。四代目の胡錦濤は、江沢民に頭が上がらなかったため『3割皇帝』だった。

それが今度の習近平は、江沢民と胡錦濤の権力闘争の末に、消去法で決まった。

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http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52537