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2017/08/08(火) 13:52:37.97ID:CAP_USER金さんは1938年に福岡県大牟田市の菓子店で働くため朝鮮半島南部から来日し、43年に長崎造船所に徴用された。図面に沿って鉄板に印を付ける現図工として爆心地から約4キロの造船所内で勤務中に被爆。終戦2日後に木造船で帰郷した。
戦後、韓国で菓子職人として働いていた金さんは、「被爆者」として日本政府から援護を受けられることを知らなかった。韓国の政府機関から徴用に関する調査を受けたのを機に手帳制度を知り、長崎市に申請したのは2015年3月。国は被爆したことを証明する公的書類や第三者2人以上の証明を求めているが、既に被爆から70年がたち、見つからなかった。
金さんは15年12月に戦後初めて長崎市を訪れ、造船所周辺を歩きながら市職員らに当時の様子を詳しく証言した。しかし、16年3月に届いた却下通知には「原爆が投下された日に長崎造船所に勤務していたことを確認できない」と記載されていた。
「なぜ日本のために一生懸命働いたのに、被爆者と認められないのか」。金さんは16年9月、手帳交付を求めて長崎地裁に提訴。同様に申請を却下された元徴用工のペ漢燮(ペ・ハンソプ)さん(91)、李寛模(イ・グァンモ)さん(94)とともに法廷闘争を続けている。【樋口岳大】
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20170808k0000m040144000c.html
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2度目の調査のため訪れた長崎造船所の近くで被爆当時の様子を語る金成洙さん(中央)=長崎市で2016年