大統領官邸がある青瓦台枕流閣の裏側にある泉のほとりには統一新羅時代に製作された仏像が一つある。豊満な顔に目じりが上がり、太い唇は堅く。高さは約1メートル、製作時期は8〜9世紀と推定される。

この仏像は1974年、ソウル市有形文化財第24号と指定された「石仏坐像」だ。優れた容貌のおかげで「美男仏像」と呼ばれ、青瓦台(チョンワデ、大統領府)の中に位置していることから「青瓦台仏像」とも呼ばれる。

日帝強占期から現在の位置を守っている石仏挫傷。最近、地元の市民団体を中心に石仏挫傷を本来にあった慶北慶州市(キョンブク・キョンジュシ)に移転しなければならないという主張が出ている。

地方分権運動大邱(テグ)慶北本部は22日、声明を出して「青瓦台の石仏挫傷を本来の場所である慶州市に直ちに返還しなければならない」と主張した。

この団体は「文在寅(ムン・ジェイン)は青瓦台内にある石仏挫傷が慶州市に直ちに返還されるよう、必要な措置について関連当局に直接指示してほしい」と呼びかけた。

また「本来慶州にあったこの石仏挫傷が慶州市に返還されるのはあまりにも当然な時代精神」とし「ソウル市と文化財庁は関係法令にこたわらず、時代の流れを尊重して青瓦台内の石仏挫傷を直ちに慶州市に返還するための行政手続きを踏まなければならない」と促した。

文化財庁などによると、この仏像は大韓帝国が日本の植民地に併合(1910年)されて2年後である1912年、慶州を訪れた寺内正毅初代総督によってソウルに移された。

総督は当時、慶州金融組合の取締役である小平亮三という日本人の家の庭園からこの仏像を初めて発見した。かつて仏像がどこにあったかをめぐって意見が交錯している。

慶州南山(ナムサン)、今は跡地だけが残っている慶州市道只洞(トジドン)の有徳(ユドク)寺、または移車(イゴ)寺にあったという研究がある。

総督がこの仏像を気に入ったということに気付いた小平は、ソウル南山にあった総督官邸にこの仏像を移した。このように故郷を離れることになった仏像は、27年総督府官邸(現、青瓦台)を改めて建てながら再び移転され、現在の場所に位置することになった。

この仏像は青瓦台内に閉じ込められ、世の中の人々から忘れられた。そのうちにこの仏像の存在が世間の関心を集めたのは94年だった。

当時は、亀浦(クポ)駅列車転覆事件、アシアナ航空期墜落事件、西海(ソヘ、黄海)ペリー号沈没事件、聖水(ソンス)大橋崩壊事件など大型惨事が相次ぎ起きた時だった。

キリスト教信者である金泳三(キム・ヨンサム)元大統領が青瓦台に入り、青瓦台内仏像を全部片づけてしまったのが原因というデマが出回った。

仏教信者だった全斗煥(チョン・ドゥファン)・盧泰愚(ノ・テウ)元大統領時代に青瓦台に安定的に置かれていた仏像がチュンヒョン教会長老だった金泳三元大統領就任以降片づけられたため、「事故共和国」になったというデマだった。

すると、青瓦台は苦心の末に、その年の10月27日に青瓦台出入り記者に仏像が本来の場所にあるということを公開した。その後、石仏挫傷は広く世の中に知らされることになった。

仏像の存在が世の中に知らされると、慶州市への返還問題も水面上に浮かび上がった。2000年代、慶州市文化財専門家たちと文化団体は報道機関を通じて石仏挫傷の存在を市民に知らせ、慶州市への返還運動を慶州市に粘り強く要請した。

これに先立ち、7日にも市民団体「文化財取り戻し」が石仏挫傷を慶州に移転する必要があるとの主張を入れた陳情書を青瓦台と国会に提出した。文化財取り戻しは陳情書で「不当に朝鮮総督府に不法搬出された統一新羅の仏像が今でも青瓦台内にあるのは望ましくない」と書いた。

海外に不法搬出された文化財を韓国に還収した事例は今まで数回もあった。

先月、文在寅大統領とトランプ米大統領の首脳会談の際、返してもらった文定(ムンジョン)王后御宝と顕宗(ヒョンジョン)御宝、李明博(イ・ミョンバク)元大統領在任時期である2011年、日本政府から還収された朝鮮王室儀軌など図書1205冊が代表的だ。

http://japanese.joins.com/article/622/232622.html

>>2以降に続く)