2001年12月に銃撃戦の末、自爆と思われる爆発で沈んだ北朝鮮の工作船を海上保安庁が02年9月に引き揚げてから11日で15年を迎える。捜査終了後に廃棄処分の可能性さえあった北朝鮮の工作船の保存のきっかけを作ったのは、日本財団による一般公開だった。

6回目の核実験で北朝鮮情勢が緊迫する中、公開を担当した同財団コミュニケーション部の福田英夫部長に話を聞いた。【米田堅持】

実物を見せることの意義

「こんな船は見たことがない」

03年5月、鹿児島県にある民間の造船所で初めて工作船を見た福田さんは、船尾の観音扉に絶句した。船内から「戦争できるレベル」の多数の武器が見つかるなど驚きの連続だった。一方で、船体に残る弾痕には服の切れ端が押し込まれ、浸水を止めようとした乗組員の必死さも伝わってきた。

「今までの日本は海に守られていたと思っていた。しかし、目の前に1隻の工作船が実在する。それは、他にも存在するということで海からの脅威を認識せざるを得なかった。当時、多くの国民が感じたことだと思う」と語る。

事件の捜査に一区切りがついた工作船は、廃棄される可能性があった。それを聞いた同財団の曽野綾子会長(当時)が「一般公開をしたい」と申し出たことから、工作船は東京へ移送され、船の科学館(東京都品川区)で03年5月31日から9月末まで公開されることになった。船内にあった金日成バッジなどは、そばに係留されていた羊蹄丸の船内に展示された。

なぜ、工作船の公開にこだわったのか。福田さんは「多くの日本人にとって、紛争のニュースは対岸の火事のようなもの。実物を公開することで、問題意識を持ってもらいたかった」と話す。

公開期間を延長

工作船の公開への反響は大きく、移送中も「どこを航行しているのか」というメディアからの問い合わせがあり、公開後は、新聞、テレビ、雑誌など、ほとんどのメディアに取り上げられた。福田さんは午前4時から取材対応を行ったこともあったという。公開期間延長の声が大きくなったことから、公開は翌年の2月15日まで延長され、162万6299人が訪れた。

公開期間中、工作船の観音扉の前には、曽野会長の意向で「2001年12月22日 九州南西海域で沈んだ朝鮮民主主義人民共和国の若者たちに捧げる」というメッセージとユリの花が手向けられた。公開を終えた時、福田さんは「こんなに多くの人が来たのだという実感と一般の人が多かったことに驚いた」と振り返る。

公開終了後、工作船を保存、展示しようという機運が高まり、04年12月に海上保安資料館横浜館(横浜市中区)が作られた。今も1日平均約850人が来館し、入場者数は7月に累計300万人を突破した。

公開終了後、福田さんは曽野会長の後を引き継いだ笹川陽平会長の秘書を経て、コミュニケーション部で再び広報を担当している。14日には同財団と海保が主催する初の「世界海上保安機関長官級会合」が開催される。同財団の笹川会長は「海の危機に、ひとつの国で対応するのは不可能。課題の解決に向け、世界が一歩を踏み出す場にしたい」と意欲を見せている。

https://mainichi.jp/articles/20170907/k00/00e/040/281000c

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後部の観音扉を開けた状態で公開された工作船=東京都品川区の船の科学館で2003年5月31日、米田堅持撮影