岡田英弘東京外語大学名誉教授
日本のマスコミは、いつも「中国四千年」とか「中国五千年」などというキャッチフレーズを使うが、実際には中国は二千二百年の歴史しかない。
「中国四千年」や「中国五千年」という言い方は、二十世紀はじめに誕生した、中国のナショナリズムが産み出したことばである。一九一一年、最後の中国王朝である清朝を倒そうとする辛亥革命が起こった。このとき、革命派は「黄帝即位紀元四六〇九年」を名乗ったのであった。
 それまで中国では、暦は、天命を受けた天子である皇帝に属するものだった。革命派にとってみれば、倒そうとする当の相手の清朝皇帝の暦は使えないし、アヘン戦争以来の憎き敵であるヨーロッパ人の、キリスト生誕にはじまる西暦を使うのも嫌だった。
 それで、革命派は、中国最初の歴史書である司馬遷の『史記』に登場する、歴代皇帝の最初の祖先とされる、神話上の天子である黄帝を持ち出して、中華民族はすべて黄帝の子孫である、としたのである。これが、「中国五千年」という文句のはじまりだった。
 じつは、黄帝即位紀元と中華民族という中国の新しい神話は、神武天皇以来万世一系の天皇と、天照大神の子孫の大和民族という、明治維新以来の日本のナショナリズムをまねたものであった。
中国の革命派のほとんどは、一八九四〜九五年の日清戦争に日本が勝利したあと、日本に留学して近代化を学んだ、もとの清国留学生だったのである。
中国に大変化が起こったのは、西欧の衝撃を受けたせいではなく、すべて日本のせいである。日清戦争の敗戦の衝撃によって、ようやく清朝は中国文明の伝統を放棄し、日本式の国民国家化に踏み切ったのであった。

清国は、一八九六年から毎年多数の留学生を日本に送り、科挙出身者の代わりに登用するようになった。一九〇五年には、隋の時代から一千三百年も続いた、国家の上級官僚を採用する科挙の試験を正式に廃止した。
日露戦争に日本が勝利したあと一九〇六年からの日本への清国留学生の数は、年間八千人から九千人にものぼったのである。
 清国留学生は、日本の文化を大いに吸収した。政治形態を改革しようとする人びとも、当初は日本の明治維新にみならって立憲君主制を採用しようと考えていた。ただし、中国の皇帝は日本の天皇と違って異民族であったために、
最終的には辛亥革命によって一九一二年に清朝は崩壊し、中華民国が生まれたのであった。
 しかし、中華民国は、日本と違って、国民国家にはほど遠かった。なぜなら、モンゴル人やチベット人や新疆のイスラム教徒は言うまでもないが、漢族の間の共通語すらなかったからである。
 中華民国教育部は、一九一八年、日本のカタカナをまねた「注音字母(ちゅうおんじぼ)」を公布した。紀元前二二一年に中国を統一した秦の始皇帝の漢字統一以来、二千百年以上たってはじめて、漢字にルビをふることができるようになったのである。
この注音字母は、いまでは台湾だけで使用されており、大陸の中国語のルビは、ローマ字の●音(ピンイン)(●=拓の石が并)を使っている。つまり、中国人は自国語を覚える前に、
あんなに嫌っていた西洋の文字をまず覚えなければならないのである。