146 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/06/07(水) 23:35

今となっては、なんともげせんことぢゃろうが、ま、帰国船、帰国
事業を了承した日本の当局側では厄介払いと考えていたフシもない
ではない。なにしろ、そのころ生活保護といえば鮮人ぢゃったで、
金くい虫での、政府も困っておったろうて。
(昭和30年の在日朝鮮人の生活保護率は21.4パーセント)
ぢゃが、これの実現に向けて運動やら実務やらを担ったものはな、
みな善意で動いておったのぢゃよ。

とはいえ、わざわざ北鮮まで出向いたくせに、接待だけ受けて、き
ちんと調べもせず見当違いの提灯記事を書きまくったしようのない
新聞記者はのう、鮮人どもに恨まれても仕方がないの。

ま、騙したもんも騙したもの、騙されたもんも騙されたもの、信じ
たもんも信じたもの、というところが公平なところぢゃろうて。

考えてみれば、冷戦の真っ最中でな、アメリカとロシアが意地をか
けて、どちらの政治が良いか住み良いかというのを競っておったこ
ろぢゃ。当時はまだ韓国との国交はなかったが、アメリカや韓国の
反対を抑えての政治判断ぢゃて、運動が始まったころは、だれも簡
単にいくとは思っておらなんだ。よう、がんばったものぢゃ。

これが実現したのが、昭和34年の暮れのことぢゃ、鮮人がぞくぞ
くと新潟港から北鮮に渡っていったの。新潟までの旅費のないもの
には、赤十字からぢゃったか、汽車賃まで出しての。