『「支那」を使うな』という主張・回答をするやからに良く見られる珍論(笑)の一つに
「支」とは「中央・中心ではない、端っこ」という意味、「那」は「国」という意味だから。。。。使うな
というものがあります。
「支」は「竹をさきとったり、手で支える・持つ」という語源ですから「支点」という言葉にも見られる通り、中央・中心部分の意味でも使えます。「中央・中心ではない、端っこ」なんて意味はありません。
「支援」とか「支持」なんて言葉にも使えますよね。
「那」には「邦」と違って「国」なんて意味は全くありません。漢訳仏典の「支那・脂那」にも見られる通り、「思慮深い」という意味ならありますけどね(笑)
1)支那は世界共通語:最近まで支那を侵略していたポルトガル・イギリスも、支那をシーナ、チャイナとよんでいる。
ロシヤ語に至っては支那はシナですらなくキタイ(契丹≒モンゴル)だが、以上全てに対して支那政府は抗議していない。
(2)出版社や新聞社等に「支那」の語の使用を禁じる「唯一の根拠」は1946年の外務省局長通達だが、現在これは有効ではない。
仮に現在もこれが有効だとすると、今行われている出版・報道やあらゆる表現活動も成立しなくなってしまう。
、支那の旧満州なのか、日本の中国地方なのか分からなくなる。
実際、岩中祥史「中国人と日本人」は、内村鑑三の中国人(広島人・山口人)論を支那人と勘違いして引用してしまっている。
また、中国銀行も、中国電力も、中国新聞も、中国ファンドも、全部日本のもの・呼称である。
(4)清朝乾隆帝期編纂「四庫全書」にも「支那」は使われている。青木正児「中華名物考」によると支那(脂那)はインド仏典に出ている言葉で「思慮深い」などの美名であり、
鎌倉時代の経典にも支那は使われているし、江戸時代には司馬江漢も支那を使っている。即ち、「支那」は歴史に裏打ちされた用語でもある。
(5)(1)〜(4)の理由に対して、「理屈ではない。当人が不快に感じる言葉は論理に関係なく使うべきではない」という反論が予想されるが、これは(良識を口実にした)暴論である。