1907年末に儒学者の李麟栄が各地で戦っていた義兵を糾合し、京畿道楊州に兵1万(そのうち旧韓国軍兵士は3000名にのぼったという。)
を集めて彼を倡義総大将とする、韓国13道すべてを結集した義兵軍という意味の「十三道倡義軍」が成立し、
同年12月に許蔿(号:旺山)を司令官としてソウル奪還を目指して首都ソウルへ進撃した。
日本軍は東大門においてこれを破ったものの、この善戦が各地の義兵勢力を勢いづけて1908年の第2次ソウル奪還作戦など1909年にかけて各地で日本軍と交戦した。
(掉尾の一振となる事件が、1909年10月26日、哈爾浜駅構内での、安重根による韓国統監府初代統監を退任していた伊藤博文暗殺である。)
だが、韓国駐剳軍司令官長谷川好道は「南韓討伐大作戦」を断行し、徹底的な焦土作戦や包囲作戦などによって鎮圧した。
これによって義兵側に1万7千人の死者が出たとされているが、実際にはもっと多かったとも言われている。(推計10万人)


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