1966/9 昭和41年私は総統に敬礼してから、「私はかつて閣下にお目にかかったことがございます」と申し上げた。
 「いつか。」と聞かれるので「36年(昭和11)の3月、松井石根閣下にお伴して、南京で・・・・」と申し上げた。
 松井大将の名を聞くや、蒋介石の顔色が見る見る変わった。
 ふるえ声で――「松井閣下には、申し訳なきことを致しました・・・・・」と私の手を堅く握りしめて、むせぶように言われ、眼を赤くして涙ぐまれた。
 私は驚いた。一同も蒋総統のこの異様な態度に驚いた。
 周知の通り南京戦の直後、蒋は漢口にいてしきりに対日抗戦の声明文を発表したが、〈虐殺事件〉など一言も触れていない。何応欽軍司令官の『軍事報告書』の中にも一行もない。それを東京裁判は、松井大将の責任で20万余を虐殺したと判決して、絞首刑に処したのである。
 あれほど支那を愛し、孫文の革命を助け、孫文の大アジア主義の思想を遵奉(じゅんほう)したばかりか、留学生当時から自分(蒋介石)を庇護し、面倒を見て下さった松井閣下に対して何らむくいることも出来ず、ありもせぬ「南京虐殺」の冤罪(えんざい)で刑死せしめた。
悔恨の情が、いちどに吹きあげたものと思われる。
 蒋介石は私の手を2度、3度強く握って離さず、目を真っ赤にして面(おも)を伏せた。
 周知の通り、蒋はカイロ会議以降連合国首脳会議から除外されて、発言権を失った。代わってスターリンがのさばり、中立条約を破って満州、南樺太に進攻し、北方四島の侵略まで果たした。
 蒋は東京裁判関係からも除外され、派遣した梅判事はすでに共産党にくらがえしており、南京事件に対して何らの発言も出来なかったのである。
 蒋介石は88歳でこの世を去るまで、松井大将の冥福を祈ったと聞く ・在日中国人女性 鳴霞さん(近畿福祉大学講師)の「親日の告白」(SAPIO)5/25号)
 「未だ法治国家になれない中国には、言論の自由もなく、民主主義国家におけるさまざまな権利を認められた国民も存在しません。教科書新聞、ネット、テレビなどすべての媒体は共産党政府が一元管理しています。
 また、少なくと1億人以上(中国政府発表)の字が読めない人や一般人民が日本の歴史教科書や靖国神社の実態を知るわけがありません
当時私は朝日新聞と読売新聞を併読していました。ところが、1984年頃から朝日新聞が「南京大虐殺」を旧日本軍がやったと大々的に報道することに違和感を持ち朝日の購読をやめました。
なぜなら、中国で「南京大虐殺」は教科書でもメディアでも見聞したことがなかったからです。
 来日して「南京事件」についての論争があることを知り、知人から『南京事件日本人48人の証言』(阿羅健一著)を薦められて読んで、
当時の南京で「虐殺」は起こりうる状況でなかったことを知りました。また、「南京大虐殺」の教典とされていた英紙マンチェスター・ガーディアンの中国特派員ティンパーリの『戦争とは何か』(1938年)が
、国民党の宣伝文書であったたことが国民党の公式史料で判明したことなどで、
私は「南京大虐殺」の嘘を知りました。
 かつて私は中学の歴史教科書で、「毛沢東軍(八路軍)は国民党軍を30万人殲滅した」と教えられました。