◆「やはりヒトを売らなくては。それもオンナを」

「風俗業界に入ったのは意外に遅くて、46歳。いろんな事業で失敗し、完全に無収入になってしまった。それで郡山の自宅を出るしかなくて。それで記憶を辿り、知り合いだった福島市内のピンサロの社長を訪ねたら、運良く拾って貰えたんです」

 伊藤は郡山で生まれた。東京の私立大学を卒業し、食品メーカーに就職。30歳手前になると営業課長になり、100人余りの女性営業部員を束ね、将来を有望視されるなど順風満帆の社会人生活を送っていたが、起業を思い立ち7年勤めた会社を退職する。

 引き金は、25歳の伊藤を突如として襲った胃癌だった。幸い手術は成功し、カラダは快復したが、医者から「5年生きられれば……」と余命宣告までされたと話す。

「〈たった一人の自分をほんとにいかさなかったら、人間生まれてきた甲斐がないではないか〉。ガン克服後、たまたま私の尊敬する専務が黒板にこう書いたわけ。そのとき、自分の人生は一度きりしかないと悟ったんです」

 もちろん、開業資金もなければ具体的なビジネスプランもない。とりあえず保険会社に2年勤め、退職後はその代理店として独立するが鳴かず飛ばず。当時はそれと並行して、ワープロの代理店から下着の訪問販売、便利屋、家を担保に原資を作りヤミ金まがいの車を担保とした高利貸しまで、カネになれば何でも手を出した。

 しかし、全てが失敗。利幅が大きく唯一、順調だった金貸しも、奥さんや子供の前で脅しながら返済を迫るのが肌に合わず足を洗った。

 そのとき、「モノを右から左に売っていてもダメだ。やはりヒトを売らなくては。それもオンナを」と悟ったという。それは、かつて食品会社の営業所で、100人の女性部員を束ねていた経験からだった。

◆繁忙期には1日200人のオンナを回した

 伊藤の読みどおり、オンナを使ったコンパニオンの派遣業は、かつてないほど大当たりする。組織はあれよあれよという間に拡大し、10年後、東北最大規模にまで膨れ上がった。

「便利屋をしていたなかで、福島中央テレビが主催する輸入家具の展示即売会に売り子を派遣して欲しいという依頼があり、コンパニオンと称して売り子を40、50人募集し、定期的に派遣するようになりました。

 不思議なもので、軌道に乗るとドライブインのウェイトレスや旅館やホテルの仲居さんを派遣する依頼も舞い込んできた。そうこうしてるうちに、今度は取引先の旅館から『コンパニオンも何とかならないか』と相談が。それで輸入博の女のコふたりを磐梯熱海の老舗旅館に飛ばしたら、その旅館のオーナーの口コミで他からもコンパニオンの依頼が来るようになっちゃって。

 週末は1日100人。繁忙期には1日200人のオンナを回したこともありました。那須・東山・飯坂・磐梯熱海……郡山からマイクロバス2台、ワゴン車5台で送り届けた。もう毎日戦争ですよ。年商は3億5千万。この10年間は1日も休めなかった」

 女の子を日当1万で派遣し、半分の5千円が伊藤の実入り。派遣先がないコンパニオンは、郡山に開いたキャバクラ3店舗で雇用し有効活用した。常に現金1千万円入りのアタッシュケースを持ち、時には裏カジノで500万を一晩で使う。ギャンブルにハマったこの時期は半年で5千万ほど溶かし、カネは底を尽きかけた。

 なーに、また稼げばいいや。仕事は多少下降気味だったものの、幸いまだまだ多忙に変わりない。と、素人経営で突き進んで来た伊藤のところに突然、ありがちな刺客がやってきた。

(続く)