「助けたい」の一心で急行 摩擦乗り越え、同盟強化 米トモダチ作戦から10年
3/5(金) 7:20配信
時事通信
https://news.yahoo.co.jp/articles/966fafe454d5fcb68c339a8c5172a11d884898ad
東日本大震災での米軍の救援活動「トモダチ作戦」は、10年後の今も日米の絆の象徴
として語られる。
経験したことのない揺れと津波、それに続く原発事故。
事態が切迫する中、日米両政府の間には摩擦も生じた。
危機を乗り込える原動力になったのは、同盟国としての義務感ではなく、
「被災者を助けたい」の一心で現場に駆け付けた米軍関係者の思いだった。
◇日米最大の作戦
「日本で巨大地震」の一報。横須賀を拠点とする米第7艦隊司令官スコット・バンバスカーク
氏は、マレーシアのボルネオ島にいた。
津波の映像を見て、瞬時に「大規模な人道支援・災害救助任務になる」と判断。
隷下の全艦艇に出航準備を整えるよう指示し、自らは指揮所機能を備える旗艦
「ブルーリッジ」が停泊しているシンガポールに飛んだ。
ありったけの支援物資を積み込み、震災翌日の3月12日朝に日本に向けて出航。
「米軍のあらゆる能力を動員し、日本を支援する」。
海上自衛隊司令官にこう伝え、米軍最大2万4000人、艦艇24隻、航空機189機を
動員した「日米最大の作戦」が幕を開けた。
◇シャワー使わず
ハワイから朝鮮半島に向かっていた空母「ロナルド・レーガン」にも指令が届いた時、
艦長トム・バーク氏は既に日本に針路を定めていた。
横須賀に2年間住み、友人もいる。
「職業的義務だけでなく、個人的にもできる限り支援をするつもりだった」
同13日に宮城県沖に到着。
大量のがれきや流木、家屋が漂い、その上を歩けるほどだった。
生存者はいなかった。
原発から飛散する放射性物質を警戒しつつ、艦載機で上空から孤立集落を捜索。
空母を海上の滑走路として支援物資をヘリで分配した。
「何もしないという選択肢はなかった」。
海兵隊キャンプ富士(静岡県)の指揮官クレイグ・コゼニスキー氏も、被災地支援に
手を挙げた。
基地にあったトラックや重機を活用し、仙台国際空港の復旧支援に参加。
同19日に現地入りした際には「イラク戦争でも目の当たりにしたことのないほどの破壊」
に衝撃を受けた。
滑走路のがれきを撤去し、物資を配布した。
設置した仮設シャワーは「被災者のために」と一度も使わなかった。
「日本の人々は支援物資を本当に必要とする人に譲っていた。
こういう人たちだからこそ、少しでも力になりたいと思った」
◇震災の教訓
一方、日米両政府の間にはあつれきが生じていた。
在日米大使館の政務担当公使だったロバート・ルーク氏は「日本政府は原発事故に
関する情報を持っておらず、米政府が要求しても共有できなかった」と指摘。
「問題は、日本政府が情報不足を認めたがらなかったことだ。
このため、日本が何かを隠しているのではないかと疑念が生まれた」と説明する。
在日米国人の退避案も浮上した。
そんな時、両国をつなぎ留めたのが米軍と自衛隊が培った協力関係だった。
「被災者を助ける」。
その一点に全力を挙げるトモダチ作戦に引っ張られるように、政府間の情報共有
の枠組みが立ち上がり、摩擦は徐々に解消された。
ルーク氏は「トモダチ作戦は難局における日米両国の結束力を示し、同盟をより強固にした」
と強調。
中国が影響力拡大を図る中、地域安定の要となる日米同盟の重要性は増しているとし、
「震災とトモダチ作戦から得た教訓を長年にわたって生かしてほしい」と語った。