(写真)
https://img.seoul.co.kr/img/upload/2021/07/11/SSI_20210711231038_O2.jpg
▲ 1936年8月14日付の東亜日報に掲載された百補丸の広告。
_______________________________________________________

日帝強占期に『百補丸(ペクボファン)』という薬、最近の用語で言えば健康補助剤があった。全身衰弱、精力不足、腰痛、手足の冷え症、記憶力減退、消化不良、貧血などに効能があると宣伝した。 『この効力を未だに知らず、疑って服用していない人は、健康に運のない不幸な人だ』という半脅迫めいたフレーズを載せ、貴族や両班、大臣、朝野名士(朝廷と民間の名士)が百補丸を愛用していると記載した。当時はこのように、どのような薬でも万能の新薬として誇張しても制裁する術はなかった。。

1936年のベルリンオリンピックのマラソンで孫基禎(そん・きてい)が優勝すると、すぐさま平和堂(ピョンファダン)は百補丸の広告に活用した。広告には、『孫基禎万歳』というフレーズと孫基禎が走っている写真が目につく。『百補丸はオリンピック選手も既に服用している』、『独逸(ドイツ)伯林(ベルリン)オリンピックの選手にまで愛用された補薬は実際に百補丸だけで、百補丸は補血強壮剤でもちろん世界一です』と記載し、孫基禎の優勝に関連づけた。彼だけではなく、『百補丸、健康剤中、品眞效大、呂運亨(ヨ・ウンヒョン)』と記載した、当時、朝鮮中央日報の社長だった呂運亨の親筆も広告に盛り込んだ。呂運亨が朝鮮中央日報の運動部を通じ、ベルリンオリンピックの選手たちに激励の手紙とともに百補丸11箱を送ったとも記載した。当時の大物である呂運亨がなじぇ薬の広告に動員されたのかは知る由もない。

平和あたりは1930年頃に創業した後、1941年に日帝の企業整備令によって閉鎖となった。 元々は印刷所だったのだが、製薬会社の広告を印刷する薬品部を新設して百補丸を製造、販売するようになったという。『胎養調経丸』などを製造、販売していた有名製薬会社の和平堂は、平和堂が似たような名前で開業するとすぐさま訴訟を起こした。平和堂は有名人を広告に活用するとともに、当時としては破格的な景品イベントで消費者の注目を集めた。特等景品は当時としては珍しい足踏み式ミシン、1等は純金の時計バンド、2等は雄牛一匹か3段螺鈿漆、18金腕時計など、3等は自転車か電気時計など、4等は置き時計など、5等は日傘か万年筆などを掲げた。そして5万人に贈る景品総額は約8,898ウォンと朝鮮初の大景品イベントを誇示したが、1930年代は米1カマ(俵擬き)の価格が10ウォン程度だったため、米900カマ(現在の価値で約2億ウォン)に相当する金額である。景品の広告には、『百補丸の効力が天下一というのは三尺童子(幼児)でも知っていて、西洋からも日々注文が殺到している』という誇張したフレーズが掲載された。 当時、近代的な製薬会社を目指していた柳韓洋行(ユハンヤンヘン)は、平和堂のこのような誇大広告を非難する広告を掲載した。

ソース:ソウル新聞(韓国語)
https://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20210712030002&;