ー前略ー
 ところで、評者はかつて戦後の朝鮮分断を「独立と統一の非両立性ないし相克」と定義したことがある。
それは「独立を達成しようとすれば統一が不可能になり、統一を実現しようとすれば戦争が不可避になるという不都合な状態」に着目するものであった
(『朝鮮分断の起源』、慶應義塾大学出版会、二〇一八年)。
しかし、著者はむしろ二つに分断された韓国と北朝鮮が、それぞれ長期にわたって独立を維持していることに注目した。
朝鮮史においては、それこそ例外的だというのである。「分断による抑止」とか「分断による平和」という言葉が頭に浮かぶ。

 一三九二年に太祖(李成桂)が始めた朝鮮王朝が最初に滅亡の危機に瀕したのは、豊臣秀吉の軍勢が朝鮮に侵攻したとき、
すなわち十六世紀末の文禄・慶長の役による。首都である漢城は開戦から二十日間で陥落した。
朝鮮が滅亡しなかったのは、明が参戦して日本の軍勢を押し返したからである。
しかし、その明が疲弊し、日本が鎖国に向かうなかで、再び朝鮮半島の勢力均衡が失われた。
一六三七年、朝鮮は清の皇帝に即位したホンタイジに攻め込まれ、四十日余りの籠城の後に降伏して服属を誓った。

 他方、その間にも朝鮮国内では「党争」が激しく、それが国難への合理的な対処を妨げた。
それに対抗するために、国王の側も英祖・正祖の代には「蕩平策」(特定の党派への過度の依存を避け、勢力均衡を図る政策)を採用した。
しかし、それに行き詰ると純祖の代には寵臣や外戚の専横を許す「勢道政治」が始まった。
王朝政治のためにさまざまな政治技術が開発されたが、党争を収束できなかったのである。
政治腐敗と自然災害で民衆の生活は困窮し、民乱が頻発した。

 さらに、やがて宗主国である清自身がアヘン戦争、アロー戦争、太平天国の乱など、内憂外患の深刻な状態に陥った。
自らが西欧列強に領土を侵食されるなかで、清は富国強兵を進める日本を警戒して朝鮮への干渉を強めた。
朝鮮の独立をめぐる日清の対立が深刻化したのである。
さらに、日清戦争に勝利した日本が内政改革を通じて朝鮮政治への干渉を拡大すると、朝鮮はロシアに接近した。
その先に待ち構えていたのが日露戦争と韓国併合であった。

 ところで、著者は朝鮮王朝がすでに破綻の危機にあったことを前提にすれば、日本は「なぜ」自国の負担になりかねない国を併合したのかという
興味深い問いを発し、伊藤博文と山県有朋が異なるアプローチを採ったことを紹介している。
ちなみに、著者は『天皇の韓国併合』という研究書をまとめた専門家である。

 伊藤は韓国併合に反対であった。併合のコストが大きすぎたからである。
日本が大韓帝国を統治して、その破綻に瀕した国家財政を引き受けるよりも、むしろ韓国を保護国として内政を改革させ、
経済を振興して自国を防衛させることが重要であると考えた。
将来的には、そのような韓国と同盟して、日本の安全を図るという戦略方針を描いていたのである。
そのために、伊藤は韓国の宮中改革に着手し、次代の皇帝と目される皇太子の李垠を東京に留学させた。長期的な計画であった。

 しかし、一九〇九年十月にハルビン駅頭で伊藤が安重根に暗殺されると状況は一変した。
伊藤に代わって最高実力者となった山県有朋やその下にあった寺内正毅陸軍大臣などの陸軍閥は、
統治コストを顧みることなく、韓国併合に突き進んだのである。
それは思慮不足に由来する「小さな失敗」にすぎなかったかもしれないが、満洲事変にまで繋がる後戻りのできない「大きな失敗」の出発点でもあった。
大英帝国がヨーロッパ大陸との間の数百年の経験を経て「栄光ある孤立」を維持したことから学ぶべきであった。
ー後略ー

[レビュアー]小此木政夫(慶應義塾大学名誉教授)
おこのぎ・まさお
新潮社 波 2023年7月号 掲載

全文はソースから
7/7(金) 6:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/3c6fcfd047d61a19acf963682829b383d642b8ec