>>223
「移住者の主流を形成した労務者は、初めはみずから進んで移住しようとするものが僅少で、多くは内地の企業会社の勧誘に応じてきたものであつた。
その先駆をなしたものは、大阪府の摂津紡績で、その木津川工場が明治四十四年(1911年)に、兵庫県明石工場が明治四十五年(1912年)に朝鮮で募集している。
大正二年(1913年)の応募者は十六名にすぎず、その後五年間に十一回の募集で二〇八名を得ただけであつたという。

大正二年(1913年)に岡山の東洋館マッチ、三年に大阪の東洋紡績三軒屋工場、兵庫の川崎造船所、大正五、六年に大阪の住友鋳鋼所、吉備造船所、
兵庫の神戸製鋼、三菱造船等が労務者募集を朝鮮で行つた。また済州島でも大正三年以来行われた。
朝鮮人は言語が通ぜず、教育程度がひくく機械の取扱に適せず、技術を要する労務に機敏でない等の欠点があつたが、勤勉で、困苦にたえる体力があり、
どんな下等な仕事でもいとわず、とくに労銀のやすいことは、内地企業家の歓迎したところであつた。
朝鮮で、教育が普及して行き、一方、内地に行けば「職がある、喰える」ことが喧伝されると、一働きに行くものは、水の低きにつくような自然の勢となつた。」
森田芳夫「在日朝鮮人処遇の推移と現状」1955年


>初めはみずから進んで移住しようとするものが僅少で、多くは内地の企業会社の勧誘に応じてきたものであつた。