一般には、地震の発生時刻がお昼どきの炊事の時間帯であったことから、合計136件に及ぶ複数の火災が同時発生し、これに折から能登半島付近にいた台風の余波による大風が重なって被害を拡大させたと説明されています。
逆にいえば、わずか136件なのです。
その数は正確に把握されているし、この136件のボヤや、震災後すぐ、消し止められています。

にもかかわらず、火は火災旋風を引き起こしながら広まり、鎮火したのは2日後の午前10時頃です。
被災した市内の気温は、この間、ずっと40度を超えるものとなりました。
火が消されたのに火災が広がったのです。
それが鎮火したのは二日後です。
いったい何が起きたのでしょうか。

最初の地震では、東京市内の建造物の被害として、たとえば凌雲閣(浅草十二階)が大破。
建設中だった丸の内の内外ビルディングが崩壊して作業員300余名が一瞬で圧死するなどの被害が発生しています。
震源に近い横浜では、官公庁やグランドホテル・オリエンタルホテルなどが、石造・煉瓦作りの洋館であった事から一瞬にして倒壊して、ここでも多くの死者を出しました。

一般の家屋でも、倒壊や倒壊の危険から、多くの人は日頃の訓練に従って、指定避難所に退避していました。
そこは土地が広てく、安全な場所だったからです。
安全だから指定避難場所になっていたのです。
ところがその避難場所が、地震の「翌日」になって火災のために丸焼けにされています。

たとえば、東京の本所区横網町(現在の墨田区内)にあった本所区被服廠は、2万430坪もある広大な敷地内に4万人近い人が避難していました。
ところがその避難所を火炎柱が襲い、ここだけで3万8千人も亡くなっています。

集まっていたのは、もちろん地震による家屋倒壊等によって避難を余儀なくされた人達です。
安全だから、被服廠にいたのです。
そこを震災後まもなく消し止め終わっていたはずの火災が襲ったのです。

それだけではありません。
なんと爆弾を使った建物破壊や放火までありました。