一進会の主張はあくまで日韓両国民の対等な地位に基づく日韓共栄であって、日本の考える外地としての併合とは全く異なるものであることや、日韓併合については韓国側の要求は一切受け入れない方針であったため、日本政府は一進会の請願を拒否した。これは、当時の大韓帝国の巨額の債務や土地インフラに膨大な予算が必要になることから日本国民の理解を得ることは難しいとの政治判断からであった。一方、一進会の宋秉oも、韓日の対等合邦は国力の差から困難であると判断して韓日併合論を展開し、1910年(明治43年)、第2次桂内閣により韓国併合がなされた。