◆周王朝に朝貢していた倭人国歌

前漢の司馬遷が撰述した『史記』によると、
紀元前11世紀に周の武王が殷王朝を滅ぼすために挙兵する。

酒池肉林として知られる過度の放蕩や暴政をしていた
殷の最後の王である帝辛(紂王)は
牧野の戦いで武王に敗北し、
首都の朝歌に撤退した後に鹿台に上り、焼身自殺した。

紂王の叔父で宰相だった箕子とその一族は、
武王の好意により処刑される事なく朝鮮半島に亡命した。

そこで彼は現在の北朝鮮のあたりに「箕子朝鮮」を建て、
周に臣従の礼をとったという。

箕子は東夷と周の仲立ちをした。
そして1世紀に王充が著した思想書『論衡』には、
周王朝2代目・成王の時代に「倭人が暢草を貢した」と書かれている。

外交記事における「貢」とは、
国レベルの貢献交渉があった時にのみ適用される語なので、
周代には倭人の国があった事を意味する。
それがどこなのかは明らかではないが、
中国東北部から朝鮮半島、今の日本列島にまたがる
いずれかの地域にあった可能性がある。