◆日本に渡ろうとした孔子

対して"韓"を含めた東夷諸国の条では、周の古法への言及はほとんど無い。
このような対比からすると、日本列島だけ
周王朝の文化やシステムで統治がなされていたとみられる。

弥生時代に一大集落があり、稲作が最も早く開始されたのは北九州とみられるが、
九州島の「九州」とは、周代における中国本土を意味し、
太宰府の「太宰」も周代における国の最高執政官の呼称である。

この点についても周王朝の影響がみられる。
おそらく弥生時代のクニグニの中枢には
周の人間がいたのではないだろうか。

また、先に述べた、1世紀に後漢の班固・班昭が著した
『漢書』倭人の条の冒頭にはこのように書かれている。

「故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。楽浪海中有倭人…」

孔子は道が行なわれないことを悼み、
渡海して九夷(東方の野蛮な諸国)に住むことを欲した。
特に楽浪から海を越えた先にある倭人の島に移住しようとしていた。
という意味であり、ここから倭人の紹介に入っている。

孔子が住んでいたのは山東半島のつけ根の魯国で、
始皇帝と徐福が出会った山東省の一角でもある。

紀元前6世紀半ばの孔子が日本列島への渡海を希望していたという話は
300年後にこの地から日本に渡った徐福と無関係ではないだろう。

既に孔子の時代に日本列島の事は知られ、
山東半島を起点とする日本列島への
渡海ルートも開拓されていたと思われる。