1983年4月の短大卒業後は叔父の紹介で小平市の印刷会社に就職し、印刷機オペレーターとして勤務[20]。勤務態度は極めて悪く、評判も非常に悪かった[21]。1986年3月に上司から神奈川県への転勤を勧められたが、本人が拒否したため自己都合退職[注 2]する[22]。家業を手伝うよう両親が何度か声をかけたが、自室にこもる生活が数か月続いた[23]。9月ごろから家業を手伝い始めるが、広告原稿を受け取りにいく程度の簡単な手伝いであった[24]。このころアニメの同人誌を発行するが、態度や言動から仲間に嫌われ、1回だけの発行で終わっている。その後は数多くのビデオサークルに加入し、全国各地の会員が録画したテレビアニメや特撮番組のビデオを複製し交換・収集するようになるが、持つだけで満足してしまい、テープのほとんどは自ら鑑賞することはなかった[25]。

1988年5月16日、祖父が死去[26]。8月22日に第一の犯行を起こす[27]。1989年3月には晴海のコミックマーケットに漫画作品を出品している[28]。

刑事裁判

死刑執行

オタクバッシング
編集

宮アの部屋は、窓と壁がビデオテープで覆いつくされていて、そのビデオテープは約6000本あった。本棚には『リボンの騎士』『ゲゲゲの鬼太郎』などのアニメ作品が並んでいた。床には少女雑誌などが散乱し、暴力的、性的、猟奇的な内容の漫画やビデオが多数あった、幼稚園の入園案内パンフレットや女性が写っているテニスクラブのパンフレットなどがあったことから、おたく・ロリコン・ホラーマニアであるなどと報じられ、マスコミではそれらの悪影響を主張する意見が噴出し、ネガティブイメージが広まることになった。

まんまネトウヨおじさんの半生て草