少しは歌謡曲の話でも【5時から男のララバイ】
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歌謡曲なんて何で聴いても同じだろ!
そう思ってるアナタ。
ヌンチャクひとつで男を磨け。
前スレ:
少しは歌謡曲の話でも【四畳半・ナイトクラブ】
ttps://lavender.5ch.net/test/read.cgi/pav/1490268634/
少しは歌謡曲の話でも【御三家・三人娘】
ttp://mint.2ch.net/test/read.cgi/pav/1478948029/
少しは歌謡曲の話でも(プレイバックPart2)
ttp://mint.2ch.net/test/read.cgi/pav/1472355982/
少しは歌謡曲の話でも
ttp://mint.2ch.net/test/read.cgi/pav/1465126238 日本でのコンセプトアルバムというと
ザ・タイガース「ヒューマン・ネイチャー」を挙げる人もいるが
圧倒的な影響を与えたのはフォークル「紀元一千年」だ。
個人的には、あがた森魚「乙女のロマン」と吉田美奈子「フラッパー」が最高と思ってるが
一般的には「風街ろまん」「黒船」「氷の世界」のほうを挙げるだろう。
「ナイアガラ・ムーン」「トロピカル・ダンディー」というノベルティ色の濃い競作も
なかなか聞きごたえのあるものである。
単に名曲アルバムではなく、バンドのもつ世界観のようなものを
45分弱のLP盤に収めることで、長く聴き続けられる内容になっている。 これは全くの個人的趣向だが
コンセプト・アルバムの世界観を、ステレオのサウンドステージに求めずに
モノラルで横一線に並べて聴き通すというのが、私の流儀である。
賛否の激しいことは承知だが、演奏者のパフォーマンスを洗い出して
音楽語法のみに耳を傾けようとした場合、実際こうなるのだ。
これはスピーカーがアメリカンな直接音主体というのもあるが
楽音とガチで向き合うのに、さらにモノラルで研ぎ澄ます感じでもある。
あとステレオは集団的な行為のなかで、個々の音が存在するが
モノラルの音は一人称としての音からスタートし
全体がひとつのパーソナリティとして存在する。
つまり、集団と個人の間に存在する壁がなく
しかも各々の個性にブレが生じないのだ。
私自身の認識が幼稚で原始的なのだと思うが
モノラルのように一人の人が語っているという認識がなければ
自分以外の集団がバラバラに意見を交わしているように感じ
第三者の視点で眺めているような気分になって
なかなか音楽の内容にまで入り込めないまま時間が過ぎる。
モノラルだと不思議に、パーソンtoパーソンで語ってると感じるのだ。 さてコンセプト・アルバムに話を戻すと
バンドが音楽で語るメッセージを受け取る側の態度として
オーディオのサウンドデザインがある。
それはバンド毎に違い、楽曲ごとに工夫が凝らされ
バーチャルなステレオ空間を再現しようと思ってる。
しかし、私自身には、個々の楽曲のサウンドステージの再現は
気の遠くなるような作業であり、個別に対応するのは煩わしい。
そこに時間を割くくらいなら、パフォーマンスから音楽語法を読み取ろうと
随分と乱暴な手段に出ているのだ。ステレオ録音のモノラル・ミックスである。
ミュージシャンの個々のパフォーマンスを抽出する方法は
実はモノラル期のモダンジャズで顕著に表れており
パーソネルという呼び方から察するように
メンバーの組合せで音楽の内容がガラッと変わる。
これがコンセプト・アルバムの原初的な認識方法のひとつである。 >>539
長文で分かりづらいが
>モノラルだと不思議に、パーソンtoパーソンで語ってると感じるのだ。
長距離トラックの運転手はFMのジェット・ストリームではなく、AMのラジオ深夜便聞くようなもんか >>541
芸人がAMラジオのパーソナリティを務めたときに
ライブだと多数の観客の反応をみて話すけど
ラジオだとパーソンtoパーソンで話してる感じだと言ってたな。
リスナーの反応もまさにそんな感じで
一般論や噂ではなく、自分の身の回りの出来事をネタにする。
確か永六輔だったか小沢一郎だったか忘れたけど
ラジオは家の勝手口から入って話すようなものと言ってた。
モノラル試聴は、ラジオのような即興で話すのとは違うけど
歌謡曲の臨場感には、剥き出しの声で聴く感覚があると思う。 某所に1980年のソニーのシスコンカタログが出てた。その中からスピーカー部を
ttps://bouya.officew.jp/wp-content/uploads/1980/03/sony-8-0144.jpg
大きさの割に軽い。今の、たとえばダリのSPECTERやZENSOR、OBERON(その後継機)、
そのトールボーイ型を見るような感じがした。
この手のシスコンでニューミュージックを、って人も多かっただろうね・・・
ttps://bouya.officew.jp/sound-sensor-do-1980-03/(カタログ概要) あと写真や絵画に喩えると
歌謡曲のパースペクティブは肖像画であって
風景や群像がメインではないように思う。
ステレオ再生は、パースペクティブが広すぎて
自分には焦点が絞れないように感じる。
コンセプト・アルバムに話を戻すと
バンドのサウンドが既に群像なのだが
それをさらに広いサウンドステージに載せるよりは
個々人のパーソナリティに焦点を絞ったほうが
楽器間の対話が分かりやすいと感じる。
実際、マイクではそのように録っているので
元の状態に戻しているというべきなのだが。 >>543
1980年代前後のシスコンは、なかなか評価が難しく
例えばこの筐体のスピーカーで、最高機種のアンプが60W。
バスレフの設計も共振100Hzくらいじゃないかと思うくらい大きい。
おそらく1〜2Wの小出力でバランスが取れるようにできてると思う。
ビギナー向けのソニー製スピーカーについて菅野氏の評では
細かい音を聴き込むよりは、ジャズやロックを迫力で圧すようなのに向いていると。
アンプについての瀬川氏の評では、ステレオ感を抑えて中央に凝縮した感じだと。
いずれも、高域がタイトに締まり過ぎていることから来ている。
アンプにリバーブが付属しているのは、そういうことへの対処だろうか。
瀬川氏が、この時代のシスコン用スピーカーの一般論として
高次歪みが多くてクラシックが聞けたものではないと嘆いていたが
メーカーもテレビやラジオで聴く歌謡曲の音調に合わせていたとか
デパート売り場で聴き映えの良いように設計していたとか色々。
ニューミュージック系、といっても歌謡曲にもかなり足を踏み込んだ人たちは
自宅で洋楽聴くためにJBLを購入する人が多かったので、少しズレがある。
LE8T、4311、L200と予算に応じて色々。L26 Decadeが丁度良い。 ニューミュージック系で一番影響力のあったのはヤマハで
有名なセンモニはともかく、それより下位機種のNS-690のほうが
ニュートラルで聞き易い音だったように思う。
ビクターのSX-3シリーズもロングラン機種で
大瀧詠一が自宅スタジオに置いていたことでも知られる。
あとビギナーに人気のあったのがダイヤトーンのDS-25Bで
長岡鉄男の使いこなし術でも結構出番が多かった。
FM誌での広帯域でキレのいいサウンド指向は
どう考えてもポップス愛好家向けのメッセージだった。 >>545
はじめから単品コンポーネント用として設計・発売されたスピーカーやアンプと、
>>543みたいに、シスコン用としての見栄え、イメージだけで、単品コンポーネントとしてはもとより、
後々のグレードアップは全然考えられていないものを、瀬川氏は「コンポーネント・コンプレックス型」と書いてた
この頃に、一般向けのステレオとして多く売り出されたシスコンの多くは後者に入るんじゃないかな
(ある意味で、当時のオーディオブームを支えてた物だと思ってる) >>547
難しいと思ったのは、例えばおしゃれなテレコとか
サウンドとしての統一感の高い音響機器と比べると
明らかに高水準であるはずなのに思い出にならない。
この価格帯がオーディオ・ブームを牽引していたのは
メーカーの稼ぎ頭として、より高度なオーディオの開発費として
広告塔になっていたという切ない現実もあってのこと。
結局、メーカーの本気度が試されていたのだと思う。
今はその逆で、フラッグシップよりは2番手のほうが
上位技術の流用も含めて価格対満足度が高い。
高級料理屋のまかない飯という感じで豪華。 オーディオ機器には、昔から価格帯というのがあって
598のスピーカーは大激戦区、それに合わせる598のアンプも好調
3wayでモニター風、物量を投じたオーディオ機器という鳴り物入りだった。
そのうち398でも激戦が繰り広げられ、ベストバイの言葉が独り歩きした。
私自身は、横並びが好きな日本人のこと、あっちが出せばこっちも負けるなと
経営陣からけしかけられて、それほど拘りも愛着もない製品郡が大量生産され
バブルが弾けると共に早期撤退という憂き目にあったのだと思ってる。
そうした製品のこと、その当時ヒットしたポップスのことをどう捉えて良いか
今でも相当に悩ましくて、積極的に取り上げることができない。 別の視点からみると、ウォークマンとシャカシャカ音というティーンズがいて
そっちのほうがデフォルトのように思える。
オーディオ・メーカーの経営陣ほどにもステレオへの憧れはなかったのだ。
頭内定位で脳みそをかき回すサウンドが、不愛想な電車のなかで
自分の居場所を守ってくれた。
実はヘッドホンのメーカーも、音楽のパーソナル化には早くから気付いていて
KOSSのユニークな広告は今でも通用するインパクトがある。
ttps://i.pinimg.com/originals/39/a1/49/39a1495cd132460b626378b10c8b83d6.jpg >>548
>フラッグシップよりは2番手のほうが上位技術の流用も含めて価格対満足度が高い
2番手から3番手あたりは、メーカー自身はほとんど宣伝に力を入れていない感じなのに、
使ってみると充分に満足できるものが多いね
スピーカーとアンプ、CDプレーヤーに限れば、だけど・・・
アナログプレーヤーだけは、実売5万前後からそれより下(セラミックカートリッジの物も含む)、
そのあたりは似たような新製品がある(最近もソニーからBluetooth内蔵の物が出た)
このスレで出ている音楽を聴いて大人になった層と、その子供の若者世代にアピールしてるのはわかるんだけど、
長く使える物は少ない感じがする
それより上になっていくと、テクニクスのDJ用以外は、ラックスマンのPD-151+E-250(フォノイコライザー)までいかないと
まともな物がないから、値段の開きが大きすぎる ウォークマンが流行る少し前に、バブルラジカセの時代があり
原宿の竹の子族の必須アイテムだったほか
アメリカのヒップホップシーンでも肩に担いで闊歩する男たちがいた。
日本のバブルラジカセは、実にアメリカンな実力を備えていたのだ。
ポップなスタイルを具現化したのは、サンヨー「おしゃれなテレコ」で
これで1980年代のアイドル歌手を聞いた人は多かったのではないだろうか。
現在のラジカセ図鑑なるものの3/4は1980年代以降の機種で
1970年代がカンブリア紀なら、1980年代はジュラ紀、今は氷河期で石器時代である。 >>551
オーディオ製品のグレードは指数的に費用が掛かるのが
いつも問題にはなるね。2倍掛けても違いは1.5倍あれば良い方。
最初の10万までは順当でも、20万を越えると
次は50万、100万と上がらなければ、ただの音の違いだけで
グレードの違いまでは分かりづらいところがある。
普通のサラリーマンにとっては辛いもんです。
レコードプレーヤーの中級機は、少し前までデノンの一人相撲で
最近になってテクニクスが投入するまで、競争の意識がなかった。
海外のトーレンスなども参戦して大いに盛り上げてほしい。 外国じゃあビニールレコードは右肩上がりの成長ジャンルで、ソフト、ハードメーカーとも力を入れ始めたそうだ
物を大切にする?ヨーロッパ人は結構レコードを聴き続けていたらしく
REGAを始め安くともそこそこ音のいいプレーヤーが作られていたね
日本じゃあ中華パチモンのゴルフボールか、テクニカのPL300しか選びようがなかった クイーンの日か。
みんな飽きっぽいからね。
円盤リリースまでテンション持たないよね。
意外と売れないに10万ボリバル賭けよう。 おつとつと
ブラウザの入力テストしてたら誤爆したねw
失礼 CDが出た頃に生まれた幻想が、どのプレーヤーで鳴らしても同じ音
収録された音源はスタジオの音そのまま。何も味付けしないで素直なほうがいい。
そういう感じで、オーディオ趣味で工夫する点がリセットされたように思う。
例えばケーブルの話を聞いても、音質のコントロールではなく
あえて情報量の多さに話題が集中するのは
音源が常に正しい状態にあるというスタジオ性善説に基づいている。
一方で、CDがコンパクトなのに十分に高音質ということで
それまで大きくて重ければ音も立派になるという
見掛け通りのアナログ的なヒエラルキーが崩壊して
CDラジカセ、CDウォークマンでの試聴でも
CDの音はそのまま高音質で聴けるという誤解が広がり
オーディオ自慢というものが成り立たなくなった。
小さくても立派な音というのは、アナログ時代には痩せ我慢でしかない。
それを誰もが知っていたので、大きく強いオーディオ機器に憧れた。 しかし、歌謡曲の再生を考えたとき
歌手を中心にシフトする音響効果が通り一遍ではなく
ときには大掛かりなフェイクを使ってでも立派に聴かせようとする。
つまり、スタジオでは正直者はバカをみるようなところがある。
もうひとつ、痩せ我慢も限界までくると清貧という美しい言葉に代り
私などはテレビの楕円スピーカーやラジカセの音が原音だと思ってる。
つまり、低レベルの音響機器でも、音楽の本質を見失わない
サバイバルにも通じる生命力こそが歌謡曲の魅力でもある。
これらの、フェイクな清貧は、日本国民の中流意識そのもので
オーディオでおいて中流こそ美徳たらしめる、節度ある価値観をもたらす。
本音は凄い装置で聴きたくても、「自分のはまだまだ」と上を向いて過ごそう。 歌謡曲の面白さに演出=アレンジの妙があって
それが摂理に基づいた自然現象として捉えるというよりは
パーソナリティを発揮して積極的にアピールしている姿のほうが
再生の方向性として合っていると思う。
つまり、オーディオ装置はそれ自身がパーソナリティをもつべきだし
主体性のない語りで、他人事のように話し出すとシラケてしまう。
ニュースとバラエティーの差をみれば歴然なのだが
事実だけを語るだけでは不十分で、リアクションが大事なのだ。
最近は、オーディオ再生にアキュレート(正確さ)を求めることは十分にやってきたが
演出も含めたサウンドの個性を評価することは、かえって減退していると思う。
オーディオ・ブランドの形成において癖を嫌う傾向にあるし
もちろんそれは横並びの状態も意味する。
嗜好品としての面白味に欠けるとも言えるが
歌謡曲の個性に対し貫禄負けしないように頑張りたいものだ。 現代のハイエンドオーディオは(ミッドクラスでも?)ソフトの音(音の情報)をそのまま再生しよう(音波に変えよう)という思想で作られている
これに対しビンテージはそのまま再生したって聴き心地は良くないんだから、音を変えても魅力的に再生出来た方がいいだろ?との思想で作られている
これは当時のアンプ、スピーカー、レコードなどではそのまま再生しようにも技術的に不可能だったということもあるが
開発時に耳で聞いて、製作者がこれでいいと決めた音で作られたということもあるだろう
ウエスギアンプは正直魅力的な音で鳴らないが、アレはそれ自体がアクが強いが面白い音で鳴る、ビンテージタンノイやアルテックで制作されたからだろう
アンプは裏方で、アンプ自体が面白い音を出したらスピーカーとケンカをしてしまうのだ
4オームでも問題なく作動するが(3Ω切る様なスピーカー繋いだが大丈夫だった)、16Ωのタップが出ているということは
16Ωのスピーカーを繋げてこそ、トランス本来の性能をフルに使いきることが出来る設計だ
ウェストレイクも高音が日本人の耳には伸びきっていないのだが、総帥閣下のお耳にはあれで十分なのであって
高音の伸びたスピーカーなど無駄にシーシー音が聞こえるだっけやねんw
いらんやろ?w 音楽聞くのに
という思想信念信条の元に作られている
ただし、そこは商売なのでST付きも作ってるし、付いていないスピーカーでもオーダーすれば付けてくれるがw アニメの世界では原作に忠実に作ったのが高畑監督のじゃりん子チエで
原作ぅ〜? クッソツマンネーだからオレが好き勝手やって何が悪いんだ?
とアニメを見てから原作読んだ人間がみなひっくり返った作品を作ったのが宮崎監督の未来少年コナンである
まあ原作者があのアニメを見たらどう思うんだろうねえ?
ちな、ファンが作った続編ではそのアニメも改変し
残され島に向かう途中のコナン一行が、ぷかぷか浮かんでるギガントの上で魚釣りをしているレプカ一味を救助したことになっている 昔のSF界でも奇想天外だったかな? 作家の豊田有恒と翻訳家(宇宙塵主催者としての方が有名だが)の小隅黎との間で
原作の文章が下手くそだった時に、翻訳する時に読者が分り易くなる様に訳してやるという小隅に対し
豊田がそれは原作者に対する冒涜だ! 翻訳家は原文に忠実に訳すべきだとの論争が起こった
どう決着が着いたのか覚えていないが、大方のファンは大の大人がなにイキっとるねんw
んなコト言ったら野田大元帥のキャプテンフューチャーはどーなる?
というのが結論だったと思う
音楽も同じだろう
研究者じゃないんだからな 歌謡曲を含めたポップスというジャンルは
カバー曲はもとより、完全にオリジナルな曲想はなくて
パフォーマンス・アートとも言える部分が大半を占める。
原作に対する翻訳という立場は
ジャンルとして確立するときの、ある種の勢いというか、原種の強さというか
音楽が今ここで芽生えようとするときのワクワク感がある。
ビバップでのチャーリー・パーカー、モダンブルースのB.B.キング
R&Bでのレイ・チャールズ、ロックでのチャック・ベリーなど
録音としてチープでも、音楽の生命力はおそろしく強い。
一方で、阿久悠が自身の作詞家憲法で
「美空ひばりが完成させた流行歌」とは異なる新しい歌をつくるために
「歌手をかたりべの役からドラマの主人公に役変えする」
「歌手もまた大きな空間の中に入れ込む手法で、そこまでのイメージを要求していい」
など、歌と歌手の関係をパフォーマンスとして一体化させようと試み
「歌は時代とのキャッチボール。時代の飢餓感に命中することがヒットになる」
という方針を抱くにいたった。結果として、それは成功したと言える。
実際には、服部良一、船村徹のような作曲家が流行歌のジャンルを形成し
その演者として美空ひばりがいたわけで、その時点でプロデュースの大切さを
阿久悠が出発点として見据えていたとも言える。 >>559
ステレオ普及以前のナロウレンジ、雑音の目立つ録音でも、
記録された演奏(歌)の部分は限りなくワイドレンジに聴きたい・・・
それでこのスレをよく見てる
ジャンル問わず、白けた音(録音の段階でそう作ってあるのも少なくない)にしないための鍵のひとつは、
>>408から数レスで出てるトランジェントの良し悪し、だと思ってる
フェライトコアを使ったノイズ対策(数100円にも満たない)は、結構効くね >>563
FMの山下達郎の番組で、2週間キングトーンズの特集をやってた時、
藤木孝と田代みどりの曲(どれも漣健児の訳詞のカバーポップス、コーラスがキングトーンズ)が流れてたけど、
前者は坂本九の、後者は弘田三枝子や森山加代子の何番煎じにしか聞こえなかった・・・w
弘田三枝子や坂本九がカバーした曲は、今聴いてもその人の世界の歌として聴こえるのに、
当時でもレベルが圧倒的に違ったんだな、と思ったよ 個人的な感想では、同じ美空ひばりが歌った同じ曲でも
1950年代のオリジナルと70年代の再録音では随分と印象が異なる。
歌が上手い、録音が良いという感想を超えた
「時代とのキャッチボール」が1950年代には豊富にあると思う。
歌唱の整っていない、ヒットするかも判らずにひたむきに歌う姿に
息吹きともいえる感情の起伏が感じられるのだ。
流行歌をクラシックのように楽曲として扱うとき
その趣向で全く違うのが、美空ひばりと石川さゆりである。
歌手として2つのジェネレーションギャップがあるが
美空ひばりが自分の歌唱力にひたすら拘って録音したのに対し
石川さゆりは楽曲の特徴に合わせて歌唱方法を柔軟に変化させる。
どちらが良いかは色々と意見があると思う。 >>564
モノラル期の録音は、様々な歪み成分を前提に音決めがされていて
スピーカーの分割振動、真空管のリンギング、プレーヤーの振動などを抜きに
純粋に鳴らすと、モノクロ写真のコピーのように素っ気なく聞こえるときがある。
>>565
ウェスタン・カーニバルやテレビ歌番組が、まさに昇り龍のように沸き立つ時期と
それが古典落語のように感じられた時期とのギャップが大きいように思う。
例えば、1950年代前半のポピュラーソングと銘打ったラジオ向けの歌唱は
これより落ち着いたジャズ・スタンダード、シャンソンの流れを汲んでいて
ロカビリーの洗礼をうけた世代とは歌唱方法の違いがある。 音の色彩感は、中高域の2.5kHzから高域の8kHzくらいまでが支配的で
倍音の違いによって聞き分ける。どの録音も複数の楽器が入り乱れるので
特徴的な倍音が混濁すると、楽器の存在そのものが聞こえにくくなる。
そのため、ツイーターの解像度がモノを言うようになった。
Hi-Fiのセオリー通りだとそうなのだが
録音媒体に楽音が忠実に収録されていれば問題ないはずが
実際にはフォーマットの限界があって、何かを失っていることが多い。
昔の場合は再生機器の周波数レンジ、ダイナミックレンジ共に限界があったため
高次歪みと磁気飽和によって、電気的に音の色艶を補うことをしていた。
古いタンノイ、アルテックやJBLはおろか、WEの機器類は歪みの塊である。
一方で、忠実度という点から高次歪みと磁気飽和というのは徐々に解消された。
1970年代にステレオ定位の問題から、インパルス応答が鋭くなったのと比例して
高次歪みが定位感を阻害するとの認識が広がり、まずこれが排除された。
と同時に、ツイーターの指向性を狭くしてチャンネルセパレーションを上げるようにし
録音の側でリバーブなどによって倍音を累加するようなことが行われた。
アンプのデバイスも、真空管からトランジスターやMOS-FETに変わって
パルス成分に対してリンギングやオーバーシュートがほとんど出なくなった。
この時点で、積極的に高次倍音を加えない古い録音は、くぐもった音調に聞こえる。 次に磁気飽和だが、一番大きな影響がデジタル化によるもので
カートリッジ、テープヘッドなどの磁気ヒステリシスによるコンプレッション感が無くなり
さらにレコードのRIAAカーブのもっていた周波数毎のキャラクターが排除され
高域が鈍ることなくダイレクトに再生されるようになった。
このダイナミックレンジのディエンファシスが排除された高域は
ほとんどの場合、突き刺さるような高域として認識され
従来のアナログで培ってきた広帯域のバランスが成り立たなくなった。
逆のことは、低域のエンファシスにも現れており、CDはタイトで痩せて聞こえる。
こうしたデジタル時代の再生バランスの課題を巧く突いてきたのがボーズで
100Hz辺りを10dBも膨らませ、2kHz以上を5dB一段落とすような特性で
バランスを取るようなことをしている。典型的なボストン流儀なのだが
Hi-Fiの初期にAR-3などで行ったことが、繰り返し行われている。
Hi-Fi理論は、何も手を加えず忠実に録音されているようにみえても
実は巧妙にプロポーションを聴覚に合わせてデザインしており
特に音量を実音よりも下げて聴くということを前提に考えると
ラウドネス曲線にあるような聴覚の補正を掛けていくことになる。
実はこの点について、誰もが納得のいく方法が定まっていないのだ。 Hi-Fi初期に、周波数毎のサウンドキャラクターに注力したのが
エレクトロボイス社で、いち早く4way化したタンス型スピーカーを出した。
ttp://www.itishifi.com/2011/02/1953-electro-voice-temples-of-tone.html
スピーカーの箱のことを、Box、Enclosure、Cabinetと色々言うが
キャビネットという言い方がタンス型にふさわしい。
当時のエレボイ社もフルレンジから始まるわらしべ長者のサクセスストーリーがあって
これは自作の多かったHi-Fi初期には付き物だった。
おそらくフルレンジをミッドバスに使った最初のメーカーでもあったが
その下に付く46cm、76cmの超弩級サイズのウーハーは他ではほとんどない。
ttps://audio-heritage.jp/ELECTROVOICE/speaker/georgian400.html
ttps://audio-heritage.jp/ELECTROVOICE/speaker/patrician800.html
実際にこの方法で長者にまで登りつけた人はいないだろうが
あらゆるユーザーに対する製品の保証という点ではインパクトは抜群だ。
1960年代までは非常に高価で市場に出回らず
1970年代以降は、JBL 434Xシリーズにお株を取られた感じだが
各周波数帯域のもつキャラクターを考えるうえで参考になる。 もっともJBL 434Xシリーズの超弩級マルチウェイは
おそらくロックのライブステージでの実績からきたと思えるフシもある。
1972年にGrateful Deadのライブステージに現れた
Wall of Soundツアーは、JBL D130をミッドバスに据えた巨大PAで
ジムランの設計したユニットが再び注目される切っ掛けとなった。
ttp://www.audioheritage.org/html/profiles/jbl/d130.htm
JBLが434Xを出す一歩先に、Westlake社のカスタムモデルが先行しており
日本でもアルファ・スタジオを皮切りにCBSソニー、日本ビクターなどが導入した。
ちなみにザ・フーの設備をみると、434Xシリーズの原型を見ることになる。
ttp://www.thewho.net/whotabs/gear/pa/pa7576.html
ttp://www.audioheritage.org/html/history/jbl-pro/1970s.htm
これと1960年代に卓上プレーヤーでチェックしている姿とは到底重ならないが
同じ人物から出たリスナーへの謙虚な態度としてみると合点がいく。
ttp://apertureleica.com/wp-content/uploads/2019/01/TheWho-17.jpg
日本の場合は、ジャズ愛好家が1950年代のモダンジャズ再興に力をそそぎ
さらには独グラモフォンでモニター採用されたことから瀬川冬樹が御執心された。
一方で日本の家屋では鳴らしにくいスピーカーの一つであった。
ttp://www.audiosharing.com/people/segawa/kyokou/kyo_15_1.htm 話を歌謡曲に戻して、日本のオーディオ事情に照らし合わせると
多少いびつな状況がみえてくる。
その多くの原因が、歌謡曲のリスナーはテレビとラジオで味見してから
レコードを購入するというパターンがほとんどで
レコードの音から入るジャズやクラシックとは大幅に異なる。
よくクラシックやジャズのほうは生音を聞くので
生音との比較でオーディオの品質が担保されているというが
レコードの音はオーディオ機器に合わせてデフォルメされるのが常で
電子的に補完された音響の整合性が高いものが選ばれているだけだ。
その意味では、歌謡曲にもスィートプランがあるはずであり
その方向性が高忠実とは違う方向で発展してきたと考えられる。
この点はJBLのややいびつな歴史をみると、何となく合点がいくのだ。 JBLのいびつな歴史とは、そのほとんどが大型音響機器のダウンサイズにあり
出発点のVOTTがアイコニックに、アイコニックが604に進んで一端終結。
JBLではD130に始まり、LEシリーズで黄金期を築き、そのまま行くかと思いきや
再度PAに挑んで、そのダウンサイズでモニターシリーズが現れた。
一般的にはサウンドデザインが紆余曲折しているのが当たり前だが
それがエンターテインメントのリプロデューサーという点で一貫している。
スウィング・ジャズ、モダン・ジャズ、ロックンロール、ディスコミュージックと
時代の寵児である音楽にフィットさせたサウンドを提供し続けた結果であり
音響的な効果ということに関して、演出が巧いともいえる。
日本には日本の美徳があるのではないか、と思いつつも
録音技術という面では、アメリカで実績を積んだものが大半を占めるので
その再生技術もまた並行しているといえる。
技術導入は実際には5年ほど遅れているため
洋楽の音楽シーンと重ならないように感じてるだけだと思う。 日本にウェストレイク社のカスタムモデルがアルファ・スタジオに導入された際
スタジオ設計の元になったのは、A&Mやモータウンが想定されていた。
それより前は、英EMIのアビーロードであり、JBL 433Xシリーズやタンノイだったが
さらに先を行くためにウェストレイク社が選ばれたというべきだろう。
このウェストレイク TM-2は、非常にギミックな構成であり
高音に2420ドライバーをホーン抜きで使いレンジは16kHzまでだった。
ttps://audio-heritage.jp/WESTLAKEAUDIO/speaker/tm-2.html
しかし、このサウンドからアイドルからニューミュージックまでの
多くの録音が生まれてきたのだから、ひとつの方向性として知るべきだと思う。 ウェストレイクというと、泣く子も黙るアメリカンなシステム構成で知られるが
TM-2をみるかぎり、モニター=正確無比という言葉とは裏腹の
一種の勘に頼ったサウンドデザインだと思う。
まず2440とカスタムホーンを中心に設計したのは判るが
この2440は375を前身にするトーキー用のユニットで高域が伸びない。
JBL本体はスタジオ用なら2420を使うほうが合理的と考えていた。
そこをゴリ押しして2440にして、音圧が合わないので2215を2本にした。
ホーンも9.5Hzまでしか指向性を維持できないため
2420を5.5kHzから被せてなんとか16kHzまで確保している。
つまり、レンジ毎に各ユニットのもつキャラクターで区切られており
アナログ的な質感の限界もここから生じている。
これとオーラトーン5cの中域だけの試聴でバランスを取るのが
1970年代の歌謡曲の流儀であると考えていいだろう。
従来のHi-Fiの流儀を解体することから始まっていたのである。 一方で、JBLがトーキー用に投入した375と蜂の巣ホーンは
アルテック 288と同様のスペックを持ちながらスペースが小さく済む点で
家庭用としても使いやすいユニットのひとつである。
ttp://www.lansingheritage.org/html/jbl/specs/pro-speakers/1954-theatre.htm
初期にはホーンを変えてHartsfield、Paragonに搭載されたので
こちらのほうで見知っているということもあるだろう。
どちらにせよ、ロカンシー氏のデザインは他では考え付きにくいもので
そもそもオーソドックスな構成というのを裏切って成功したといえる。
ここでオーソドックスというのは、電子工学上で割り切れる考え方で
例えばクロスオーバーでユニットの音が干渉しないほうが
ピーク・デイップを造りにくくするというのは常識のところ
パラゴンなどはウーハーのフロントホーンの音をあえて混ぜることで
一体感を出している。
ハーツフィールドの長いホーン構造は、位相の点からいうとデタラメだが
375の再生能力を前面に出すことで、初代VOTTのシャラーホーンの
小型化に成功している。
いずれも、ミッドセンチュリー・デザインのなかでも卓越した存在であり
工業製品の枠を超えたオーディオ機器の在り方を示したともいえる。 1960年代前半まで、スタジオではミキサーでアレンジを考えるということはなく
モニターも名前通りのプレイバック用である。(Playbackはアルテック社の商標)
プレイバックは実物大の音響で演奏の良し悪しを確認するため
A7のような比較的大きなシステムで行うことが多く
グレン・グールドの録音シーンでも、前身の800システムの周りを
うろうろしながら録音を確認する姿が見られる。
ミックス・バランスというよりは、演奏の出来栄えをチェックするものだった。 録音スタジオでミキシングした人工的なサウンドを生み出した最初の世代は
フィル・スペクターが筆頭に挙げられる。
いわゆるウォール・オブ・サウンドが固まる以前の録音では
ポップスにオーケストラの楽器(ティンパニー、ストリングス)を取り入れるかに苦慮してたが
それが「ティーンズのためのシンフォニー」への最初のアプローチだった。
その後にオーバーダブを重ねて、ゴージャスな音の壁を構築する手法によって
レコードでしか聴けないサウンドの創出に大きく傾いていった。
実演よりもファンタスティックな音響を生み出す手法を更に推し進めたのが
ペット・サウンズ、サージェント・ペパーズなどのアルバムだが
バーチャルな音響のタペストリーはポップスのもうひとつの方向性を示す。
こうした録音で問題になるのは、製作現場と家庭での音響の相違であり
オーディオ装置の違いによって印象が異なるという別の問題にぶつかる。
音場感、臨場感という基本的な情報まで創作の対象になっているほか
幾重にも重なる音響効果が、鏡のなかの鏡像のように響き合うため
単純に他に比較できる原音の所在が曖昧になっているからだ。
先の1970年代の歌謡曲とウェストレイク&オーラトーンの凸凹コンビは
購買対象となるリスナーを広く網羅するためのクロスチェック方法ともとれる。
歌謡曲の聴き方には2つの両極端なサウンドデザインを想定していたのだ。 では、レコードでしか体験できないバーチャルなサウンド以前のモニター環境とは
単純にグレードの高い(壊れにくいも含む)オーディオ機器という位置づけとなる。
プレイバックしても、さっき演奏した音を実物大で再生してくれる装置。
それが録音品質と演奏内容のブレのないモニター方法のすべてだった。
その逆とは何か?というと
レコード再生という行為が、ファンタジーへの入り口となるようなものだ。
私などは子供心に、テレビのアイドルは、人間が好ましいと思うように造った
サンダーバードやジャイアントロボと同じようなロボットの一種だと思ってた。
このため、ステレオ時代のポップスは従来通りのリアリズムも残っているものの
非現実的な想像の世界の音も織り込みながら、それがレコードの音として存在する
シュルレアリスムのような感覚を体現しているように思う。
ウェストレイクのモニターが、はたしてファンタジーへの入り口足りうるか?
相当に悩ましい問題ではあるが、ポップス再生の鍵になるように思う。 1970年代の歌謡曲はファンタジーであるとしよう。
実はそこには役柄が実体化するため、3分間に限定された厳しいルールがある。
それで聴き手の心を掴めないなら、永遠に出番が回ってこないというプレッシャーである。
そんな修羅場をモニターでチェックしたように再現しようなどとは誰も思わない。
ところが、ウェストレイクの再生能力には、エンタメの存在感に肉薄するエナジーがある。
例えば、1960年代にオーティス・レディングを生み出したスタックスでは
アルテック A5を轟音で鳴らしてモニターしていた。それであの歌唱が成り立つのだが
流通を担ってたアトランティック社から「ボーカルの音が遠い」と苦情が入った。
当時はオーラトーンのようなクロスチェック用のモニターがなかったので
思惑の違いが他の再生機器では当然起こるのだが、スタックスはこれを頑なに拒んだ。
おそらく、レディングの歌声はダイナミックレンジをいじらない方法がベスト
という読みがあったのと、実物以上に拡声して、細かい仕草まで十分に収録されてるか
チェックしたうえでベストテイクを決める方法が取られたものと思う。
一方では、モータウンのスタジオでは、モニタールームとは別に
ミクシングルームでは家庭用のAR-3aを使って音決めをしていた。
当時はクライアントを納得させるためにプレイバックでOKをもらった後
「最後の仕上げ」のために自宅にテープを持ち帰り
家庭用Hi-Fi機器で効果的に鳴るように調整していたという。
一方で、歌手の衣装から振付まで、レコーディングと並行してプロモートするのも
モータウンの流儀であった。こうした結果がモータウンの黄金期をもたらしたのだ。
こうした、演奏のディテールをしっかり捉えているかのチェックと
それを音響的にダウンサイズすること、ビジュアル的な要素も一緒に考えることなど
現在のエンタメの骨格はスタジオでのモニター方法にも現れている。 1970年代の歌謡曲に必須なのは「振付」であり、ものまねの基本でもある。
1960年代にもテレビの歌謡番組での「演出」はあったが
それは特別に映画のワンシーンのように収録しようと企画したもので
どこのステージでもみられるようなものではなかった。
そこに歌と一体化した振付が加わることで、役柄と一体化した場が生まれるのだ。
実はこの振付とレコードの関係は微妙である。
ビジュアル的なものがないという以上に、マスメディアでの宣伝効果が途絶えると
歌そのものの価値だけで評価されるようになる。
そういう意味で最強だったのは有線放送で、ビジュアルがほとんどない状態で
歌唱内容で人気が測られた。
オーディオでの歌謡曲の鑑賞は、ビジュアルもメディアの補足もない状態で
評価軸をリセットする状態を意味する。
1950年代の歌唱でも並行して評価できるのには
同じスタート地点に立ったときに、メッセージの骨格が整っているからだと思う。 捕捉しておくと、1950年代の流行歌がビジュアル的に貧しいということはない。
むしろ映画興行と並行してヒットした歌も多くあり、ヒット曲を主題にした映画も作られた。
美空ひばりや石原裕次郎などは、むしろ映画スターとしての活動がメインだ。
むしろ歌謡映画を観る機会が少なっていくのと反比例して
流行歌の価値が高くなるように感じる。そこにはオーディオの再生能力が物を言う。 振付もコマーシャルも無くした歌謡曲が
いかにしてファンタジーを回復できるのか?
そこにオーディオの役割と課題がある。
私個人は、エンタメの骨格をハッキリさせるために
古レンジ&モノラルでの試聴を心掛けるが
それは歌手の肉声にできるだけ肉薄したいからで
それが楽曲の成り立ち、つまりバンドの歌声への寄り添い方と
密接に関連していると思うからである。
このときの再生基準は、肉声のリアリズムに基づいているが
それゆえに伴奏のアレンジが求めるファンタジーにも気付く。
それはイントロクイズでも判るくらいの印象の強さであり
歌が背負う物語の扉をひらくファンファーレでもある。
実はこの第一印象を正確に再生することも
歌謡曲オーディオに必要な機能である。 ここで歌謡曲オーディオの課題とは
歌手の肉声を肉体的な存在感に高めるリアリズム
楽曲の第一印象でファンタジーの扉を開くアキュレートさ
などが挙げられる。
ただし、リアルでアキュレートというと、分析的になりがちで
それが一体感のあることがもっと大切なことだと思う。
そのパースフェクティブ(全体像)を保持したまま
歌手のリアリズムと伴奏のアキュレートさを追求すること
さらには周波数レンジやダイナミックレンジの狭い条件で
という難しい注文が並んでいる。
しかし目的は、3分間で体験できるファンタジーなのだ。 一般にファンタジーというと、幻想的という訳語から想像するように
エコーに包まれた音場感と捉えるときがある。
しかし、不思議の国のアリスの挿絵のように、刻銘に描いた銅版画でも
ファンタジーの本質は全くブレない。むしろ奇怪さが浮き立つのだ。
シュルレアリスムの画家ダリやマグリットは、描写はむしろリアリズムに沿っている。
1970年代の歌謡曲のリアリズムは、物量に押し負かされる人間性を題材に
精神性の逃げ場所を捜してさすらっているようにもみえる。
それゆえに、実在感のある肉声がないことには、雑踏にまぎれて見失ってしまう。
そういう儚さもまた歌謡曲の魅力ではあるのだが
儚さと忘却とは全く違うことだけは強調しておきたい。 しかし、テレビの情報が豊富だった時代に比べ
50年も昔の歌謡曲のもってた現実感とはどうなのだろう?
思い出だけじゃない、いつの世にも共通の人間性があると思う。
その存在感が時間の壁を越えて、スッと音になって流れてくる。
私はそれがファンタジーだと感じる。 歌謡曲は、いわば「豪華な庶民性」という1億総中流社会の憧れを示すのは
例えば、ウエストレイクで楽音に磨きをかける一方で
オーラトーンでもサウンドチェックするようなところにも表れている。
これは逆を返せば、オーラトーンの庶民性にウエストレイクという展望を与えることであり
高度成長という現実の経済的な展望と連動していたともいえる。
この楽観的な展望がはたして良いものだったかというと、けしてそうでもない。
高度成長という極限的な緊張感にさいなまれた、むしろどん詰まりの人生のほうが多い。
そうした競争社会をドロップアウトした人たちが、歌謡曲で夢を語っていたともいえる。
やや斜めにモノをみれば、そこが歌謡曲ファンタジーの源泉なのだろう。 大阪万博で明けた1970年代に日本が残した文化といえば
世界的にみれば電子・機械のテクノロジーであり
日本の車、テレビが世界の一流品として認められた時代だった。
それは1960年代末の一時期を覆ったエロ・グロ・ナンセンスを洗浄し
ゴミ溜めのような都会の風景を高層ビルの立ち並ぶオフィス街に変貌させた。
これはこれで、高度成長期の夢の実現だったのである。
一方で、歌謡曲の指向するファンタジーの質は
電子テクノロジーによって豊かになるようなものではなく
むしろ鬱積した欲求、あえていえば負のバイアスに支えられているように思える。
負のバイアスとは、負け犬、不満など、やるせない人間の心の渇きであり
それを口に出すことが悔しい、あえていえば恥ずかしいようなものだ。
歌謡曲のファンタジーは、人々の心の闇を成仏するかたちで存在している。 心の闇を成仏するとは言ったが
50年も前に生きた人々の心の闇とはそもそもどういうものか?
ひとつは日本での都会の存在価値が、世界の中でも急速に高まった時期で
それは主にサラリーマンという商業活動を主にする人々で支えられていた。
言わば物流の拠点になることで利ザヤを得る方法で
農家はおろか町工場で働く人の上流に入ることで経済の中心を形成する。
そうした今では勝ち組となる商社マンがモーレツにせめぎ合う一方で
「都会の絵の具」とか「ひとごみに流されて」、「東京砂漠」にまで発展する。
実はこの他人同士が顔を付き合わせても挨拶も会話もしないストレス状態が
大きなカオスとなって渦巻いていくのが、都会の闇ともいえる。
ここで人々のカオスを吸い込むように、ファンタジーが醸成されていく。 高さ40cm弱のスピーカーシステム2台のセッティングを詰めていって、
モノーラル時代の大型システムのような迫力を出す
(クラシックもポピュラー音楽もそれらしい音色で鳴る)
この要素に大事なことは何だと思われますか?
スレ主氏は1台で聴いているようですが・・・ 1970年代のオーディオ機器に目を留めると
そこにサラリーマンが編み出した機械が多いことに気が付く。
いわゆる宣伝効果を含めた見栄え、スペック、キャッチコピーの数々である。
オーディオ業界もまた、電子社会の夢をつむぐべくファンタジーを醸成していた。
どの製品にも、スーパー、ウルトラの文字が躍っていたが
テレビアニメのロボットものと同じ思考回路でキャッチコピーが生み出された。
実際にはアナログ技術に支えられていた日本の製造業が
デジタル複製に対抗する意匠性を問われたときに崩壊が進んでいったのと同じくして
本当のアイディア、パーソナリティの重要性を考えておくべきだったのだ。
個人的には、この手のオーディオ・ポエムのようなものは
歌謡曲のファンタジーには対抗できないと思ってる。 >>590
小型ブックシェルフでよく言われるのはニアフィールド・リスニングで
90cm(3フィート)の三角形の頂点に頭をもってくことで
理想的な定位感やステレオ音場が得られると言われます。
一方で、この方法はミキシング時点での音場感のデフォルメが必要で
特に小型ブックシェルフは高域の指向性が鋭いので
古い録音では音が痩せて聞こえる傾向はまぬがれません。
音を太くする方法としてはいくつかあって
アンプをKT88、EL156など太い音のする真空管アンプに替える
ミキサーでパンを内ぶりに調整する(音場の離散を防ぐ)
テープシュミレーターなどのエフェクターを使うなどで
基本的には、原音をある程度いじって自分好みに変えることです。
最も効果的なのは、自分のサウンド嗜好に合ったスピーカーを選ぶことで
それを中心にアンプを選ぶというのが普通になります。
というのも、変換機器としてスピーカーが最も効率が悪く音響の癖が出やすいので
これを音源まで遡って変えるとなると、大変な手間と労力を要するからです。
個人的には、JBL 4312Gが価格的にもオススメで
定位感は平面的ですが、伝統的なウォール・オブ・サウンドで部屋を満たします。
逆にこれが嫌なら、それもそれで自分の好みを認めるべきで
例えばテクニクス SB-C700をStereophile誌で評価したときは
Pass Labs XA-100.5で鳴らしてみるようなことをしたり
以前の記憶では211真空管アンプでコテコテのブルースを聞いたり
色々とやっているようです。これもこれで、オーディオのファイタジーです。 解像度は高いがスレンダーなサウンドという傾向は
一般的にはツイーターのパルス応答にもたれかかってるためで
このパルス波の少ない古い録音ではモゴモゴした音になりがち。
単純にはウーハーの応答が弱いためで
アンプにスレッショルドの高い電流供給が求められ
逆に大きな信号が入るとコンプレッションの掛かったようなマッシブさが出る。
クラシックの分野では、古い録音でリバーブを掛けるのは当たり前で
1950年代のリマスター音源の多くは、音がよくなったと言われる反面
今のステレオ試聴に合わせて高域の空間ノイズを加えて下の帯域を引き出してる。
それ以前は、疑似ステレオでボンヤリ、イコライザーでガサガサという感じ。
自分でも再版CDのリマスターの程度に合わせてリバーブは掛ける。 ただし私が音源にリバーブを掛ける理由は
モノラル試聴で低音のタイトなスピーカーを使ってるため。
さらにリバーブの後にローファイのライントランスを噛ましていて
リバーブを掛けてもエコー成分があまり加わらず
むしろトランスから倍音成分を引き出すような効果がある。
それとJensenがリバーブの載りが綺麗なこともあって
中高域での倍音成分がジュワ〜と広がる。
昔ながらのエンタメの演出方法をそのまま引き継いでる。 あとプリメインアンプはそのままに
マッキンのプリアンプや、UREIのDJミキサーを加えることで
ラインレベルでサウンドを整える方法もある。
以前にRANE社のUREIレプリカを使っていたけど
中域に脂の乗ったアメリカンなサウンドで
スレンダーなスピーカーでも相性がよかった。
ただ、これにも限界はあって
周波数のバランスは恰幅良くなっても、ダイナミズムが追いつかない。
気が付いてみると、スピーカーを買い替えたほうが安かった。 質問のカッコにあるクラシックもポップスもということだけど
例えば、現在のクラシック録音は環境音の取り込みが顕著で
低音域では会場の暗騒音、高音ではホールエコーの奥まで覗く感じで
それでいて、楽器の定位感は厳しいパルス波の管理で成り立たせている。
どちらかというと、スピーカーの奥で定位するサウンドステージが好まれる。
このサウンドステージの形成は、BBCの1970年の研究から始まっていて
小型でも周波数バランスの優れたLS3/5aの開発と並行して
キングズホールでの2本マイクでのライブ実況と合わせて練られてきた。
ttp://downloads.bbc.co.uk/rd/pubs/reports/1970-13.pdf
ttp://downloads.bbc.co.uk/rd/pubs/reports/1969-05.pdf
音源としてはBBCレジェンズシリーズが出ていたので参考になると思う。
少し録音は古いがストコフスキーの幻想交響曲など、デッカ盤と比較すると
今のステレオ再生技術に合ってるのはBBCのほうである。
こうした録音と、ポップスの録音とはやや異質な感じもあり
むしろポップスでサウンドステージが現れたのは1970年代末で
それ以前はウォール・オブ・サウンドのようなスクリーン配置だった。
ちょうどこの頃にヤマハのテンモニが出てきて、ミックスの方法論が変わった。
実際にはウォール・オブ・サウンドは今でも健全なのだが
低音と高音のキャラクターの棲み分けのようなものが進んで
サウンドの一体感は逆に保ちにくくなっている。 クラシック録音のデジタル化で一番の恩恵を受けたのは
古楽と現代音楽の分野で
古楽はそれまでのストラディバリウスの呪縛から解き放たれ
楽器の選択、奏法の自由度が高まったように思うし
演奏する場と音楽の関係についての情報も的確になった。
現代音楽のほうも、楽器毎の決まったサウンド指向ではなく
SN比の向上と周波数毎の均質なレスポンスにより
音の現象に耳を澄ますという行為が容易になったと思う。
こうした会場のアコースティック全体を表現の対象にするような楽曲に比べ
ポップスのそれは切り貼りで合成したような感じで
おそらくスコアの読み込みの精度が、ミックスに影響していると思う。
自分としては、ポップスの場合はそうした背景など無視して
演奏者のパフォ−マンスをダイレクトに聞き取りたいので
脱構築的にモノラル試聴をしている。 デジタル化の恩恵を受けたのは民族音楽の分野もあって
楽器特有の癖や演奏する場の関係が分かりやすくなって
これは古楽と一緒のところがある。
ライ・クーダーが御執心だったブエナ・ビスタの演奏集団や
ポール・サイモンが南アフリカのアカペラとのコラボなど
その応用範囲も広い。
ストラディバリウスの呪縛と同じくスタンウェイの呪縛もあって
たとえベーゼンドルファーやベヒシュタインのピアノを使おうと
全てスタンウェイに聞こえるという、ピアノ収録の癖がある。
こうしたアコースティック楽器の音は、ポップスの場合はパーツに過ぎず
楽器の固有性が失われつつある。
ブルーノートでは録音で使うスタンウェイを完全なコンディションで保つため
本番以外で試奏するとすごく怒られるとのこと。
かと思うと、キース・ジャレットやスヴャトスラフ・リヒテルなどは
スタンウェイ的な音造りに支配されるよりは、ヤマハのピアノを好んだ。
単純にトーンが整ってピュアだということだ。 比較的ピュアで原音に忠実たろうとするクラシック録音でも
その再生に癖があって、特定のサウンドデザインから完全に自由ではない。
これをポップスの録音に当てはめると、電子楽器を使い始めた頃から
選択の幅が無限大にあって、結局のところ別の基準に頼って
エレキの音、ドラムの音など、それらしい音のエッセンスで判断することになる。
しかしそれは、高忠実の対象が、演奏の違いまで行き着かないからである。
こうした問題はハイファイ初期からあって
例えばウィリアムソン回路に対する批判は、音の瞬発力の低下であり
大出力で低歪を必要とした低能率のワイドレンジ・スピーカーである。
あるいはデジタル初期で、サウンドのテイストまでコントロールできずに
ノイズは減ったがスカスカで隙間だらけのサウンドステージになったとか
従来の文脈から外れることで、批判されるものは山とある。
オーディオの場合は、録音現場で何かをするということはできず
成功も失敗も含めて、過去に確定した録音を再生することになるので
そのギャップを何とか丸くおさめるのも、ユーザーの手心なのだと思う。 ポップスの録音で、未だにウォール・オブ・サウンドが根強いと言ったが
そもそのヘッドホン試聴がメインになった現在では奥行きなんて判らない。
しかしもっと興味深いのは、音の壁の創案者であるフィル・スペクターが
1990年代に入って「バック・トゥ・MONO」と題したコンピを出したことで
ポップスにおけるステレオ録音の教祖のような存在が
モノラル録音にカミングアウト宣言したことだった。
あれから20年経ったが、影響が1960年代のポップスという範囲に留まるものの
1980年代以前よりはモノラル録音に対するアレルギーはなくなったと思う。
実はモノラル試聴を長く続けていると、モノラル耳が育ってきて
たとえ右耳から試聴していても、明らかに周波数分布の悪い左耳でも
同じ音として認識して、頭の中でグルグル情報交換しているのだ。
なので、モノラルでヘッドホン試聴しても、全く違和感がない。
ようするに普段から脳内で音を反芻しながら聴いているので
モノラルで音を聞くという行為そのものが頭内定位なのである。
先に言ったように、モノラル試聴の基本的な姿勢は
楽器ひとつに配されたマイク1本の生音を
ステレオ・ミックスという一種のアレンジ作業から脱構築化して
元の1本のマイクから1本のスピーカーという関係に戻すことを示す。
これが演奏者ごとのパーソナリティを浮き立たせるのに有効で
その再生用に1940年代のPA技術が役立つという顛末である。 私もそうだったが、完全にモノラル試聴にシフトするまで
モノラルはサブシステムという位置づけだった。
まず自分自身がモノラルと相性がいいか見極めるために
最初から本格的なトーキーのようなシステムに進まず
20cm程度のフルレンジからスタートするのがセオリーだ。
最初はパイオニアのPE-16M、それからエレボイ バロネット
その後にJensen C12R+ツイーターへと駒を進めた。
モノラルでフルレンジという極限までシンプルな構成で
同じ音楽での聞こえ方の違いなどを手掛かりに聞き込む。
モノラル試聴に耳が慣れるまでにはそれなりに時間が必要で
私の場合は2年くらいかけて完全にモノラルに移行した。
今ではステレオ録音もモノラル・ミックスして聴いている。 >>592
手元のスピーカー、定格インピーダンスは8Ωでも、最低インピーダンスが3.6Ωなので、
アンプのインピーダンスセレクターは、低い方に合わせてあります
金属振動板のツィーターのクセが、毎日鳴らして10カ月弱で、ようやく取れてきたので
それに伴って高域の指向性の広さも感じられますが、まだまだ先は長そうです
通常のステレオ再生に比べて、2-3デシベルほどボリュームを上げないと、
満足いくモノーラル再生にならないことが多いので・・・
(アンプのボリュームが8時の位置だと、どうしてもBGM的になってしまう) >>602
モノラルで音圧が下がったように感じるのは、以下のようなことが考えられます。
1.コンプレッサーを深く掛けないので、そもそも音圧が低い。
2.録音ソースに音場感を示すパルス成分が少なくウーハー寄りのバランスに変わる。
ウーハーにバランスが偏った場合
最近のウーハーは重低音を伸ばすためにコーン紙を鈍重にする傾向があるので
ある程度パワーを入れてあげないと目が覚めません。
通常8時で聴く場合には小音量派に属するので
200Hzあたりを膨らませることのできるイコライザーを
音源とアンプの間に入れてあげると、腰の据わった音になります。
アナログ式のグラフィックEQは音の劣化が結構大きいので
BEHRINGER / DEQ2496 ULTRACURVE PRO 辺りが手頃でオススメです。
あとモノラルとステレオの信号経路の切り替えができるのであれば
WARM AUDIO / EQP-WA が真空管&トランスの艶も加わります。
(200Hzをブースト、100Hzをカットというギミックな使い方が可能)
私は逆にサンスイトランス ST-17Aで低域をカットして
低音の被りを取りつつ、倍音を増しています。
これは超高域もカットするので、モノラル試聴のみで有効です。 あとステレオ音源をモノラルで聴く場合に
単純にショートすると、高域の逆相成分が打ち消し合って
カマボコ型の特性になります。
私は、イコライザー付きのミキサーを使って
左右の周波数をデコボコにしてミックスしています。
ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/image58.jpg
ちなみにこのときのch毎のパンの位置は中央です。
これだと全体のバランスは変わらずに音場感が保持され
左右の楽器の音が完全に消えることもないので
特に違和感なくモノラルで聴くことができます。 ただイコライザーやエフェクターでいじっても限界はあって
周波数のバランスは恰幅良くなっても、ダイナミズムが追いつかない。
変換機器としてスピーカーが最も効率が悪く音響の癖が出やすいので
これを音源まで遡って変えるとなると、大変な手間と労力を要するからです。
自分の経験では、気が付いてみると、スピーカーを買い替えたほうが安かった
というオチもあります。
いきなりモノラルに転向するのは難しいので
モノラル用のスピーカーを、サブシステムとして検討してみてはどうでしょう? >>405
>モノラル用のサブシステム
1950年代のスピーカーシステムにはとても手が出ないので、
コイズミ無線のHPで手頃な8インチフルレンジ用箱を見てるところです
(箱にも贅を尽くしたいけれど、メインのステレオ用より高価になってしまうw)
SICA、Visaton、Monacorあたりを中心に、安価なダブルコーン型が結構あるので、
それを使ってサブシステム、あるいは実家で使うホームラジオ用スピーカーを作ろうかな、と思います >>606
いずれも古典的だけど高域の伸びたタイプで使いやすいと思う。
モノラルは正面ではなく、斜め横から聞くのがデフォルト。
瀬川冬樹氏もAxiom80をほぼ後方に近い斜めから聴いていた。
ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/segawa-img_0.jpg
ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/segawa-img_4.jpg
気に入ったらツイーターを追加するとクラシックでもいけると思う。
古いモノラルでも味のある演奏は多いので是非おためしを。
箱はヤフオクでウルトラバス・エンクロージャーというのもあるので参考まで。
自分は30cm用に618型を頼んで後面解放で使ってる。
注文後の製作なので少し時間は掛かるけど、しっかり作ってくれた。
オプションのフェルトは結構ガッチリ張ってくるので、最初はカラカラに乾いた音だと思うけど
材木をケチってないので長く使えると思う。これは別途購入して自分で調整するのもあり。 ちなみにウルトラフレックスは
昔オンケン式としてアルテックの15”サイズを入れる箱として流行ったけど
元はジェンセンが1950年代に設計したもの。
ttp://www.tubebooks.org/file_downloads/Jensen_spkr_plans.pdf
コーナーロードホーンよりも作り易いというほかに
ちょうどフリーエッジが出るか出ないかの時期で
ハイコンプランス型のユニットでも使えるように、ゆったりした箱になっている。
コイズミ無線のサイトだと、Visaton B200がそういう設計。
このユニットはYoutubeなどで検索すると、値段だけのことはあると思う。
上記のカタログではJensen P12-RXでも大丈夫みたいに書いてあるけど
こっちはQo=2.0を超える超ハイコンプラ・ユニットなので
100Hzあたりで持ち上がるだけで、あまり低域が伸びない。
重低音よりも200〜500Hzのレスポンスの速さを選んだ次第。 いずれ大丈夫みたいなことを書いたけど
Monacor SP205-8だけはQo=2.73、Fo=94.3Hzの
超ハイコンプライアンス型なので、オープンバッフル向け。
後面解放箱で小気味良く鳴らしたいときに使いたいユニット。
ttps://www.monacor.com/products/components/speaker-technology/hi-fi-full-range-speakers/sp-205-8/ >>591の続きで
「売り場から家に持って帰らせるまでが勝負」ともいわれた
1980年代初頭のオーディオ・ブームだが
デパートの電化製品売り場に並ぶ他社製品より目立つ音という
単純な目的だけで作られていた。
オーディオはその時代の最新の音楽に合わせて作られていると言われ
その時代に合ったビンテージの装いがあるわけだが
1980年代を前後するニューミュージックに合わせて考えられる組合せは
ポップスを聞く若者向けのシスコンでは到底対処できないように思える。
「元気がよくてポップス向け」という無責任な言葉で締めるのが精々だった。
ミュージシャンの思いはどこにいったのだろうか? まるで中身がないのである。 オーディオのビンテージ感というのは、ただ古いというだけでなく
その時代の人がフィジカルに感じ取っていた音楽の躍動感が
スッと入ってくるような感覚がある。
単純には、その機器の組合せの再生能力が高いという以外に
楽曲の魅力を引き出す機構が備わっている。
1970年代の歌謡曲に話題を絞った場合
無闇に周波数レンジを広げることはかえって逆効果ともなる。
FM放送を基準にすると50〜16,000Hzだが、70〜12,000Hzでも十分だ。
むしろ、その帯域のなかでのパフォーマンスの質が重要で
多くはボーカル域の200〜4,000Hzの帯域に集中しているように思う。
今どき、重低音や超高域の伸びは、比較的簡単に得られるが
逆に200〜4,000Hzという電話に毛の生えた程度の帯域の質感を究めるのは
とても難しいと感じる。そもそも、何の楽器に喩えればいいのか?
それがボーカル域の評価の難しさでもある。 1970年代初頭に、ロックを日本語で歌うことの是非について論争があったが
一番の課題は、アジア言語に特有の母音のニュアンス(500〜2,000Hz)が全体に丸く
欧米言語のように子音(3〜6kHz)を立てて鋭角的にテンポを刻むのが難しいことだ。
1960年代初頭のロカビリーでは、例えばエルヴィスがそうであったように
母音をしゃくるようにアクセントを付ける歌唱が流行っていたが
1970年代では古臭い歌い方のひとつだった。
そこで激しいリズムに無理に合わせないソフトロック路線が
フォークとの兼ね合いで妥当なラインとして浮上してきたが
そこでのロックっぽさを引き出すのが、ここでの課題ということになる。
情熱といえば簡単なんだけど、スポ根のがむしゃらなもがきではない。
誰もが迎える恋の迷いともいえる、欲情に振り切れる直前の葛藤だ。 母音のニュアンスがアジア言語に特有と言ったが
それは日常的な会話で普通に使ってるという意味であり
例えば黒人のソウルには、この情熱的というか扇動的な母音のニュアンスが詰まってる。
個人的には、南部アメリカ訛りというほうが正しいと思うのだが
下アゴに何かはさまったように話すアレである。
おそらく南部デルタからシカゴへ流れたブルースの系譜が有力で
それ以前はニューヨークのミンストレル・ショーなどで観られたものだ。
最初のトーキー「ジャズ・シンガー」の主人公もミンストレル・ショーの流れを汲み
アル・ジョンソンの声は1900年代のラッパ吹き込みにも残されている。
エルヴィスが母音のしゃくりを魅力的に使ったのも、南部的な歌唱の文脈にある。
200Hzくらいの胸声から一気に1kHzまで登りつめるリズムの刻み方には
それに応じた瞬発力が必要で、オーディオ・テストのひとつともなると思う。
大概は、胸声がブカブカに響いて、母音のニュアンスが消えていることが多い。
ボーカルから湧き出るリズム感までとなるとさらに難しい。 1950年代のロカビリーの話をして、1970年代と何が関係しているのか
首をかしげる人もいるかと思うが、ニューミュージックの系譜にしっかり刻まれている。
大瀧詠一「ナイアガラ・ムーン」、細野晴臣「トロピカル・ダンディー」である。
どちらもノベルティ感あふれるポップスの宝箱のような趣向で
どっちが笑わせるか競作ともなった趣向の凝らし方が、とても愉快なアルバムだ。
私なりに解釈すると、このノベルティ感は、漫才にある話芸の躍動感であり
それがポップスの音楽的な愉悦感として、いかに表現できるかという実験でもある。
その瞬間の機転の利かせ方が判らないと、YMOの「中国漫才」のようなボケに終わる。
どちらも細野さんのベースというオチはともかく
楽音の言語的なニュアンスが最大限に発揮されているということだけは挙げておこう。
奇術師のように聞く人をハッとさせるのが好きなようだ。 1970年代の歌謡曲は、本格派という肩書では整理できない
ノベルティ感もひとつの味わいだと思う。上の2作品はそのエッセンスなのだ。
当時から編曲家(アレンジャー)の存在が浮上して
歌謡曲らしいアレンジの根幹を占めていた。
そのアレンジをさらに支えていたのがスタジオ・ミュージシャンであり
変貌自在の歌謡曲のアレンジに追従できるマルチプレイヤーぶりが引き立つ。
これと1960年代の米国のヒット曲を引き合いに出すと
モータウン、スタックスなどスタジオ・ミュージシャンのスタイルはずっと固定化しており
それゆえの融合感や鉄壁さも誇っていた。
歌手のスタイルに合わせ、変貌自在の歌謡曲のアレンジは
楽音まで一種のアイコンのように記号化されたように感じる人工的なもので
個々には写実的なのにコラージュ的な異世界の雰囲気をもっている。
それが私なりに感じる歌謡曲のファンタジーなのである。 歌謡曲のアレンジの色彩感は、当時は極彩色のように感じたのだが
どうも後でステレオで聴くと、その色彩感が平均化されてるように感じる。
どうも原因を探ってみると、欧米なら子音のニュアンスで埋められる帯域
2〜6kHzの帯域に音色をコントロールする鍵となる楽音を集中させている。
一般にHi-Fiと呼ばれる機器は、この帯域の歪みを抑える傾向にあるので
中間色の美しい音というイメージに変わる。いわゆるセピア色のそれに近い。
最初は、マスターテープの劣化のように思っていたが
最近はオーディオ機器の問題だと思うようになった。 あとは低音のほうは100Hzを膨らませることで
それ以下の低音を補強するようにできている。
これはオーラトーンのような小型フルレンジでの試聴でも
全体のバランスを見失わないようにした結果でもあるが
多くはラジカセやテレビのような後面解放筐体のフルレンジを想定してた。 1970年代の歌謡曲のオーディオ的な特徴は
100Hzあたりのブーミーな低音
200Hzあたりの胸声
500〜1,500Hzの母音のニュアンス
3〜8kHzの色彩感
などの組合せで決まる。
残りが重低音、超高音となるが
多くのオーディオのスペックは100Hz以下、15kHz以上という
全く見当違いのところで格闘しており
それがオーディオマニア、レコードマニアの行き違いを起こしている。 最初の対処は、100Hzの膨らみが200Hzの胸声を阻害せずに鳴るかで
ヒップが出ててもウェストはくびれていなければ、という相反した感じがある。
100Hz以下の音圧はそれほど必要ないこと
それと同時に200Hz付近の反応がタイトに引き締まっていることだ。
当時はエアサスペンション型のエンクロージャーが流行したが
ヤマハ NS-1000Mで60Hzからロールオフ
ttps://i.imgur.com/CdkiDTe.png
ビクター SX-3で70Hzでロールオフ
ttps://audio-heritage.jp/VICTOR/Speaker/sx-3(3).jpg
BBC LA3/5aで100Hzでロールオフである。
ttps://www.stereophile.com/images/archivesart/R35FIG4.jpg
こうした測定は無響室で行われていたので
通常の家屋だと、部屋の残響の影響でブーミーさが変わる。
実際には低音を伸ばすため、重めのコーン紙を使うため
レスポンスは思ったほど引き締まらない。
これに対抗したのが、長岡式のバックロードホーンで
低音ホーンのクロスオーバーを150Hzと表記していることから判るように
正面から出る中低域以上の反応と、背面の低音とで分かれている。
私なりの対処では
ラジオ用ライントランスで低音をカット
ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/wps_clip_image-4328.png
後面解放型で中低域の反応をタイトにする
ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/wps_clip_image-2068.png 一方の中高域の色彩感については
ツイーターの歪のないクリアさとは少し反対の要素があって
スピーカーの分割振動、真空管やトランスの高次歪み(倍音)が
関連しているらしい。
というのも、洋の東西を問わずラジオ用の部品をみると
まずスピーカーは、2〜6kHzの中高域に大きな山をもつものが多く
これは斜めから試聴してフラットになるように調整してある。
古くはライス&ケロッグ(R&K)の最初のダイナミックスピーカーがこの音調で
放送業界全体がこれを基準にしたからと考えられる。
以下は高級電蓄にも使われたもの。
R&K:ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/Rice-Kellogg_Frequenzgang.gif
イギリス:ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/1950/BBC/EMI-1944.jpg
ドイツ:ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/Isophone_Seite-06-07.jpg
日本:ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/RF-848-1972.jpg
ちなみに手元にある米国Jensen C6Vを計測してみると以下の通りで
斜め45度から聞くと中高域の山は取れてフラットになっている。
正面:ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/wps_clip_image-19370.png
斜め45度:ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/wps_clip_image-18746.png
ところが、パルス応答で高次歪みを測定してみると
斜めから聴いても正面特性と同じように高次倍音がかなり激しく出ている。
ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/wps_clip_image-18861.png
これは何を意味するかというと、斜めから聴くと持続音では滑らかになっても
音の立ち上がりではパンチのある音が保持されている。
これが中高域の色彩感とも関連しているらしい。 上のJensenの特性は、真空管は使用していないが
真空管には、オーバーシュートといってパルス波に伴う高次歪みがある。
ttps://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/013/879/50/N000/000/013/146353861405887668178_4P1Lpp_10KHz_waveform.jpg
方形波に対して角が出たような歪み成分が生じるもので
現在のオーディオ用アンプでは、NFBの補正でほとんどの場合抑えてある。
一方で、昔のラジオやテレビの回路をみるとNFBはおろか
トランジスターでもトランス結合のB級回路という感じで
むしろ隈取りを付けたような音が標準だったようだ。
実際に古いライントランスを噛ませると、ほんのり艶がのってくるのが判る。
こうしてみると、アナログ時代には高次歪みを発生させる要因が多く
録音のほうもカラーレーションを巧く利用して行われていたと思う。 残る500〜1,500Hzの母音のニュアンスだが
同じ言葉でも「?」や「!」のように語尾のイントネーションで変わるやつで
「ぶりっ子」なんてのも、このニュアンスを言葉のおしりに付けることで出てくる。
日本語ではもっとニュアンスが豊富なように思うが、明確な分類がないので判りにくい。
中国語には最低でも4種、韓国語で7種類の喉声の分類があり
ベトナム語になると表記で21種類、実際には60種以上あるとも言われる。
つまりアジア系言語の最も特徴的なもので、西欧では子音中心で割り切って話す。
これとオーディオとどう関連があるかというと
母音のニュアンスが不明瞭なセットは、感情の起伏が薄く聞こえる。
多くの歌謡曲の表現について、慎ましく日本的だと言われるが
実際にはかなり荒々しい感情もぶつけている。
その言葉に肉薄する帯域が、中域に集中しているのである。 中高域の色彩感で忘れていたのは
1970年代からエコーからリバーブに変わったことで
理由は、ミキサーが真空管から?トランジスターに移行したことで倍音が減った
マルチ収録で個々の楽器の音を混ざりやすくなるなどである。
結果的に、トランジスターで失われた色彩感は
リバーブを掛けることで補われるようになった。
この点では、リバーブをほとんど掛けないジャズやクラシック
逆に多くかけるポップス、歌謡曲の類とでは再生のポイントがずれる。
逆説的だが、中高域でのブリリアントはより強調されるほうに傾いた。 ブーミーな低音、チャライ中高域という組合わせと相反して
歌謡曲の魅力的な母音のニュアンスがかき消されたか?というと
そもそもラジオやテレビのような家電のオーディオ機能に合わせ
小音量でも効果的なサウンドを引き出すための方策であったこと
そもそも放送機器はボーカル域だけはちゃんと聞かせようとシフトしていたことの
相乗効果でヒット曲のサウンドは編み出されたともいえる。
一方の原音をそれらしく聞かせる技術では
100Hz以下の重低音の再生能力を競っていた
耳につきやすい中高域のリンギングを減らす方向に傾いた
ウーハーのクロスオーバー付近(1.2〜2.5kHz)の高次歪みも抑えるようにした等
どちらかというと歌謡曲がデフォルメした部位を反対方向に抑える方向だった。
オーディオ技術の進化と呼ぶものとは逆行するように
歌謡曲のサウンドは変貌していったようにも思える。
その発端の位置にあったことで1970年代は常識の範囲に留まり
1990年代はよりギミックなサウンド指向へと変わったと思える。 「歌謡曲のサウンドはオーディオ技術の発展と逆行する」
これと
「歌謡曲のファンタジーは都会の心の闇を成仏する」
というテーマを掛け合わせると
「オーディオ技術のリアリズムにはファンタジーがない」
ということに帰結する。
ここでいうファンタジーとは一種の演出であり
主張したいサウンドのパーツをデフォルメする行為だ。
それには歌い継がれてきたベタな演出もあり
舞台設定をサウンドで表明する役割もある。
オーディオ技術者は、この演出=デフォルメを打ち消すかたちで
写実的でニュートラルなサウンド指向を推し進めている。
あるいはオーディオメーカーとしての企業的体質
雇われ技術者のサラリーマン気質ということも言えるだろう。
これと引き換え、歌謡曲のマネージメントは、山師とも言える感じである。 こうした山師のような体質はポップス界において常套手段で
1950年代にエルヴィスを輩出したサン・レコードの仕事に顕著である。
メンフィスという地方都市のラジオDJが始めた録音サービス店に
どのジャンルにも属さないようなミュージシャンが
名刺代わりのレコード製作を希望して、フラリとやってきたらしい。
昔の写真館の音声版なのだが、そこで録った演奏はどれも個性的で
ミュージシャンのポートレートとして強烈な内容を放っている。
一方で、サン・レコードのシングル全集(10枚組で10巻くらいある)
”The Menphis Recording from the Legendary SUN Studios”の
最初のボックスは、SP盤でのリリースだったため、ナローレンジで収録されている。
実はこの録音集を魅力的に鳴らせるように制覇すると
その後のポップスでの演出の文脈が分かりやすくなる。 舞台をニューヨークに移して
1960年前後のキャロル・キングのソングブックを開くと
そこにメロディーメーカーとしての才覚と共に
初期のフィル・スペクターのようなアレンジャーが
宝箱をひっくり返したようなサウンドを展開していた。
実はこれと競合するようにシングルを乱発してたのが
George Goldnerというレコード会社のオーナーで
Rama、Gee、Roulette、The End、Gone、Red Birdなど
脈略もなくレーベルを増やしてヒット曲を出していた。
同じNYだと、もっと系統的なアトランティックのほうが有名だが
日本でのカバー・ポップスの影響を考えると
単一レーベルで眺めるよりも
アレンジやプロモートの手法など、上記のほうがショウビズの原形を保ってる。 ポップスというと、商業録音という言い方があるけど
これとショウビズは表裏一体にある。
これはお金で換算できない芸術に対して卑下した言い方で
商業的な成功を求めて音楽をやるという感覚でみられている。
これを逆にみると、安いお金で雇われたミュージシャンということになり
実際には名誉とお金は連動していたことを考えると
卑下の対象は、名誉よりも先に商業的な成功をモノにする
時代毎の流行を追うヒット曲の在り方を問うてるともいえる。
流行というと、時代毎に現れては消えるような感じに思えるが
実際には伝承のような流れ、脈略があって引き継がれている。
ポップスを流行の刷新と考える以上に、伝承の歴史としてみると
商業的=民主的な文化としてみることができる。
流行=儚い価値観というのは、もはや通用しないのだ。 ポップスは広い階層のリスナーに聞いてもらわなければならないため
演奏の良し悪しをオーディオ機器のせいにしてはいけない鉄則がある。
クラシックやジャズは、オーディオ機器のグレードで聞こえ方が全く違うことが当たり前で
オーディオ機器のグレードとレコードのコレクション数はほぼ比例している。
これと全く逆なのが、ポップス系のレコードコレクターのように思う。
どうもこれが、一般に歌謡曲の再生技術を甘く見がちな一因に思える。
クラシックのように同じ曲を何通りもの演奏で聞くことなどなく
ジャズのように同じ楽器のプレイで競う要素もない。
どれも個性的なアレンジで楽しませてくれるポップスは
どんなオーディオ機器で聴いても、楽曲の個性が判らないということもないため
音質の比較がしにくいとも言える。
その一方で、同じ楽曲でもオーディオ機器で聞こえ方が違うため
楽曲の評価そのものがゆがんでいくという事実には無頓着である。
というのも、ヒット曲の要素は、一種の統計的な数字に支えられ
一般的な評価として、何となく共通認識としてあるように感じてしまうからだ。
ところで、こうしたヒット曲という時事の話題が消えた後
楽曲の評価を自分自身でしなければならない場合はどうするのか?
実は、歌謡曲のアーカイブの仕方として、再生方法も一緒に保管しないと
ミュージシャンの実力、楽曲の本当の魅力を語ることは難しいのではないか?
楽曲に込められた情熱を、ただの流行として過去に流さない方法が必要なのだ。 ポップスのモニター手法として、JBLとオーラトーンの凸凹コンビでのチェックがある。
以下はアビーロードのミキシングルーム。
ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/Alan_Parsons.JPG
このJBL 4331とオーラトーン5Cの周波数特性は以下のとおり。
ttp://www.lansingheritage.org/html/jbl/specs/pro-speakers/1974-4330-4331.htm
ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/Alan_Parsons.JPG
JBLは50Hzまでフラット、オーラトーンは150Hzからロールオフ
高域はどちらも15kHzまでなのだが、音の吹き上がりなど絶対的なパワー感が違う。
オーラトーンなどスペック上は75〜15,000Hzとうたってるが実効性はない。
この両極端ともいえる試聴環境の間にあるものが、大勢のリスナーの環境である。
おおよそどのグレードのオーディオ機器もターゲットから外れないが
それで楽曲に込められた真意が判ったわけではない、大きな落とし穴がある。
よく感性の問題にしがちだが、オーディオの機能をちゃんと利用しないと
楽曲の魅力に迫るということはできないと、普通に考えるべきだ。 ところで両者に共通の15kHzというのは、FMステレオ放送の規格通りであり
1970年代の想定してるリスナーには、20kHz以上という超Hi-Fiは必要ない
という整理がはっきりしている。むしろ、それより低い周波数での実効的な
サウンドを目指したほうが正常だということになる。
一方で、JBLの50Hzまでの再生能力はFMのフルスペックであり
オーラトーンの150Hzというのは最低ラインである。
これで何を判断したかというと、JBLでモニターした低音が
150Hzでロールオフするオーディオ機器で有効か?ということである。
もうひとつ見逃しやすいのが中域の繋がりで
800HzクロスのJBLでは、ボーカル域で位相の入れ替えがあるため
ステレオでの空間表現がフルレンジでは違和感の生じるときがある。
これでいて、オーラトーンはステップ応答が鋭いライトシェイプで
定位感をしっかり表現するので、見逃すと厄介である。 JBL 4331とオーラトーン5Cの組合せは
ポップスのモニター=スタジオの原音主義がマーケット優先で練られていることが判る。
つまり1960年代までが、正確なモニターで演奏をプレイバックする機能だったのに対し
音楽市場での受け止め方についてもモニターする方法を選んだというべきだ。
これは1970年代からの新しいモニターの方法であり
やがて1980年代にヤマハ NS-10Mでステレオ・ミックスを行うことにまで発展する。
一方で、スタジオの音響が市場と相対化された結果
実体ではなくシミュレーションとしての音響の試行錯誤もはじまった。
BBCの研究は、音楽ホールの音響を家庭用にスケールダウンする試みを画いている。
これをサウンド・スケーリングと呼んでいて、今ではサウンド・ステージと呼ぶ
仮想空間の創出をするにいたっている。
このような試みは、ある種の技術革新と関連していて
1970年代はFMステレオとカラーテレビである。
それまで、モノラル、モノクロという視聴環境だった家庭に
いきなりリアルなものに近づくマスメディアが現れた。
一方で、画角の狭さ(480×640)、試聴部屋の狭さ(6畳間)など
本物とは程遠い現実があり、有効なダウンサイズが模索された。
考えようによっては、本物志向がフェイクを生んだともいえる。 歌謡曲のサウンドをフェイクというと言い過ぎかもしれないが
録音スタジオのリアルとは音楽マーケットであり
スタジオから外に開かれたものという認識かもしれない。
しかしリスナーの多くは、ダウンサイズした現実しか受け取れない。
では、そのエッセンスとは何か?本当のメッセージとは?
ここに歌謡曲の試聴に大切なものがある。
多くの場合、このメッセージを聴き取るために
オーバースペックで凌駕すれば、奥の奥まで聞こえて
より多くの事柄が判ると思うかもしれない。
しかし、これはオーディオマニアの陥りやすい罠で
木を見て森を知らず、という言葉のとおり視野狭窄になる。
私なりに思う最初にすべきことは
ローファイ規格で全体像を知ることだ。
ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/RF-848-1972.jpg
つまり録音スタジオでシミュレーションした概要を知ることである。
JBL 4331→オーラトーン→ラジカセ→高級機器
という流れで、次第にクローズアップする方法が良い。
最後の決めの機材集めは、むしろローファイで聴きとった内容を
引き継ぐかたちで保てるほうが便利である。
単純にいえばボーカル域の解像度が、高域に負けず
ボーカル域の迫力が、低域に負けないバランスを保てることだろう。 ちなみに私のほうは、二匹の兎を追うのは面倒くさいので
ローファイ規格にツイーターを足す方法を取っている。
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ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/wps_clip_image-2068.png
スピーカーは4kHzくらいの山までがJensen C12Rが引き受けていて
以下のラジカセ用のスピーカーと同じような帯域を受け持ってる。
ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/RF-848-1972.jpg
低域はラジカセと一緒の帯域を保持するため
後面解放箱で200Hz以下を段落としで保持している。
リボンツイーターの出番は4〜8kHzで、それ以上はロールオフするが
これでようやくJensenのスピード感と釣り合う。
ギミックな方法として、
モノラル・ミックス、ラジオ用ライントランスを噛まして入り口を固めている。
実はこれが、家庭用のステレオ感のシミュレーションのメッキを剥ぐ
原音再生へのアプローチになっている。 ライントランスとして使っているサンスイトランス ST-17Aは
昭和30年代設計のビンテージタイプで、現在も安価で製造中のもの。
ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/wps_clip_image-4328.png
元は特性の揃わないトランジスターをB級プッシュで安定動作させるための
分割用トランスとして、ラジオの実装用に合わせ小型に開発された。
このトランスのビンテージ感は
僅かに下がる400Hz以下、5kHz以上で磁気飽和を起こしやすく
位相を少し遅らせながら、高次歪みを出していくことだ。
つまり400〜5,000Hzの帯域を自然にフォーカスするようにできている。
それでいてボーカル域での艶やかさも出すという感じ。
昔ならテープヘッド、MM式カートリッジにこうした機能があって
それ以上に帯域をフォーカスしたり、倍音を増やしたりする必要性はなかったが
歌謡曲のサウンド・デザインの基本を知る意味で、とても役立っている。 録音過程をみると
ミュージシャンの演奏→カラオケのアレンジ・ミックス→歌の吹き込み→マスタリング
それ以前に楽曲やミュージシャンの選択などの企画があると思うけど
オーディオ機器で扱える範囲は録音ソースとの関わり方に限定される。
私自身は、歌手とミュージシャンのパフォーマンスに肉薄する方法を目指すが
演奏行為はマイク、テープの基本性能にそれほど進展はないため
半世紀以上経っても遜色はない。
むしろ違いを感じるのは、ステレオ音場の形成手法、周波数バランスのほうで
極端にドンシャリだったり、レンジが狭い、エコーが深いなど
ミックスの段階で不自然になった要素をどうやって排除できるか?
という、音楽以外の録音環境の違いに依存するものである。
単純にモノラル、ステレオの違いだけで躓く人も多いなかで
自分の装置のことを棚にあげて、録音品質の批評をする人が絶えず
正確な再生の基準をどこに置けばいいのかさえ不明なものが多い。
ステレオ感、レンジ感をもとに、演奏の内容は変わらない。
むしろ外面的な効果に振り回されやすいオーディオで聴くことの弊害がある。 1970年代の歌謡曲の録音品質にみるアンバランスさは
リスナー層を絞り込む段階で、JBL 4331とオーラトーン5Cの狭間で
どっち寄りという選択をしたかのように感じる。
本当はどっちでもバランスを失わないことが大切なのだが
シングルバージョンとアルバムバージョンとでミックスバランスが違うというのが
ひとつのヒントになるかもしれない。同じステレオなのに音の広がりが異なる。
シングルはラジカセ用、アルバムは高級ステレオ用というような
振り分けが感じられなくもない。趣向が安直なのだ。
こんなことで、スタジオの原音だとか、意図を尊重するとか、言ってはいけない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています