(´・ω・`)この世って仮想現実なの?
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必ず真聖ラーゼフォンに決定だよ、絶対に真聖ラーゼフォンに限定だよ、確実に真聖ラーゼフォンに指定だよ、十割真聖ラーゼフォンに認定だよ
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真聖ラーゼフォンは強いよ、真聖ラーゼフォンは強力だよ、真聖ラーゼフォンは強大だよ、真聖ラーゼフォンは強者だよ、真聖ラーゼフォンは強烈だよ
真聖ラーゼフォンは強靭だよ、真聖ラーゼフォンは強剛だよ、真聖ラーゼフォンは強豪だよ 死テロ に パー券を。 ファッキン フェイキン ママパパ 【感動名言】一瞬で人生が変わる名言集 ショーペンハウアー1
https://youtu.be/cpdAf9-ei10 物質に、時間と空間と空間を適用しているのは我々の脳である。
時間と空間の形式は、我々の脳が保有し、脳が描く表象の世界の上で物質は
そのように現れている。
世に名高いカントの先験的感性論である。
これゆえ物質は、いつ(時間)でも、どの場所(空間)であっても条件が一緒で
あるならば同じ現象を示す。
条件がまったく一緒であるのに、場所で違うという理由だけで、現象が異なる
ならば、どの場所で実験を行うかに科学者は神経を使わねばならない。
条件がまったく一緒であるのに、時間によって現象が違うというなら、
科学者は、いつのタイミングで実験を行うかに神経を使わねばならない。
時間や場所に影響を受けるならば、科学者はおちおち実験などしてられない。
そうであれば、あらゆる科学の土台が崩れることになる。
なんで、こういう事をいうのかというと、未来において科学を志す若者に
何を土台にして考えるべきかを知って欲しい為である。 実験の実戦率が百パーであれ。験あることがキーワード。 現実世界は、確かに存在する。
しかしその現実世界を認知しているのは、脳だ。
つまり、お前が認知している現実世界は、
お前の脳が作り出した バーチャル世界。
色即是空、空即是色。
でもだからこそ、お前自身次第だ!
汝、自身を知れ。
人生は喜劇。 現実世界を、現実世界のまま認知できる人間が居たとしたら、
それは個人のバイアスが完全にない人間。
つまり、無我の人間。
無我こそ最高の境地と言われる所以。
don think you are,
feel you are.
考えるな感じろ。 我々も全宇宙の存在たちも、
「消滅したい、停止したい」と
望むようにプログラムされた上で、
無理やり、生きることを強いられて、
常に『振動し続ける微粒子』にすぎない。
EO 仮想現実だとして、何が問題なのか
我々は現実世界内に存在するが、我々の心は仮想世界を作ってその中でしか活動できないという話なのか
何か別の真の世界があって、この世界は真の世界の中で行われるシミュレーションだという話なのか
そもそも真の、現実の世界など存在せず、全ては幻影に過ぎないという話なのか
それとも、上記のどれでもない定義が存在するのか
仮想現実であるということが何を意味しているのかを明確にしないと、話が始まりすらしない >>34
「前スレを読む」というわけにはいかないんだよな? >>35
スレタイにNo.もなく>>1に過去スレの表記もないのに
前スレも何もないだろう まあ、下記のどれかの意味でいいんじゃないかな、そこは人それぞれで
1、宇宙は巨大な量子コンピュータであり、この世はシミュレーションである
2、この世は自分が見ている夢であり、自分自身が真実在である
3、この世は、自分の脳が認識・表象した現象世界であり、物自体は認識できない
4、この世は仮の宿りにすぎず、人は死ねばあの世に往く
5、この世は、各自がそれぞれ個別の現実を見ているだけであり、共通の世界など存在しない。
6、自分は神の分霊であり、神が創造したこの世を体験している
7、自分自身の存在も含めて、この世の全てが虚構にすぎない この世は幻影である
「この世が存在する」という錯覚から抜け出さなければならない >>39
まとめありがたい
それを元に考えると3つの軸があるように思える
1)この世界は現実世界である
2)この世界は仮想現実、他に真の現実世界がある
3)現実世界はどこにもない
a)私は夢の世界にいる。自分による世界だが自分のコントロールによるものではない
b)私は私だけのプライベートな世界にいる。誰もが個々のプライベートな世界にいる。それぞれは交わるところはない
c)誰もが個々のプライベートな世界にいるが、それらは統合された実在世界の中にある
d)誰もが単一の客観的世界にいる
e)誰もがプライベートな世界にいるが、それぞれ実在の存在の一面に過ぎない
f)私も他人も幻影、虚構である
α)私は死んだら真の世界に帰還する
β)私は死んだら消滅する
γ)私は死んでも消滅しないし他の世界に移ることもない
δ)死んだ後のことは分からない
不足あるだろうから適宜修正・補完よろ まとめ。
現実世界は、確かに存在する。
しかしその現実世界を認知しているのは、脳だ。
つまり、お前が認知している現実世界は、
お前の脳が作り出した バーチャル世界 だともいえるわけだ。
色即是空、空即是色。
でもだからこそ、お前自身次第だ! これが幸せと言われるもの。
汝、自身を知れ。
人生は一人連投自演乙の悲喜劇。 >>43
前段はいい
世界は存在し、あなたの世界はあなたが作っている。
後段はあんまり関係ない話だな >>43
全くまとまってない
根拠は示せてないし言明としてもノイズまみれで要点が不明 まあ、そうだな
「この世は脳が作り出すバーチャル世界」というのはその通りだが、だからといって、それ以外に何も存在しないというのは無理がある。
原子核も電子も存在しているからな、一応 人間を、輪廻という名の強制労働へと縛りつける、「根本的な生存欲」。
十九世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、これを「盲目的な意志」と呼んだ。
ショーペンハウアーがみずから「わたくしの主著」と呼んだ「意志と表象の世界」は、体裁こそ西洋哲学だが、思想の中身はインドそのもの。
彼は、万生万物の「盲目的な、生きんとする意志」こそが、この仮象の世界を成り立たせる根源と見た。
この有為転変の世界で生きることは、苦しい。たとえ一時的には楽しくても、最終的には必ず苦しい。
芸術によって、その苦しみを癒すことはできる。だが、その効果は長続きしない・・・。
「解脱」を説いたショーペンハウアー。「生きんとする意志」の滅却こそが、最終的な解決だ。
西洋では「厭世主義者」のレッテルを貼られてしまったが、影響は大きかった。現代思想の開祖・ウィトゲンシュタインが、若い頃に読み込んだ哲学書は、「意志と表象の世界」だけだったという。 観念論者やら、スピに傾倒する人間はインド哲学なんかを至高として有難がたがってるが
古代インド思想では地球が平面だと見做されていたんだよ
瞑想によって得た直観かなんか知らんがこういう基本的なことすらインド人には
分かってなかったわけだ
いっぽうで西洋人は紀元前から天体観測を用いて地球が球体だととっくに理解していた
眼前に広がる客観的な現象すら正しく理解できていないのに死後の世界やら世界の在りようについて
理解が及ぶわけがないだろう 天球も卵の殻も似たようなものだと思うが?
https://ja.wikipedia.org/wiki/渾天説
>渾天説では、天は鶏の卵殻のように球形であり、地は卵黄のように
>その内部に位置し、天は大きく地は小さいとする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/天球
>プトレマイオスの体系に基づく天球。地球の回りに透明な物質でできた
>惑星と太陽の天球があり、恒星天の外側は神と神の選民の住まいとされた。 >>50
古代インド人にとって、この世は仮想現実であり、真我こそが真実在
仮想現実のことより、真実在の探求に重点が置かれるのは当たり前 >いっぽうで西洋人は紀元前から天体観測を用いて地球が球体だととっくに理解していた
それは西洋うんぬんというより、、大陸国家のインド人と海洋国家のギリシャ人の違いが大きい。
ごちゃごちゃした陸地にいるより、島から水平線を見るほうが、地球の丸さをずっと実感しやすいからな。
ギリシャの哲学者も、ピタゴラスやプラトンは輪廻転生思想の影響を強く受けた。 西洋も、紀元前の古代ギリシャでは「地球は丸い」ことが知られていたが、中世ヨーロッパではなぜか元に戻ってしまった 世界は仮想現実であり、自分は真の現実。
死んだら、世界が消えて自分が残る。
世界に対する関心からできるだけ離れて、自分に意識を集中する。 >>55
それは地球平面説に関する良くある誤謬だな
キリスト教が支配する中世でも早い段階から地球は丸いと理解されていた 地球球体説を最初に唱えたのも、輪廻転生思想を西洋に広めたのも、両方ともピタゴラス >>50
古代インド思想が古いというが、スピ系の人たちは、ブッダやシャンカラなんかまず読んでいないぞ
2大グルとされるラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジ、欧米で活躍して有名なクリシュナムルティやラジニーシ、みんな20世紀の現代人ばかりだ いくら瞑想哲人といったって、20世紀のインド人は大なり小なり、西洋思想の影響を受けている。
クリシュナムルティに至っては、若い頃は神智学協会の教祖だ
古代インド思想ではない >>56
もしあなたが歳とって痴呆症になって死んだら残るのは痴呆症のあなたか? 現実は確かに存在するが、
その現実を認知しているのは、自分の脳だ
つまり全ては 自己投影 なのだ
それだけのことだ。
色即是空、空即是色。
心理学 投影 で検索 >>62
痴ほう症は世界の一部であり、消える側の仮想存在 >>64
残るのは魂みたいなものか
記憶も性格も知性もない中身のよく分からないものだな だが我われのほんとうの存在、アイデンティティはそこにしかない
仮想システムによって、正しく自己認識できてないだけ もし、そうだとして、なんでそんなことになってるのかな?
そういう幻想世界を見せるためのコストは誰が負担してるのだろう? リーラについて
https://wiki3.jp/nirvana555/page/6
▼質問者
―― でも、もしすべてがすでに終わっているとしたら、それは神にとって退屈なんじゃないでしょうか?
▼ラメッシ
彼は新しい映画を作ることでしょう。ご承知のように、潜在的エネルギーがそれ自身を活性化しました。
そして活性化が終わると、エネルギーの爆発によってそれ自身を使い果たして、それはまた潜在的可能性に戻ります。 それから、それは再びそれ自身を活性化させるのです。
《「誰がかまうもんか」第三章 ≫ 映画 より》 概念の囚人となった人類の話
【陰謀コーナーベストセレクション】
https://youtu.be/WdBv-W1cHrI インド思想の研究者・宮元啓一氏によれば、釈尊が登場する以前から、
「業(ごう)こそが、再生が繰り返される原動力である。業が生じる原因は、欲望にある。はてしない輪廻を終わらせるには、欲望を消滅させなければならない」
というところまでは、話が進んでいた。ヤージュナヴァルキヤが唱えたこの説は、インド思想界に広がり、皆の共通理解となった。 解脱(げだつ・・・覚醒して、輪廻を終わらせること)のためなら、なんでもするのが古代インド人。
いまや、「欲望を消滅させて、さっさと輪廻にオサラバしようぜ」というのが、修行者の合言葉だ。
そこで、欲望を消滅させるため、大きく分けて2つの方法が編み出された。
ひとつは、瞑想をすること。もうひとつは、苦行である。 「瞑想」の道を選んだ人々は、こう考えた。欲望とは、「○○をしたい」、「××になりたい」・・・といった、思うことや、考えることから生まれる。
彼らは、欲望を消滅させるためには、このような思いや考え、つまり、「思考」をなんとかしなければならないという結論に至った。
「苦行」の道を選んだ人々は、徹底した禁欲がポリシー。食欲・性欲・睡眠欲・・・。自らの肉体をイジメぬき、極端な禁欲で心を鍛え、じっとガマンの日々を送る。
これによって、欲望をシャットアウトしようというのだ。いわば、力ずくで欲望を押さえ込む道である。 当時、インドの修行界を席巻していた「思考を止める瞑想」と「欲望を抑える苦行」を、2つとも極限まで極めた、ゴータマブッダ釈尊。
結局、2つとも、欲望を一時的になくすことや、欲望を抑えることはできても、欲望そのものをなくすまでには至らない。ゴータマは、そういう結論に達した。
この2つによって、意識を高めることはできる。人間としては、最高のレベルまで行ける。だが、人間の域を超えるには、何かが足りない・・・。
ここでついに、輪廻思想史上に残る、空前の大発見が得られた。
「輪廻転生の原因は、業にある。業の原因は、欲望にある」
・・・というのが、天才・ヤージュニャヴァルキヤによって確立された、輪廻転生の定式。だが、なんと、さらにその奥があった。
つまり、欲望が根本的な原因ではない。その欲望には、さらに原因があるというのだ。
それは、「根本的な生存欲」である。
ふだんは意識すらしていない、潜在意識の奥の奥にある、盲目的な生きんとする意志
それが、人間という存在そのものだ 常に認識されていれば意識されないだろう、常識的に考えて さすが
他の板へのリンクが無い
=隔離板らしいスレね 私たちは普通、共通の宇宙に生まれて、共通の時間を生きていると思っています。
ところがそうではありません。
実はそれと全く反対に、一人一人の世界に生きていると仏教では教えられています。
それは、一人一人の過去の行いが異なり、
その過去の業を蓄えている一人一人の阿頼耶識が生みだした
自分の世界に生きているからです。 仏教では、私たちの心を8つに分けて、
「八識」と教えられています。
1.眼識(げんしき)
2.耳識(にしき)
3.鼻識(びしき)
4.舌識(ぜっしき)
5.身識(しんしき)
6.意識(いしき)
7.末那識(まなしき)
8.阿頼耶識(あらやしき)
の8つです。
1から5までを「前五識(ぜんごしき)」といわれます。
前五識は、色々感じることができるのですが、
記憶したり、考えたりすることはできません。
そこで、「意識」の登場です。 「意識」は、前五識を統制して、記憶したり、判断したり
考えたり、命令したりする心です。
ところが、私たちは、頭で分かっていても
「分かっちゃいるけどやめられない」
ということがあります。
何かより強い力で動かされているのです。
心理学では、無意識とか、深層心理と言われたりしますが、
それは、仏教ではやっぱり「意識」に含まれる心です。
それより深いところに、
末那識と阿頼耶識があります。
末那識は、執着する心ですが、
複雑な割にそこまで重要ではありません。
それよりはるかに重要なのが「阿頼耶識」です。 阿頼耶識と意識の関係は、
主人と番頭のようなものです。
お店に行きますと、レジに座っていて
とても目立っているのは番頭です。
丁稚などに指示をしてお店をとりしきっています。
何か問い合わせがあるときには、
丁稚に聞いても分からないので番頭さんに聞きます。
ところが、その番頭よりももっと奥に主人がいます。
お客さんの前に出てくることはないのですが、
どんな商品を入荷していくらで売ろうとか、
どこにお店を出そうとか、
経営戦略を立てて、意志決定をしています。
ちょうどそのように、私たちが
普段自覚できるのは意識なのですが、
それよりもはるかに深いところで、
はるかに強い力で私たちを動かしているのが、
阿頼耶識です。 というわけで、アラヤ識は、心理学でいう「深層意識」ですらない
もっと奥にある、「盲目的な生きんとする意志」なのだ
これこそが輪廻転生を引き起こす原動力であり、輪廻転生する主体でもある マナ識は、自我に執着する意識
執着は、ここで生まれる アカシックレコードとは、これまでに経験した全ての事柄が刻まれた「霊的な記憶庫」
アラヤ識の「アラヤ」は、「蔵」とか「倉庫」を意味する言葉で、アカシックレコードを指している 阿頼耶識(あらやしき)は
眼耳鼻舌身意の顕在意識の下にある潜在意識の一つです。
阿頼耶というのは、とてつもなく大きな蔵という意味で、
宇宙で起こった全てのことが記録されています。
阿頼耶識は全てのものと繋がっているので、瞑想で阿頼耶識に入ることで、
様々な情報を取りだすことができるのです。
阿頼耶識はまるでアカシックレコードです。 この世界を映画に例えるなら、アラヤ識は映写機に相当する アカシックレコードとは何か?
「地球の全ての情報が集積された図書館、あるいはデータバンク」
「宇宙のインターネット」 唯識では、眼耳鼻舌身意の六つの顕在意識の下に潜在意識である第七識の末那識(まなしき)と第八識の阿頼耶識(あらやしき)を考えています。
本当は自分が見ている世界には実体はなく、阿頼耶識という映写機が映し出している映像に過ぎないのです。
末那識は自我に裏打ちされています。
顕在意識は末那識によって実体化されます。
ほんとうはありもしない現実世界があると思っているのは末那識のせいなのです。
阿頼耶識が本当の世界で、顕在意識は阿頼耶識が写している像なのです。
阿頼耶識はとてつもなく大きな蔵のようなものです。
阿頼耶識には何でも記録されていきます。
阿頼耶識は何でも知っています。
そして、阿頼耶識はすべての阿頼耶識とつながっています。
阿頼耶識は宇宙なのです。 人が毎日、行っている行為、例えば、朝起きて、顔を洗って、歯を磨き、食事をとり、職場や学校へ行くことなどは、毎日行っていると、ことさら意識しなくても自然とそのような行動をとります。
これなどは、行為(業)の持続力、習慣力であります。一旦、行為が繰り返されると、直ぐには止められない気持ちになることなども、業の特性ともいえます。悪習慣を絶ちきることの難しさも業の性質といえます。
「分かっちゃいるけど、止められない」とは、このことでしょう。このようにして、集積された数多くの業が阿頼耶識の中に納まっていくのです。
https://www.ne.jp/asahi/bodhi/hokke/arayasiki.gif
https://www.ne.jp/asahi/bodhi/hokke/tunagaruarayasiki.jpg >>1 人間の認知は全て脳で行われる。
ゆえに、現実を認知するのも、あなたの脳。
脳の電気信号があなたの現実。
それを現実は存在しない仮想現実だというのは、オカルト系。 批判のやりかたが間違ってる
そんなことを裏づけるような権威のあるエビデンスなどどこにも存在しないというのが正しい 批判されてる認識はあるようだし、何がどう間違っているのか論理的に反論出来ない限り、君の正しさが存在しないわけ、議論を可能とするだけの知能が足りないというのが正しいということ。 臨死体験した時に不思議な空間で目が覚めて神様と話したことが
あるんだけど、そこがプログラマー(創造神)のいる世界だったんだと思うよ。
だからこの世の人生を全うするとその創造神の世界に行けて
真相を教えてもらえるんだと思う 普通に考えると、臨死体験は夢だからなあ
それは根拠になるかな 幻覚体質の人はいろいろな不思議体験するらしい
声がするからドア開けたら死んだばあちゃんが居て、すぐ消えたことがあると語っている
大好きだったんで固まってしまい呆然としたとか
気味悪いことも多々あるみたいだが、これは良い体験で忘れられないようだ >>104
あまり覚えてないけど、「今自分はどこにいますか?」「病院」
「ここに残っていいですか?」「まだ来るべきではない」
「生まれ変わりたい」「やり残したことがあるでしょう」
この空間凄く居心地が良かったから「どうしてもここに残りたい」と訴えたけど断られた。
こんなやり取りをしたのは憶えてるよ。
あと口で喋るのではなく心の中で会話をした。数日間、食事も頂いたよ。
そして地球に戻る時に死神に妨害されたけど閻魔様とキツネと数人に助けてもらった。
それで病院で目を覚ましたら1日も経ってなかった。
あの世とこの世では時間の流れが違うらしい。
だからこの人生を全うして死んで再び神様、閻魔様とキツネと数人(おばあちゃん等)
に会ったらお礼を言うつもり。
>>105
普通の夢とは違う感覚だったよ
>>107
自分も臨死体験中に亡くなったおばあちゃんと会ったよ。
あと、なぜだか前世の記憶と思える昔の服みたいなのを着た外人とも会った >>108です
それと病院の主治医にこの内容をまとめたレポートを提出したよ。
信じてくれたけど、この事をあまり考えすぎないようにとも言われた。 >>109
臨死体験は、病院ではよくある話なのではないかな 医者が自分でも臨死体験して、「ああ、患者さんたちが言ってたのは、こういうことだったのか」と納得することもあるらしい >>98
そういうのを「オカルト系」とは言わない
「観念論」と言うべきだな >>111
そりゃああるだろう
医者だって臨死体験はあるだろう >>101
「2012年アセンション」の不発以来しばらく消えてたけど、復活してるようで何より >>109
体験したことを信じたってことだ
解釈は別
太陽は大地の周りを運動しているが、地球が静止しているって理解は信じない >>108
閻魔、キツネ
文化の刻印が色濃い
ハムレットの幽霊は足があり
日本はない
・・・幽霊は洋服着ているが
古代中国の知識人が論難していたな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています