(書評)『老いのゆくえ』 黒井千次〈著〉

 ■自分らしさを見出す初々しい論
 本書は、二〇〇五年から新聞に連載されたエッセイを集めた『老いのかたち』、
『老いの味わい』の続編である。ここで著者は、「可能なかぎり率直に、老いていく
自分を描き、その感覚や感情を記していくことを目指した」という。ただ、最初の
『老いのかたち』には、老いの問題を、広く歴ログイン前の続き史的・社会的に見る観点、
あるいは、セネカのような哲学的考察があった。それに比べると、
本書に書かれているのは、まさに「老いていく自分」だけである。
しかし、私はこの地味なエッセイに感銘を受けた。

 ここで幾度も出てくるのは、転倒する話である。最初に、空足(からあし)を踏んで
倒れた話も出てくる。つまり、「あると信じていたものがなかったために空を踏んで」
転倒してしまう。これは、他人の老化はわかるが、自分の老化はわかりにくい、
ということを典型的に示す例である。実は、私も七〇歳を越えてから、空足ではないが、
転倒を経験した。何度か転倒すると、それが老化の兆候だということを認めざるを
えなかった。老いを自覚するのは、このように難しい。

 社会的には、高齢者は前期と後期に分けられている。しかし、後期以後には区別がない。
死以外に、「『高齢者』には終(おわ)りがない」。とすれば、老いはいよいよ、
各人の問題となってくる。

 たとえば、本書に書かれているのは、他人の年齢が気になることである。それは結局、
自分の老いが納得できないからだ。その意味で、老年期は思春期とまるで異なるにも
かかわらず、類似した「自己」意識をもたらす。それに対して、著者は自分に言い
聞かせる。「自分らしく老いればいい」「自分の老いを育てればよい」

 しかし、これは「自分」へのこだわりではない。著者が見出(みいだ)すのは、
「あらゆる〈老い〉が、夕陽(ゆうひ)の中を静かに登っている」というような「老いのゆくえ」だ。
初々しい老年論である。

 評・柄谷行人(哲学者)