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宇宙の存在理由
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0001考える名無しさん
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2020/05/21(木) 00:56:09.060
我々の宇宙は宇宙の自己進化プロセスのただの通過点か?
0012考える名無しさん
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2020/07/04(土) 20:37:36.800
地球という太陽系の第三惑星に住む人類がパンドラの箱を開けるよりも遥かに愚かなことをしてしまったようだ

パンドラの箱の頃は開けても最後に唯一希望という概念が残っていたが、今回の人類はその希望すら吹き飛ばして消してしまったようだ
0013考える名無しさん
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2020/11/22(日) 12:10:26.890
宇宙そのものが我々のイマジネーションの産物
0014考える名無しさん
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2021/01/07(木) 22:36:17.690
 
          (⌒ ⌒ヽ
       (´⌒  ⌒ ⌒ヾ
       (´   )  ⌒::: .)
       (´;:   ::⌒`)  :;  ) 
      从|∵-=・=- -=・=-∵|    
     从(⌒ `   (・・)   ´⌒)
     ノ从\_/ ̄ ̄\_/  
    从从/: \  、_!  / ノ  
     从从  i 'ー三-' i l   コツをつかんだようだね?
      ノ从ヽ._!___!_/ 
      /    ___ ゙ ,:-'´ 丶
    /´ ヽ` ̄        ー-゙:.、
   i          - 、         `ヽ_
   l:    、.:         ヽ       ゙i"
   !    i ; n  .:c.:   ',    _..ハ
   |    ハ/ {   _,..-ァノ 、r‐、>ー ヽ
   |   ト./  ` ̄__,.:=彡  :.ヾ、ニ二 /
0015◆P1F.MDbmTg
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2021/01/07(木) 22:42:34.330
べつに
0016底辺、毎日が充実してるおな!
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2021/03/20(土) 19:31:12.970
 
                /⌒ヽ
               |👁👁_     お尻ペンペンだお
     . 〜〜〜⌒  ミヾ人_ノ\ \   お尻ペンペンパックだお
   .   .. 〜〜〜< ̄\/ ニ⊃=)へ_ヘ   お尻ペンパックだお
             .\ニ(_⌒)-/  _)
             ヘ>―/ //  ∠/
   ──  \三三γ\\(_)) /||ヽ   
 ─  ─ ─   | (]\ ̄ ̄ /|(◎)|  プこっプこっプこっこプここ〜♪
    ─ ─    ヽ_ノ ̄ ̄ ̄ ヽ_ノ
0017考える名無しさん
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2021/03/20(土) 23:18:38.550
   .   .. 〜〜〜< ̄\/ ニ⊃=)へ_ヘ   お尻ペンパックだお
             .\ニ(_⌒)-/  _)
             ヘ>―/ //  ∠/
   .   .. 〜〜〜< ̄\/ ニ⊃=)へ_ヘ   お尻ペンパックだお
             .\ニ(_⌒)-/  _)
             ヘ>―/ //  ∠/
   .   .. 〜〜〜< ̄\/ ニ⊃=)へ_ヘ   お尻ペンパックだお
             .\ニ(_⌒)-/  _)
             ヘ>―/ //  ∠/
   .   .. 〜〜〜< ̄\/ ニ⊃=)へ_ヘ   お尻ペンパックだお
             .\ニ(_⌒)-/  _)
             ヘ>―/ //  ∠/
   .   .. 〜〜〜< ̄\/ ニ⊃=)へ_ヘ   お尻ペンパックだお
             .\ニ(_⌒)-/  _)
             ヘ>―/ //  ∠/
0018考える名無しさん
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2021/03/21(日) 00:04:55.400
主體が存在の主張を貫徹し得るか否かは畢竟他者との關係が決定する
0019考える名無しさん
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2021/03/21(日) 01:03:07.500
>主體が存在の主張を貫徹し得るか否かは畢竟他者との關係が決定する

「主張を貫徹する」とはどのようなことですか?
なぜ、客體との關係ではなく、他者との關係なのですか?
0020考える名無しさん
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2021/03/21(日) 01:15:32.320
客體の分離は、その反面として、主體の分離である。
主體と客體とのこの分離この對立が「反省」である。
反省によつて自覺・自己意識は客體の意識とともに表面に浮び出る。
かくて主體は「我」又は「自我」として成立つ。
0021考える名無しさん
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2021/03/21(日) 01:38:06.450
>客體の分離は、その反面として、主體の分離である。

ようするに、主體と客體は、まずは互いに分離されることによって現れるもの
であって、主體と客體が關係するわけではないということかな。
漢語を使うから難しくなるけれど、先にあるのは、主體と客體の仲(なか)であって、
その仲(なか)を分けることが反省であり、反省によって主體と客體が對立する
と述べているようですね。ところで、岩波古語辞典によれば、「なか」の
古語は「な」なんだよね。ということは、現代語としては、個々人が仲良く
することによって仲間(なか・ま)が生まれると理解されるわけだが、
表現としては、まず「な」が先であって、對立によって「なか」が現れて
客體が分離され、その反面として、主體が分離されて、そのように
分離された客體を主體がとりまとめたのが「なかま」ということに
なりそうですね。
0022考える名無しさん
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2021/03/21(日) 01:58:29.360
なんか似たような感じの議論だな。

http://dspace.uevora.pt/rdpc/bitstream/10174/24522/1/Doutoramento-Filosofia_Filosofia_Contempor%C3%A2nea-Dominique%20Mortiaux-L%27habitation_l%27institution....pdf

«Hospiter», précise l'auteur de Paul Celan et MartinHeidegger,
est un néologisme proposé par Benveniste pour traduire le verbe φιλεῖν,
à propos duquelil donne l'explication qui suit: «le verbe phileîn exprime
la conduite obligée de celui qui accueille àson foyer le xénos et
le traite selon la coutume ancestrale.»783 «Le xénos entre
tous les xénoi,poursuit H.France-Lanord, le Fremde pur et simple
pourrait dire Heidegger, n'est autre que l'êtremême dont le Dasein est
l'hôte et l'ob-ligé».
0023考える名無しさん
垢版 |
2021/03/21(日) 08:42:54.900
>主體が存在の主張を貫徹し得るか否かは畢竟他者との關係が決定する

主體の存在とは、他者に対する主(あるじ)としての張り合いの一貫性である
ということになりそうだが、そう気張って「主體が存在の主張を貫徹」
しなくてもいいのではないかという気がする。

主體と客體が分離していない状態はよく、「主客未分化」と表現されて、
「曖昧さ」とか「混沌」という表現とよく関連付けられて説明される
けれども、「な」が「羅」の流用であるなら、その状態は、最初から
《entrelacement》を表していることになり、主體と客體は、分化する
というより、「と(梳)[解/説]かれる」ことによって分離して現れると見る
べきなのでしょう。哲学では、フランス系の哲学の言説では、
《entrelacement》よりも《entrelacs》という名詞化が好まれる
ようだが、《entrelacs》には「呪ひ」が強く感じられるので、
私には好ましいとは思えない。いずれにしても、客體が《entrelacement》
から「と(梳)[解/説]かれる」ことによって主體と十全に対比されて
(畢[/毕]竟)現れるものであるなら、物事の明確化は、「定義」から
始められなかればならないなどということはないでしょう。
むしろ、定義は、既に現れている関係性をあらかじめ固定してしまう
ことにより、絡まりを「と(梳)[解/説]く」ことを不可能にし、縺れを
累加的に大きくしてしまう可能性さえある。
0024考える名無しさん
垢版 |
2021/03/23(火) 00:42:31.090
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 鼓鵜屍津廼権威汰藻津煮派安芸屍埜廼彌耶家都立節鹿内蛇炉?
         ,../ `ヽ;_  i | / ヽ──ヽ / 
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  | ヽ`l ::              /ノ )
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   | |古古||. H  |×l]|  H .||古古| |
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0025考える名無しさん
垢版 |
2021/03/23(火) 11:27:34.760
>>23
https://sites.google.com/site/maximeroffayphilosophie/chiasme-et-chair-l-ontologie-de-merleau-ponty
>>Au lieu du fond des phénomènes, au lieu de l'être, Merleau-Ponty nomme
l'entrelacs, le chiasme. Et c'est à partir de ce nom (qu'on peut d'emblée
dire en deux noms) qu'il constitue un discours de l'originaire. C'est à partir
de cette nomination (déjà double) qu'il propose de livrer un certain type de
savoir, autant phénoménologique en sa manière que métaphysique en
sa finalité.<<
0026考える名無しさん
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2021/03/23(火) 11:41:40.960
https://en.wiktionary.org/wiki/chiasm
>Latin; in sense 1, from chiasma, from Ancient Greek χίασμα (khiasma);
in sense 2, from chiasmus, from Ancient Greek χιασμός (khiasmos "crossing,
diagonal arrangement"), from χιάζειν (khiázein, “to mark with a chi”),
from χ (kh, “chi”)

「な/羅」も《entrelacement/entrelacs》も、その「原初」をたどれば、
キアスムの語源であるχ(カイ)によって代表される交叉になるわけで、
そのイメージは、「糸」という漢字が表現するイメージと重なっている。
https://en.wiktionary.org/wiki/糸#/media/File:糸-bronze-shang.svg
そのように見れば、「累加的」という表現に用いられる「累」という
漢字は、日本語においては、「しばる」、「わずらわす」という
意味を表現するのにも用いられるため、その漢字のイメージを下方向
からたどることが適切な見方なのだろう。
0028考える名無しさん
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2021/03/23(火) 13:57:49.340
メルロー=ポンティの場合には、主客といっても、《l'hôte/l'ob-ligé》
という捉え方が弱いのではないかな。客体の方が、《l'ob-ligé》という
より、知覚される《objet》という感じが強く出てしまう感じ。
0029考える名無しさん
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2021/03/23(火) 22:27:25.020
>>16
 
いいね 👍
0030考える名無しさん
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2021/03/24(水) 00:10:19.070
◆悟りを求めない人の談話室No.35◆
次スレ

第36章 悟前(ごぜん) 未悟(みご)は求めましょう、大悟を
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1616429534/

朝露は落ちます。
これが大切です。
僧居れば、総入れ歯 なのです。
歯が無いのです。
葉っぱの先に宿る朝露は 墓が無いのです、履かないのです パンツを。
儚いものです、朝露。
ならば、どうしようか、です。
どうでもいい人は、お逝きなさい。逝けば分かるさ、です。
生きているからこそのやりとりです。
起承転結 きしょうてんけつ
生老病死 しょうろうびょうし
犬山滅尽 いぬやまめつじん
このスレは見えないものを見ます。
即心即佛 そくしんそくぶつ
心(しん)は佛。
心とは佛です、佛は心です。
では、心と言う名詞を奪ったもの、佛と言う名詞を奪ったもの、をなんと呼びましょうか。
0031考える名無しさん
垢版 |
2021/03/24(水) 09:23:35.800
>>26
通常、疾病の場合の「わづらふ」という日本語の表現に当てられる「患」
という漢字と、「わづらはし」という意味合いの表現の場合に当てられる
ことがある「累」を比較してみればすぐに気づくとおり、「わづらふ」は、
「おの(自/己)ずと『わ(輪)がつら(連)なる≒"stringing together of
loops"』」ことを表現しており、ちょうど、英語の"complication"という
表現とうまく対応している。

https://www.etymonline.com/search?q=complication
complication (n.)
early 15c., "complex combination or intricate intermingling," from
Latin complicationem (nominative complicatio), noun of action from
past participle stem of complicare "to fold together, fold up,
roll up," from com "with, together" (see com-) + plicare "to fold,
weave" (from PIE root *plek- "to plait").

このことは、「わづらはし」がそのまま"causing complications"として
解釈され得ることからも確認できる。また、「累」という漢字を構成する
「田」という表記が、中国においても、田畑の「田」ではなく、
輪の連なりを表現するように解釈されたのであろうことは、
「累」と明らかに関連する「纍」という漢字によって表される表現の
語源的解釈や用法からも分かる。
https://en.wiktionary.org/wiki/纍;
Definitions
1. to stitch, link or bind together in an orderly fashion
2. to twist around; to wind around
3. to confine; to impound; to imprison
0032de fil en aiguille
垢版 |
2021/03/24(水) 09:32:53.840
累(纍)
ピンインlěi ⇒ [異読音] léi,lèi
(年月・数などを)積み重ねる,累積する.⇒连篇累牍 lián piān lěi dú
日积月累 rì jī yuè lěi ,成千累万 chéng qiān lěi wàn .
0033考える名無しさん
垢版 |
2021/03/24(水) 09:43:09.210
けいるい
【係累・繫累】
(親・妻子など)面倒を見なければならない家族たち。
「―を断つ」

Der Verwandte als der beste Freund.
– diese
selben Griechen haben die Verwandten mit einem Ausdrucke bezeichnet,
welcher der Superlativ des Wortes »Freund« ist. Dies bleibt mir unerklärlich.

http://www.zeno.org/nid/20009233482
0034考える名無しさん
垢版 |
2021/03/24(水) 10:04:44.910
煩累(読み)ハンルイ
デジタル大辞泉の解説

精選版 日本国語大辞典の解説
〘名〙 わずらわしくうるさいこと。また、その物事。面倒。
※智慧袋(1898)〈森鴎外〉友誼上の犠牲「汝がために多少の煩累多少の
不便を忍びて某(それ)の事をなす人あらば、そは真の友誼ある人なり」
〔釈曇遷‐緇素知友祖道新林詩〕
0035考える名無しさん
垢版 |
2021/03/24(水) 10:05:41.270
あまりに過疎だから立てちゃった



 誰 も 来 な い 板 だ ね 
1コメント

1革命的名無しさん2021/03/24(水) 09:32:28.49
自演がんばって!
0036考える名無しさん
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2021/03/24(水) 22:43:19.100
隠蔽してきたという事実を隠蔽しつづけなければならないという沼
0037考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 00:39:41.710
>>25-28
《entrelacs》や《chiasme》という概念は、「主客」の関係を説明するのに便利
ではあるが、「互酬性」/《réciprocité》により反転する主客の関係や、
「互酬性」/《réciprocité》と「他者/よそ者」/《xénos/(ξένος)》の関係を
記述するためのメタ言語としては不十分である。これらの関係は、むしろ、
フランス語の少し古風な《obligeant》/《déobligeant》という表現を、
日本語における「意/心にそ・(添/沿)ふ」/「意/心にそ・むく」という表現
と対比しながら用いた方が、より適切に記述することができる。

学術において「客観性」の重要性が強調されることが多いが、英語の
"objective"の訳語である「客観的」という表現は、日本語における「主客」
の関係とうまく対応していない。このことは、フランス語の《object》が
《l'ob-ligé》/「客」ではないことからも明白である。《object》は、
《déobligeant》/「意/心にそ・むく」からこそ《object》なのであり、
まさにそのことにおいて、「主客」の関係に対して「他者/よそ者」/
《xénos/(ξένος)》なのである。

これに対して、何かが《obligeant》である/「意/心にそ・(添/沿)ふ」ことは、
親切にされることであり、もてなされることである。そのことにおいて、
自らが《l'ob-ligé》/「客」として、またその何かは《l'hôte》/「主」として
現れることになり、そのことに応えるように自らが、その何かに対して
《obligeant》である/「意/心にそ・(添/沿)ふ」ように振る舞ふならば、
「互酬性」/《réciprocité》により、今度は、自らが《l'hôte》/「主」として、
またその何かが《l'ob-ligé》/「客」として現れることになる。
0038考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 00:53:35.160
絶対的に《déobligeant》である/「意/心にそ・むく」「他者/よそ者」/《xénos/(ξένος)》
に対して、自らの《ob-ligé》を認めることにより、「互酬性」/《réciprocité》により、
自らが《l'hôte》/「主」として振る舞はなければならないとする「倫理規定」を自らに
課すことを要求する言説は、偽装されたニヒリズムだろう。
0040考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 02:49:55.840
哲学とは人間の存在理由を考える
学問である
人間は一人では生きていけない
親や教師や医者や政治家の
お世話になって生きている
人間が人間である事は
どういう定義で人間であると
言えるのかという事を
研究する学問である
0041野生の歓待(鶴/亀の恩返し)
垢版 |
2021/03/25(木) 07:51:26.680
「他者/よそ者」/《xénos/(ξένος)》とは、《l'être forain》à nousであり、
その存在が、自分たちにとって《obligeant》/《déobligeant》であるか、
自分たちの「意/心にそ・むく」/「意/心にそ(添/沿)・ふ」ように振る舞ふ
かという両義性を帯びている。

《l'être forain》を、自分たちに《obligeant》である/自分たちの
「意/心にそ(添/沿)・ふ」ものとして歓待することが《xénophilie》であり、
自分たちに《déobligeant》である/自分たちの「意/心にそ・むく」
ものとして排除することが、《xénophobie》である。

その「他者/よそ者」/《xénos/(ξένος)》は、歓待される存在とされる
ことによって《l'être forain à nous》となるが、それでも、
《l'être forain》à autruiでありつづける。というより、そのように
《l'être forain》à autruiが《l'être forain à nous》であるという
対比を生じさせることが、「互酬性」/《réciprocité》によって
相手を「客」/《l'ob-ligé》として待遇することであり、そのことに
おいて、《xénophilie》は、「我々の」/《à nous》という集団性の
表明でもあるのだ。
0042考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 07:59:36.000
哲学の言葉を自らの日常の言葉遣いから切り離して抽象化することは、
哲学を、自らの振舞ひについて語ることのできない「哲学のまがいもの」
とすることになる。

哲学や思想の業界でいつも「他者の歓待」の倫理性を説いているような
人々は、本当に自らが「野性の存在」/《l'être forain》を受け入れるような
振舞ひを常日頃、見せているだろうか。
0044考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 08:07:20.330
哲学を、自らの振る舞いについて語るのに掲示板は向いていないと思うよ
掲示板は哲学を実験する場には相応しい、ただお互いのレベルが違うと
リンクしないから、相手が不満を覚えてしまう。
だがそれは、人間が対等な存在であるという基本を踏まえていればそうは
ならないんだけど、成熟度もそれぞれ異なるからしかたがないと思われますな
0046考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 08:12:33.160
>>41
《l'être forain》à nous/我々に「野性の存在」
《l'être forain à nous》/「我々の野性の存在」
0047考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 08:16:13.110
掲示板で実験して現実で本にして売る
分かる人は買ってくれる
0048考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 08:19:15.620
私は本を出版しようなどという気はまったくありませんが?
0049考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 08:23:14.760
誰にも伝わらない学問だったら
意味がないとは思わないか
0050考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 08:31:26.630
>>48
別にあなたに本を出版しないのですかなどと聞いてませんので
0051考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 08:34:36.290
>>49
意味がないと思うなら、伝わるような学問をすればいいのでは?
0052考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 09:14:11.340
例えば、天体の運動を記述することに関心のない人が、
いくら惑星の運動の詳細な観察記録を見せられても、何も伝わらないのですよ。
でも、天体の運動を記述を常日頃、提示することを生業としている人々は、
それを示されて、それが自らの記述の形式と適合しないなら、
そのことを意識せざるを得ない。
0053考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 10:13:52.390
じゃあ意識させてればいいだけ
0054考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 10:19:22.020
何も難しい事を考えるのが
哲学ではない
毎日の日常の中にあるありふれた
風景の中にこそ哲学が存在する
0055考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 11:19:44.300
それで満足ならそれでいいと思う
0057学術@死酔天魔狂廃鬼神龍騎禅軍師
垢版 |
2021/03/25(木) 12:01:30.210
星占いや星座、星の神話の方が真実です。てんぶんがくとでもいおうか。
0058考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 12:01:49.260
きょうみがありません
0059学術@死酔天魔狂廃鬼神龍騎禅軍師
垢版 |
2021/03/25(木) 12:02:33.870
科学の視点は下等な危ういものです。
0060考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 12:22:48.510
なぜ下等でどう危ういのか君の視点で説明できてないけどな
0061学術@死酔天魔狂廃鬼神龍騎禅軍師
垢版 |
2021/03/25(木) 13:28:44.250
認識意識がボケていて言葉の意味のり方や、比喩暗喩などが全くありません。
象徴的でないものは重なる(異)世界からの現実逃避かもしれません。
0062学術@死酔天魔狂廃鬼神龍騎禅軍師
垢版 |
2021/03/25(木) 13:29:35.010
世界のありのままは科学的認識では映らない。
0063考える名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 13:33:01.670
だから哲学が必要なんだよな
0064学術@死酔天魔狂廃鬼神龍騎禅軍師
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2021/03/25(木) 14:39:12.530
科学は数詩学のような隠喩や暗喩のようである分野から伸びるはずだ。暗唱などのな。イスラムマホメッドコーラン。数理哲学などがあるとなおよい。
0065考える名無しさん
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2021/03/26(金) 06:25:29.570
喫茶店を選ぶ時スタバにするか
タリーズにするかベローチェに
するかはどれでもいい
キャバクラを選ぶ時も
ニューエバーにするか
マスカレードにするか
博多駅にするかは
どれでもいい
判断の基準は人それぞれである
0066考える名無しさん
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2021/03/27(土) 15:23:03.360
>>37
記述のためのメタ言語を洗練させるとはどういうことだろうか。
例えば、現象学において、《entrelacs》や《chiasme》という概念が主客の
関係を説明するのに用いられることが多いとしても、依然、「主客」は、《subjet/objet》
の対比として捉えられることが当たり前のこととされ、さらには、日本語への翻訳を介する場合、
指摘した、日本語における「主客」と《subjet/objet》の間の不適合は、無視され、
暗黙裡に《subjet/objet》の方に合わせて理解されるべきものとされる。

しかし、明らかに「主客」の関係を意識して導かれた《l'hôte/l'ob-ligé》と、従来の
《subjet/objet》を現象の記述のためのメタ言語として比較した場合、どちらがより
一般性の高い表現だろうか。この問ひは、こう言い換えることもできるだろう。
《l'hôte/l'ob-ligé》から《subjet/objet》の関係を記述するのと、《subjet/objet》
から《l'hôte/l'ob-ligé》の関係を記述するのでは、いずれがより容易だろうか。
既に《object》についての捉え方から示唆したとおり、私には、前者の方だろう
と思える。つまり、《objet》とは、《l'être》が自分たちにとって《déobligeant》
である、またはそれが、少なくとも、《obligeant》/《déobligeant》のいずれであるか
不明であるという性質を表現している、という捉え方である。すると、
《un objet》≒《un être forain》と考えることができるだろう。これに対して、
《sujet》の方は、《réciprocité》(互酬性)により反転可能な《l'hôte/l'ob-ligé》
の関係性を「圧縮して」、つまり、中国語の「羅」(≒《entrelacs》)を流用した
「な」が「己/汝」の二重性を表現するように表現していると捉えることができる
ように私には思える。そのように捉えるなら、現象学を統治の記述に応用するなど
という考え方は成立しなくなり、統治を記述することそのものが現象学となるだろう。
0067考える名無しさん
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2021/03/27(土) 15:43:37.580
ところで、《un être forain》が、自分たちに《déobligeant》である/自分たちの
「意/心にそ・むく」ものであるなら、それは、「あら(荒)ぶる」存在であること
になるだろう。この場合、「あら(荒)ぶる」という表現は、「粗暴な、残虐な、
荒々しい」(クラウン仏和辞典)という意味合いで用いられるときのフランス語の
《farouche》(人に慣れない、なついていない、野生の)という表現に対応する
ものと考えることができる。 そのように《farouche》である《un être forain》
は、自らの集団に入れずに排除するか、あるいは、てなづ(手懐)けて集団に
取り込んで《un être forain à nous》とする、つまり、歓待することによって
取り込んで《un ob-ligé à nous》として、自分たちに《obligeant》である/
自分たちの「意/心にそ(添/沿)・ふ」ように振る舞ふようにさせるか、
あるいは、少なくとも、自分たちのところを訪れている間には、《farouche》
に振る舞はないようにねが(願)ふために、適宜、祀ることを欠かさないように
する必要があることになる。
0070考える名無しさん
垢版 |
2021/03/28(日) 09:23:03.640
>>37
《obligeant》/《déobligeant》の対比を、ハイデガーが存在の様態を記述する
のに用いる"zuhanden"/"unzuhanden"の対比と関連付けて考察して、
「一(ひと)つ」ではなく、「人(ひと)」が存在するとはどういうことか、
それをどのように記述することが、メタ言語としてより一般的となるのか
を検討してみることが重要だろう。「人称」や「主語」のような用語を
メタ言語として用いることは、それらの表現を暫定的なものとして扱う
のでなければ、暗黙に従来の文法記述の表現を規範とすべき前提として
しまうことになる。
0071考える名無しさん
垢版 |
2021/03/28(日) 09:29:01.340
メタ言語による記述を追求するのに、特定の学問/Discipline(それが哲学研究の
学問分野とされる場合でも)における記述としての適合/不適合を暗黙に規範的な
判定基準としてしまうことは、哲学的な探求の歩みを妨げる。
0072考える名無しさん
垢版 |
2021/03/28(日) 11:15:24.120
自分たちに《obligeant》である/自分たちの「意/心にそ(添/沿)・ふ」ことも、
自分たちにあら(荒)ぶる《farouche envers nous》こともあり得るが、
それが自分たちに《déobligeant》である/自分たちの「意/心にそ・むく」
ように振る舞ふことも、自分たちの行為がそれに対して《obligeant》となること
も決してあり得ず、それが、自分たちにあら(荒)ぶる《farouche envers nous》
場合には、そのことは、それまでの状況が自分たちに《obligeant》であった
/自分たちの「意/心にそ(添/沿)・ふ」ようであったことを当然のことのように
感じて、自分たちが《obligé》の状態にあることをきちんと自認していることを、
適宜、明確に公示するのを怠っていたこと、または自分たちでも気づかないうちに、
それに対して《déobligeant》であるように振る舞っていたことの徴候とされる、
そのような存在が神である。

このように記述してみれば、「人々(ひとびと)」を統治するとは、どのような
課題であるのかが、より明確に理解できる。
0073考える名無しさん
垢版 |
2021/03/28(日) 11:23:03.430
飼い犬に手をかまれるような飼い主は神ではない
0074考える名無しさん
垢版 |
2021/03/28(日) 12:56:55.860
確かに民主主義の政治制度は確立されている。しかし、それは明らかに
「拉豆(なっとう)」に恐れをなすような人々の言論の自由の行使に
基づく民主主義であり、それ以外の民主主義が実現可能なのかどうか
私は知らない。
0075考える名無しさん
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2021/03/28(日) 22:06:28.830
《obligeant》⇒《obligé》の関係性が反転可能に成立することが、
「人(ひと)」としてあることの条件である。
0076考える名無しさん
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2021/03/28(日) 22:10:24.690
したがって、「人(ひと)」としてつきあいたくない相手が、
自分に《obligeant》であろうとする/自分の「意/心にそ(添/沿)・ふ」よう
にしようとする振舞ひは、「有難迷惑」である。
0077考える名無しさん
垢版 |
2021/03/28(日) 22:59:35.300
《obligeant》⇒《obligé》の関係性が成立しながらも、それが反転可能でない
とすれば、自らが人(ひと)未満の「数ならぬ者」であるか、相手が人(ひと)未満の
「数ならぬ者」であるか、あるいは相手が人(ひと)でありながら、自らが人(ひと)を
超える存在であるか、自らが人(ひと)でありながら、相手が人(ひと)を超える存在
であるか、のいずれかである。
0078考える名無しさん
垢版 |
2021/03/28(日) 23:08:11.870
>「な/羅」も《entrelacement/entrelacs》も、その「原初」をたどれば、
キアスムの語源であるχ(カイ)によって代表される交叉になるわけで、
そのイメージは、「糸」という漢字が表現するイメージと重なっている。 <

結局のところ、キアスムの語源であるχ(カイ)によって代表される交叉が、
主客の関係を説明するのに有効であるとすれば、その交叉が、
「《obligeant》⇒《obligé》の関係性の反転可能」、つまり、
「互酬性」/《réciprocité》を代表することによってである。
0079考える名無しさん
垢版 |
2021/03/29(月) 08:19:14.740
ファーーーーーッ!( ;゚皿゚)ノシΣバンバン!!
0080考える名無しさん
垢版 |
2021/03/29(月) 10:03:36.830
>>75-77
このように見てくると、ハイデガーの存在論における重要な概念である
"Sorge(気づかい)"も、ハイデガーの哲学に独特の用語として定義しなければ
理解が困難になるような表現ではなく、「ご機嫌いかがですか」と相手の
機嫌を伺うときのように、相手の「意/心にそ(添/沿)ふようにしようと慮る」
こととして日常的な日本語で理解することができる。それを分かりにくく
しているのは、ハイデガー独特の理路に過ぎない。「人(ひと)の存在」に
ついてその根源を問ふなら、その解明は、「人(ひと)の存在」を前提条件と
することはできないが、ハイデガーは「人(ひと)と物(もの)」のかかわり
について説くことから始めるため、"Sorge(気づかい)"は、あたかも
「人(ひと)が物(もの)に気づかう」ことを表現しているかのような、
あらかじめ限定された理解が生じ、「人が無生物のご機嫌を伺う」
ような、あるいは「人が誰かのご機嫌を伺う」ような一方的な配慮の
イメージが想起されることになる。だが、無生物の機嫌を伺うというのは、
普通に考えれば、オカルトであり、相手の機嫌ばかりを伺うというのは、
「気づかい」ではなく、「おもね(阿)り」である。

このような分かりにくさは、ハイデガーの理路により、"Sorge(気づかい)"が
「人(ひと)の存在」を前提条件としているかのように導かれるために
生じるのであって、"Sorge"を、「意/心にそ(添/沿)ふ」よう
にしようとすること、《obligeant》であろうとすることとして見るなら、
「互いに意/心にそ(添/沿)ふように慮ること」、
「《obligeant》⇒《obligé》の関係性を反転可能に成立させること」
によってこそ「人(ひと)」が現れるというコモンセンスに則した理解が
容易に可能なはずである。
0081考える名無しさん
垢版 |
2021/03/29(月) 10:17:57.070
誤:その交叉が、「...の関係性の反転可能」
正:それは、その交叉が、「...の関係性の反転可能性」
0082考える名無しさん
垢版 |
2021/03/29(月) 14:53:03.380
ファーーーーーッ!( ;゚皿゚)ノシΣバンバン!!
0083考える名無しさん
垢版 |
2021/03/29(月) 16:08:51.390
哲学における「心身」についての言説も、理路を誤ることによって
無用に複雑になっているのではないか。「み(身)づから(柄)/自ら」は、
必然的に「生身(なまみ)」であり、死体は「み(身)づから(柄)/自ら」
ではない。記述のメタ言語を特定の国語に限定すると、その言語の
規範の枠内でうまく辻褄を合せようとする制約が生じるため、
しばしば、記述が困難になるが、複数の言語をご都合主義で用いても、
相互参照による制約を適切に働かせるなら、恣意的な記述は避けられる。

「み(身)づから(柄)/自ら」とは、"one's own body"であり、《propre corps》
である。この表現には、明白に"own"、《propre》という「所有」の問題が
関わっており、「所有」には、「占有の意図」がかかわっている。
ここですぐに思い浮かぶのが、英語の"jealous"、フランス語の《jaloux》、
ドイツ語の》eifersüchtig《などの表現であるが、これらはいずれも、
すると、日本語にするなら「独占欲」を表すものである。「み(身)づから(柄)
/自ら」が、「所有」であるとはどのようなことか、「独占欲」とはどのような
ものかを記述しようと試みることが、「心身」についてどのように考える
ことが適切であるかを解き明かすひとつの糸口となるだろう。
0084考える名無しさん
垢版 |
2021/03/29(月) 16:35:55.860
ファッファーーーーーッ!( ;゚皿゚)ノシΣ
0085考える名無しさん
垢版 |
2021/03/29(月) 23:53:42.630
>死体は「み(身)づから(柄)/自ら」ではない。

死体は「なきがら(亡骸)」である。
0086考える名無しさん
垢版 |
2021/03/30(火) 08:45:13.190
「生きている」とはどういうことだろうか。それは、「地球は生きている」
というようなプロパガンダ的な言い方をする場合でさえ、"one's own body"であり、
《propre corps》である「み(身)づから(柄)/自ら」がある、ということだろう。
「み(身)づから(柄)/自ら」には必然的に命(いのち)があり、さもなければ、
それは「み(身)づから(柄)/自ら」ではなく、「なきがら(亡骸)」である。

ここで"own"、《propre》が表現するのは、「独自性」であり、「占有」である。
しかし、「独自性」や「占有」が有効であり得るとすれば、それは他者との関係
においてでしかあり得ない。したがって、「命(いのち)がある」ということは、
具体的に、つまり、「『からだ』をそな(具)へている」ものとして、次のように
言い換えることができるのではないか。
《il y a ce qui est proprement donné pour soi, ce qui est soi-même,
comme c'est le cas pour autrui》
さらに、ここで《ce qui est proprement donné pour soi》というのは、
《ce qui est obligeant envers soi》/「己の意/心にそ(添/沿)ふもの」
として「己に親身である/有難いもの」であるとともに、それが他者を
自らに対して《obligé》とすることなしに、《obligeant envers autrui》に
振る舞ふならば、そのことがすなわち、《déobligeant envers soi》である/
「己の意/心にそ・むく」《appropriation》/「横領」となるものであると
言うことができるのではないか。その意味で、「み(身)づから(柄)/自ら」とは、
《ce qui jalousement gardé pour soi》であり、「独占欲」に支配されたもの
だろう。
0087考える名無しさん
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2021/03/30(火) 08:53:45.560
これはあくまでも哲学の歩みとしての記述の試みであって、思想ではない。
表現は、記述しようとする事象に適切となるようにそれを洗練させることが
絶えず試みられなければならず、表現の整合性への拘りが記述の適切さ
を犠牲にするなら、哲学の試みを思想に変えてしまうことになる。
0088考える名無しさん
垢版 |
2021/03/30(火) 09:07:38.510
例えば、ハイデガーが用いる"zuhanden/unzuhanden"という表現は、
「道具」について語る文脈においては、とても好都合であるが、
"one's own body"であり、《propre corps》である「み(身)づから(柄)/自ら」
について語ろうとする場合、依然、有効性があるとしても、
「み(身)づから(柄)/自ら」が"zuhanden"である、あるいは"unzuhanden"
となる、という奇妙な記述をもたらすことになるだろう。いくら定義を
して「明確化」をはかろうとしたところで、そのような拘りが増えれば
増えるほど、「明確化」は、表現として理解可能な範囲での整合性を、
記述の適切さに優先させることになり、哲学の試みは思想に変わってしまう
ことになる。
0089考える名無しさん
垢版 |
2021/03/30(火) 09:30:17.550
マルティン・ブーバーの『我と汝』は、とても重要な哲学的な試みを含む
ものの、哲学の歩みを進めようとすることなく、思想に向かっている。
ブーバーの記述には「具体性(からだを具えているという性質)」が
欠けているので、その思想を実践しようとするなら、具体的な状況
においては、哲学に向き直ることを迫られるか、状況に応じたニヒリズム
を正当化するイデオロギーとならざるを得ないのではないか、と私には
思われる。
0090考える名無しさん
垢版 |
2021/03/30(火) 10:45:33.040
ファーーーーーッ!( ;゚皿゚)ノシΣバンバン!!
0091考える名無しさん
垢版 |
2021/03/30(火) 12:14:46.510
人間は、生成途上の神である
0092考える名無しさん
垢版 |
2021/03/31(水) 09:56:03.830
>「命(いのち)がある」ということは、具体的に、つまり、「『からだ』を
そな(具)へている」ものとして、次のように言い換えることができるのではないか。
《il y a ce qui est proprement donné pour soi, ce qui est soi-même,
comme c'est le cas pour autrui》

しかし、それでも、「具体的に命(いのち)があるもの」は、どのようにであれ、
《ce qui est donné pour soi》/「己に与えられるもの」を絶えず
《s'approprier》/「横領/流用」しながら、それを《soi-même》としての
《son propre corps》/「み(身)づから(柄)/自ら」とな(成)すことによって
命(いのち)をつないでいる。
0093[はれ(腫)『もの(物)』
垢版 |
2021/03/31(水) 11:28:03.860
思想的な言説において「『もの』として扱う」という表現をよく聞くことがあるが、
これは、英語の言説における"object"に「もの」という訳語を当てたものだろう。

既に見てきたとおり、"subjet/object"の対比は、日本語の「主客」の関係に
うまく対応しない。"objectification"を「客体化」としたところで、「主」に
「客」のように扱われることは、「もの」として扱われることではないだろう。
また、日本語における「もの」という表現も、「おおものぬし(大物主)」、
「もののべ(物部)」、「もののふ(武士)」、「ものもの(物々)し」、
「もののあはれ」、「数ならぬもの」、「い(言)ふかひな(甲斐無)きもの」
などの表現における「もの」の用法を見れば分かるとおり、英語の"object"
に単純に対応すると考えて済ませられるようなものではない。

確かに「『もの』のように扱われる」というのは誰でもが経験する感覚
だろうが、その場合、「もの」というのは、単なる「障害物」のように
押しのけられたり、意に反する/意を無視する扱いを受けて、そのことが
気に「さは(障)る」という感覚を生じる(したがって、「さは(障)る」
という「物体性」が想起される)ということだろう。

しかし、英語の言説における"object"を「物体」に相当すると考えても、
人が「物体」として扱われることはまずなく、障害物のように
他人に押しのけられる場合ですら、それは、「邪魔をしている」
と認識されるからであり、石ころが「邪魔だ」と蹴り飛ばされる場合、
その石ころにあたかも「邪魔する意図がある」かのように思いなされる
のと同様であり、犬や猫や昆虫にでさえ、「物体」としては扱われない。
さもなければ、蜂に刺されることもないだろう。
0094「はれ(腫)『もの(物)』」にさはる
垢版 |
2021/03/31(水) 11:30:09.190
「はれ(腫)『もの(物)』」にさはる、と書こうとしていたのに、
誤ったキーを押して、その前に「書き込む」操作をしてしまった。
0095考える名無しさん
垢版 |
2021/03/31(水) 11:48:52.150
人は、多くの場合、「『もの』として扱われる」のではなく、「『畜生』として扱われる」。
0096考える名無しさん
垢版 |
2021/03/31(水) 12:23:00.410
人は、どのようにすれば「『畜生』として扱う」ことができるのか、
人を「『畜生』として扱う」とは、どのようなことか、
それを適切に記述することが大切である。
0097考える名無しさん
垢版 |
2021/03/31(水) 12:48:36.430
  聖 書 は 作 り 話 だ よ(笑) A 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1605147511/l50

救われるべきはキリスト教徒ではなかろうか
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1518413795/l50

なぜクリスチャンは気持ち悪いのか
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1429459357/l50

キリスト教って存在する価値もないゴミ宗教だよな
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1535676254/l50

キリスト教は殺戮宗教!!!
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1254185470/l50

 戦 争 は キ リ ス ト 教 ば か り 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1588702875/l50

 キ リ ス ト 教 は 戦 争 や め ろ! 
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1594281916/l50


教義が低級で矛盾しているから
二重人格が多い

だから 最も戦争してる宗教
0098畜生であるとは、どのようなことか
垢版 |
2021/03/31(水) 13:42:08.080
神(/主)は、「み(身)づから(柄)/自ら」の《obligé(債務/Schuld)》を認めないもの
にも、《obligeant》であるように/「意/心にそ(添/沿)ふ」ように、
《déobligeant》である/「意/心にそむく」ことも、《être farouche》
である/「あら(荒)ぶる」こともないように振る舞ふことができるのか。
0099考える名無しさん
垢版 |
2021/03/31(水) 13:53:19.680
人に「あなづ(侮)らるる」/「なめられる」とは、どのようなことか。
0100考える名無しさん
垢版 |
2021/03/31(水) 13:59:41.640
事象の記述の取組みを疎かにして、人に何をどのようになすべきかを
諭そうとする言説は、たとえ自らの善意を堅く信じていたところで、
欺瞞的な思想誘導とならざるを得ないだろう。
0102考える名無しさん
垢版 |
2021/04/01(木) 01:04:12.870
神には、具現性はあっても、具体性はない。お伺いをたてることによって
ご託宣/お告げがあったとしても、神の意/心は、人には計り知れない。
そのため、ご託宣/お告げに従うことはできても、あらかじめ神の
意/心にそ(添/沿)ふようにすることはできない。神があら(荒)ぶるなら、
どのようにか神の意/心にそむくことになっていると窺い知ることに
なるだけであり、いくら神を祀り、捧げものをしたところで、人が
神に《obligé(債務/Schuld)》を負わせることはできない。効験のない
神の具現化を打ち捨てたところで、神に対して人は何の強制力も
発揮することができない。したがって、人は、あら(荒)ぶることの
ないよう神にねが(願)ふこと、あら(荒)ぶる神をしず(鎮)める/
なだ(宥)めることができても、人の意/心にそ(添/沿)ふように求める
ことはできない。人にとってそのように畏れ多いものが神とされる。
では、人にとって「畜生以下」であるとされるのは、どのような存在
だろうか。
0103考える名無しさん
垢版 |
2021/04/01(木) 14:41:11.040
「〇〇であるとは、▲▲であることである」というとき、そこに省略されているのは、
「人(ひと)にとって/"for one"」ということであり、そのことが完全に忘却される
場合でも、「いずれの人(ひと)にとっても/"for anyone"」が省略されている。
0104考える名無しさん
垢版 |
2021/04/01(木) 16:01:31.530
しかし、注意しなければならないのは、ここで、この「人(ひと)/"one"」は、
いかなる意味でも前提ではない、ということである。そうではなく、
この省略され、忘却され得る「人(ひと)/"one"」は、事象を「適切に記述する」
ことにおける記述の適切さ("adequacy")によって結果として導かれる/
"be led to"ことになる「人/一(ひと)しさ」である、ということだ。

https://www.etymonline.com/word/adequate
adequate (adj.)
1610s, "equal to what is needed or desired, sufficient," from Latin adaequatus
"equalized," past participle of adaequare "to make equal to, to level with,
" from ad "to" (see ad-) + aequare "make level," from aequus "equal, even" (see equal (adj.)).

逆に言えば、「人(ひと)」がどのように「定義」されるにせよ、「人(ひと)」を前提
とするいかなる記述も十分に適切("adequate")ではない。
0105考える名無しさん
垢版 |
2021/04/01(木) 16:34:46.800
事象を適切に記述しようとすることなく、「人(ひと)」を前提 として
他人になすべきことを諭す言説は、まやかしの思想誘導である。
0106考える名無しさん
垢版 |
2021/04/02(金) 00:31:23.520
いまさら繰り返すまでもないと思うが、日本語の「人(ひと)」が語源として
流用している中国語の「Middle Chinese: /pʰiɪt̚/」は、「『ぴった・り』合う」
という場合の「ぴった・り」の語源でもある。
0107考える名無しさん
垢版 |
2021/04/02(金) 00:33:52.990
最初から「ぴったり合っている」ことを前提とするなら、事象の適切な記述など
追求のしようがないことは明白だろう。
0108考える名無しさん
垢版 |
2021/04/02(金) 12:17:02.090
>神には、具現性はあっても、具体性はない。

「人(ひと)/"one"」は神ではないので、記述の適切さ("adequacy")によって
結果として導かれることになる「人(ひと)/"one"」にも、具体性がある。
言い換えるなら、記述の適切さ("adequacy")は、常に"one's own body"である
「み(身)づから(柄)/自ら」 の「人/一(ひと)しさ」の反映であり、その具体性には
以下のことが該当する。

>「具体的に命(いのち)があるもの」は、どのようにであれ、
《ce qui est donné pour soi》/「己に与えられるもの」を絶えず
《s'approprier》/「横領/流用」しながら、それを《soi-même》としての
《son propre corps》/「み(身)づから(柄)/自ら」とな(成)すことによって
命(いのち)をつないでいる<

したがって、記述の適切さ("adequacy")は、それが反映する「み(身)づから(柄)/
自ら」の具体性がそうであるように常に暫定的である。そのことを思い返す
ことのない言説は、いくら「献身的」であろうとしても、と言うよりむしろ、
「献身的」であろうとすればするほど、自らを神の代弁者と堅く信じ込んで
疑わないような「横柄」なものとならざるを得ない。
0109考える名無しさん
垢版 |
2021/04/03(土) 08:57:26.540
記述の適切さ("adequacy")が、常に「人(ひと)/"one"」の具体性の、
すなわち、"one's own body"である「み(身)づから(柄)/自ら」 の
「人/一(ひと)しさ」の反映である、とはどのようなことか。

何かを記述するとは、それが「どのようであるか」を記述することであり、
「どのようであるか」というのは、普通、明るさであったり、色であったり、
響きであったり、硬さであったり、手触りであったり、大小であったり、
温かさであったり、冷たさであったり、なんらかの感覚によるものである
わけだが、その「どのようであるか」の記述が「ぴったり合っている」
ことが記述の適切さであり、その「ぴったり合っている」ことこそが、
具体性のある「人(ひと)/"one"」の「人/一(ひと)しさ」の反映であり、
その「人/一(ひと)しさ」は、「コモンセンス」とも言い換えることができる。
他のあらゆる感覚を捨象して、「大きさのない位置だけのある点がある」
という場合でさえ、具体性の反映である感覚の「捨象」による記述であり、
点の位置の記述には、「人(ひと)/"one"」の具体性が反映され、点の
位置さえなく、「なにもない」という場合でも、「人(ひと)/"one"」に
対する「不在」として「人(ひと)/"one"」の具体性を反映している。
それがどのようにか可能であるとして、そのような「不在」ですらない
「無」を適切に記述しようとするとしても、それは「不在」にも反映
される「人(ひと)/"one"」の具体性を、どのようにか抹消する手続きと
してしか記述され得ないだろう。

記述の適切さ("adequacy")の追求において、「人(ひと)/"one"」は
決してあらかじめ定義されて前提とされるべきものではなく、結果として
記述が適切であること、そのどのようであるかという表現が、
「ぴったり合っている」こと、すなわち、「人/一(ひと)しさ」に
具体的に反映されるのであり、その都度、暫定的であり、ただし、
そのように「暫定的」であることは、「人(ひと)/"one"」が何らかの
定められた最終目標に向かっていることを示唆するものではない。
0110考える名無しさん
垢版 |
2021/04/03(土) 10:17:46.420
「み(身)づから(柄)/自ら」 の 現状に執着し、それを前提としてしまうために、
少し自ら試して見るなら容易に分かるはずのことも分からなくなってしまう
ということはよくある。試行錯誤を恐れるのは、錯誤によって生じることに
なるいた(傷/痛)みをあらかじめ回避できるよう、「み(身)づから(柄)/自ら」 を
大切にしよう(ニーチェの表現を用いるなら、"schonen")とするからである。
そのことによって、前提とする「み(身)づから(柄)/自ら」 を、分かるように
なるためには、そこに導かれなければならない「人(ひと)/"one"」の
「人/一(ひと)しさ」と折り合いをつけることができなくなってしまう。
0111◆P1F.MDbmTg
垢版 |
2021/04/03(土) 10:29:12.200
>>109 紫式部
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