«Hospiter», précise l'auteur de Paul Celan et MartinHeidegger, est un néologisme proposé par Benveniste pour traduire le verbe φιλεῖν, à propos duquelil donne l'explication qui suit: «le verbe phileîn exprime la conduite obligée de celui qui accueille àson foyer le xénos et le traite selon la coutume ancestrale.»783 «Le xénos entre tous les xénoi,poursuit H.France-Lanord, le Fremde pur et simple pourrait dire Heidegger, n'est autre que l'êtremême dont le Dasein est l'hôte et l'ob-ligé». 0023考える名無しさん2021/03/21(日) 08:42:54.900 >主體が存在の主張を貫徹し得るか否かは畢竟他者との關係が決定する
主體と客體が分離していない状態はよく、「主客未分化」と表現されて、 「曖昧さ」とか「混沌」という表現とよく関連付けられて説明される けれども、「な」が「羅」の流用であるなら、その状態は、最初から 《entrelacement》を表していることになり、主體と客體は、分化する というより、「と(梳)[解/説]かれる」ことによって分離して現れると見る べきなのでしょう。哲学では、フランス系の哲学の言説では、 《entrelacement》よりも《entrelacs》という名詞化が好まれる ようだが、《entrelacs》には「呪ひ」が強く感じられるので、 私には好ましいとは思えない。いずれにしても、客體が《entrelacement》 から「と(梳)[解/説]かれる」ことによって主體と十全に対比されて (畢[/毕]竟)現れるものであるなら、物事の明確化は、「定義」から 始められなかればならないなどということはないでしょう。 むしろ、定義は、既に現れている関係性をあらかじめ固定してしまう ことにより、絡まりを「と(梳)[解/説]く」ことを不可能にし、縺れを 累加的に大きくしてしまう可能性さえある。 0024考える名無しさん2021/03/23(火) 00:42:31.090 . ________ . /:.'`:::: ::::\ . /::: \ /:::. ⌒''ヽ,,,)ii(,,,r'''''' :: ヽ |:::: ン -==-∴-==- < | 鼓鵜屍津廼権威汰藻津煮派安芸屍埜廼彌耶家都立節鹿内蛇炉? ,../ `ヽ;_ i | / ヽ──ヽ / / ``'ー 、_\ ! ー=〓=-'`/ /ー 、_ `\:、_ :: / / ``ヽ、 ヽ`'7‐--'゛ __,,::r'7" ::. ヽ_ ゙l | :: ゙) 7 | ヽ`l :: /ノ ) | ヽ"::::''  ̄´.::;i, i `'' ̄ r';' }. |_____ ,,ノ(、_, )ヽ、 _____| . | \ || || / | |. ◎.\~ ||-====-|| ~/.◎ .| . |_二二二__. `ニニ´. __二二二_| | |古古||. H |×l]| H .||古古| | . |  ̄ ̄ ̄l=====l ̄ ̄ ̄ | |.____________.| ―//――――\\― ―//――――――\\― 0025考える名無しさん2021/03/23(火) 11:27:34.760>>23 https://sites.google.com/site/maximeroffayphilosophie/chiasme-et-chair-l-ontologie-de-merleau-ponty >>Au lieu du fond des phénomènes, au lieu de l'être, Merleau-Ponty nomme l'entrelacs, le chiasme. Et c'est à partir de ce nom (qu'on peut d'emblée dire en deux noms) qu'il constitue un discours de l'originaire. C'est à partir de cette nomination (déjà double) qu'il propose de livrer un certain type de savoir, autant phénoménologique en sa manière que métaphysique en sa finalité.<< 0026考える名無しさん2021/03/23(火) 11:41:40.960https://en.wiktionary.org/wiki/chiasm >Latin; in sense 1, from chiasma, from Ancient Greek χίασμα (khiasma); in sense 2, from chiasmus, from Ancient Greek χιασμός (khiasmos "crossing, diagonal arrangement"), from χιάζειν (khiázein, “to mark with a chi”), from χ (kh, “chi”)
https://www.etymonline.com/search?q=complication complication (n.) early 15c., "complex combination or intricate intermingling," from Latin complicationem (nominative complicatio), noun of action from past participle stem of complicare "to fold together, fold up, roll up," from com "with, together" (see com-) + plicare "to fold, weave" (from PIE root *plek- "to plait").
このことは、「わづらはし」がそのまま"causing complications"として 解釈され得ることからも確認できる。また、「累」という漢字を構成する 「田」という表記が、中国においても、田畑の「田」ではなく、 輪の連なりを表現するように解釈されたのであろうことは、 「累」と明らかに関連する「纍」という漢字によって表される表現の 語源的解釈や用法からも分かる。 https://en.wiktionary.org/wiki/纍; Definitions 1. to stitch, link or bind together in an orderly fashion 2. to twist around; to wind around 3. to confine; to impound; to imprison 0032de fil en aiguille2021/03/24(水) 09:32:53.840 累(纍) ピンインlěi ⇒ [異読音] léi,lèi (年月・数などを)積み重ねる,累積する.⇒连篇累牍 lián piān lěi dú 日积月累 rì jī yuè lěi ,成千累万 chéng qiān lěi wàn . 0033考える名無しさん2021/03/24(水) 09:43:09.210 けいるい 【係累・繫累】 (親・妻子など)面倒を見なければならない家族たち。 「―を断つ」
Der Verwandte als der beste Freund. – diese selben Griechen haben die Verwandten mit einem Ausdrucke bezeichnet, welcher der Superlativ des Wortes »Freund« ist. Dies bleibt mir unerklärlich.
ここで"own"、《propre》が表現するのは、「独自性」であり、「占有」である。 しかし、「独自性」や「占有」が有効であり得るとすれば、それは他者との関係 においてでしかあり得ない。したがって、「命(いのち)がある」ということは、 具体的に、つまり、「『からだ』をそな(具)へている」ものとして、次のように 言い換えることができるのではないか。 《il y a ce qui est proprement donné pour soi, ce qui est soi-même, comme c'est le cas pour autrui》 さらに、ここで《ce qui est proprement donné pour soi》というのは、 《ce qui est obligeant envers soi》/「己の意/心にそ(添/沿)ふもの」 として「己に親身である/有難いもの」であるとともに、それが他者を 自らに対して《obligé》とすることなしに、《obligeant envers autrui》に 振る舞ふならば、そのことがすなわち、《déobligeant envers soi》である/ 「己の意/心にそ・むく」《appropriation》/「横領」となるものであると 言うことができるのではないか。その意味で、「み(身)づから(柄)/自ら」とは、 《ce qui jalousement gardé pour soi》であり、「独占欲」に支配されたもの だろう。 0087考える名無しさん2021/03/30(火) 08:53:45.560 これはあくまでも哲学の歩みとしての記述の試みであって、思想ではない。 表現は、記述しようとする事象に適切となるようにそれを洗練させることが 絶えず試みられなければならず、表現の整合性への拘りが記述の適切さ を犠牲にするなら、哲学の試みを思想に変えてしまうことになる。 0088考える名無しさん2021/03/30(火) 09:07:38.510 例えば、ハイデガーが用いる"zuhanden/unzuhanden"という表現は、 「道具」について語る文脈においては、とても好都合であるが、 "one's own body"であり、《propre corps》である「み(身)づから(柄)/自ら」 について語ろうとする場合、依然、有効性があるとしても、 「み(身)づから(柄)/自ら」が"zuhanden"である、あるいは"unzuhanden" となる、という奇妙な記述をもたらすことになるだろう。いくら定義を して「明確化」をはかろうとしたところで、そのような拘りが増えれば 増えるほど、「明確化」は、表現として理解可能な範囲での整合性を、 記述の適切さに優先させることになり、哲学の試みは思想に変わってしまう ことになる。 0089考える名無しさん2021/03/30(火) 09:30:17.550 マルティン・ブーバーの『我と汝』は、とても重要な哲学的な試みを含む ものの、哲学の歩みを進めようとすることなく、思想に向かっている。 ブーバーの記述には「具体性(からだを具えているという性質)」が 欠けているので、その思想を実践しようとするなら、具体的な状況 においては、哲学に向き直ることを迫られるか、状況に応じたニヒリズム を正当化するイデオロギーとならざるを得ないのではないか、と私には 思われる。 0090考える名無しさん2021/03/30(火) 10:45:33.040 ファーーーーーッ!( ;゚皿゚)ノシΣバンバン!! 0091考える名無しさん2021/03/30(火) 12:14:46.510 人間は、生成途上の神である 0092考える名無しさん2021/03/31(水) 09:56:03.830 >「命(いのち)がある」ということは、具体的に、つまり、「『からだ』を そな(具)へている」ものとして、次のように言い換えることができるのではないか。 《il y a ce qui est proprement donné pour soi, ce qui est soi-même, comme c'est le cas pour autrui》
しかし、それでも、「具体的に命(いのち)があるもの」は、どのようにであれ、 《ce qui est donné pour soi》/「己に与えられるもの」を絶えず 《s'approprier》/「横領/流用」しながら、それを《soi-même》としての 《son propre corps》/「み(身)づから(柄)/自ら」とな(成)すことによって 命(いのち)をつないでいる。 0093[はれ(腫)『もの(物)』2021/03/31(水) 11:28:03.860 思想的な言説において「『もの』として扱う」という表現をよく聞くことがあるが、 これは、英語の言説における"object"に「もの」という訳語を当てたものだろう。
だから 最も戦争してる宗教 0098畜生であるとは、どのようなことか2021/03/31(水) 13:42:08.080 神(/主)は、「み(身)づから(柄)/自ら」の《obligé(債務/Schuld)》を認めないもの にも、《obligeant》であるように/「意/心にそ(添/沿)ふ」ように、 《déobligeant》である/「意/心にそむく」ことも、《être farouche》 である/「あら(荒)ぶる」こともないように振る舞ふことができるのか。 0099考える名無しさん2021/03/31(水) 13:53:19.680 人に「あなづ(侮)らるる」/「なめられる」とは、どのようなことか。 0100考える名無しさん2021/03/31(水) 13:59:41.640 事象の記述の取組みを疎かにして、人に何をどのようになすべきかを 諭そうとする言説は、たとえ自らの善意を堅く信じていたところで、 欺瞞的な思想誘導とならざるを得ないだろう。 0101考える名無しさん2021/03/31(水) 14:18:51.720 8 Das Gefühl der Schuld, der persönlichen Verpflichtung, ...
Friedrich Nietzsche: Werke in drei Bänden. München 1954, Band 2, S. 799-814. http://www.zeno.org/nid/200092559740102考える名無しさん2021/04/01(木) 01:04:12.870 神には、具現性はあっても、具体性はない。お伺いをたてることによって ご託宣/お告げがあったとしても、神の意/心は、人には計り知れない。 そのため、ご託宣/お告げに従うことはできても、あらかじめ神の 意/心にそ(添/沿)ふようにすることはできない。神があら(荒)ぶるなら、 どのようにか神の意/心にそむくことになっていると窺い知ることに なるだけであり、いくら神を祀り、捧げものをしたところで、人が 神に《obligé(債務/Schuld)》を負わせることはできない。効験のない 神の具現化を打ち捨てたところで、神に対して人は何の強制力も 発揮することができない。したがって、人は、あら(荒)ぶることの ないよう神にねが(願)ふこと、あら(荒)ぶる神をしず(鎮)める/ なだ(宥)めることができても、人の意/心にそ(添/沿)ふように求める ことはできない。人にとってそのように畏れ多いものが神とされる。 では、人にとって「畜生以下」であるとされるのは、どのような存在 だろうか。 0103考える名無しさん2021/04/01(木) 14:41:11.040 「〇〇であるとは、▲▲であることである」というとき、そこに省略されているのは、 「人(ひと)にとって/"for one"」ということであり、そのことが完全に忘却される 場合でも、「いずれの人(ひと)にとっても/"for anyone"」が省略されている。 0104考える名無しさん2021/04/01(木) 16:01:31.530 しかし、注意しなければならないのは、ここで、この「人(ひと)/"one"」は、 いかなる意味でも前提ではない、ということである。そうではなく、 この省略され、忘却され得る「人(ひと)/"one"」は、事象を「適切に記述する」 ことにおける記述の適切さ("adequacy")によって結果として導かれる/ "be led to"ことになる「人/一(ひと)しさ」である、ということだ。
https://www.etymonline.com/word/adequate adequate (adj.) 1610s, "equal to what is needed or desired, sufficient," from Latin adaequatus "equalized," past participle of adaequare "to make equal to, to level with, " from ad "to" (see ad-) + aequare "make level," from aequus "equal, even" (see equal (adj.)).
「人(ひと)/"one"」は神ではないので、記述の適切さ("adequacy")によって 結果として導かれることになる「人(ひと)/"one"」にも、具体性がある。 言い換えるなら、記述の適切さ("adequacy")は、常に"one's own body"である 「み(身)づから(柄)/自ら」 の「人/一(ひと)しさ」の反映であり、その具体性には 以下のことが該当する。
>「具体的に命(いのち)があるもの」は、どのようにであれ、 《ce qui est donné pour soi》/「己に与えられるもの」を絶えず 《s'approprier》/「横領/流用」しながら、それを《soi-même》としての 《son propre corps》/「み(身)づから(柄)/自ら」とな(成)すことによって 命(いのち)をつないでいる<