〔宇野弘蔵の学派〕岩田弘、大内力、伊藤誠など
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京大系の経済哲学も可。
ただし英語圏への浸透ぶりは雲泥の差。 あの柄谷行人も宇野弘蔵の影響下にある。
降旗節雄、新田滋、小幡道昭などもそう。 宇野弘蔵は哲学者の梅本克己とも対談を行っている。
『社会科学と弁証法』1976年
伊藤誠は青土社の現代思想にも投稿を行い、
去年、同社から著作を出した。
このように、宇野学派は哲学や思想とのパイプを持っている。 この人たちのことを哲学する経済学史家ってあんまし居ないんだよな。 ;社会科学と弁証法 梅本, 克己 ウメモト, カツミ 宇野, 弘蔵 ウノ, コウゾウ
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN00543522
内容:社会科学と弁証法(対談:宇野弘蔵,梅本克己) 『資本論』と『帝国主義論』(対談:宇野弘蔵,梅本克己) 労働力商品の特殊性-資本制生産の基本的矛盾に関連して-(梅本克己) 搾取の論理と収奪の論理(梅本克己) 資本制生産の基本的矛盾とその解決-梅本克己君の批評に答える-(宇野弘蔵) 商品としての労働力とその矛盾-宇野弘蔵氏の批評に答えて-(梅本克己) 弁証法的矛盾について-梅本克己君の答を待つ-(宇野弘蔵) 科学とイデオロギー-宇野弘蔵氏の批判に答える-(梅本克己)
;マルクスの思想と理論 伊藤, 誠 イトウ, マコト
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB29640435
注記
"貧困と格差は深刻化し、人間も自然も荒廃しつづけているいま、マルクスの深いヒューマニズムに依拠した言葉はわたしたちに何を語りかけるのか。閉塞した時代を打破する巨人の思想を、第一人者が透徹したまなざしで読み解く。"--TRC MARCより
文献一覧: p221-226
内容説明・目次
内容説明
資本主義の限界とありうべき社会のかたちを提示した偉大なる思想家が生まれてから二〇〇年―。貧困と格差はより深刻化し、人間も自然も荒廃しつづけているいま、マルクスの深いヒューマニズムに依拠した言葉はわたしたちに何を語りかけるのか。閉塞した時代を打破する巨人の思想を、第一人者が透徹したまなざしで読み解く。
目次
第1章 マルクスの思想と理論の形成と展開―そのヒューマニズムの奥行き
第2章 導きの糸としての唯物史観―人類史をいかに総括するか
第3章 『共産党宣言』の現代的魅力
第4章 『資本論』をどう読むか
第5章 現代世界の多重危機とマルクス
第6章 二一世紀型社会主義のために 西部邁はアンチヒューマニズムだから宇野学派は苦手だったのではないかと推察する。 ただし、『ソシオ・エコノミックス』の参考文献には、
宇野弘蔵の『経済原論』と『資本論と社会主義』が挙げられている。
また、宇沢弘文の本も。 京大経済系の重田澄男は『再論 資本主義の発見』で
マルクスと宇野弘蔵を共に論じている。 岩田弘はこぶし書房に取り込まれなかった数少ない知識人の一人である。 西部「どうですか経済学は?」
宇沢「なかなか死なないねえ」
なんてやりとりがあったそうだけど。 伊藤誠教授は東大経済学部を代表するマル経学者だったけど、
あの人はどっちかって言ったら、マルクスというより宇野弘蔵だったな ま、東大の外部から見ると「宇野経済学」が講じられている
ように見える訳でしてw 國學院でも国士舘でも教えていたのは凄い>伊藤誠教授 >>18
いや、そんな人は伊藤誠教授だけだった
ちょうどソビエト連邦や東ドイツが消滅していた時期にマルクス経済学の講義を聞いたが、すでに退潮いちじるしく寂しいムードがあった
今はどうなってることか 宇野 弘蔵(うの こうぞう、1897年11月12日 - 1977年2月22日)は、日本のマルクス経済学者。
日本のマルクス経済学者の中でも特に影響力の大きな一人であり、その学派は宇野学派と称された。
宇野学派は新左翼や社会主義協会に影響をあたえた。 『資本論』に基づく経済研究を原理論、段階論、現状分析の3つに分けるという構成がとりわけよく知られ、唯物史観や社会主義イデオロギーから切り離した科学としての経済学を確立した。
ちなみに宇野自身は自著で「自分をマルクス主義者とはもちろんのこと、広い意味での社会主義者とも考えたことはありません」(『資本論五十年』)と語っている。 つまり、「マルクス経済学をベースに、イデオロギーを抜きにした社会科学を作った人」
そういう理解でいいのかな? 革命思想と資本論を分離したんだわな。
ただし、恐慌については注意を促していたわけだが 廣松渉が物象化というところを京大哲学系の牧野広義は物件化と書いているが、
これは戦後すぐからの東大倫理学系の梅本克己の用語法と重なっている。 マルクスを批判的に継承し、イデオロギーを排した純粋な社会科学として再構築することに心血を注いだ宇野弘蔵
その独創的な着想は、資本主義が行き場のない閉塞感を生みだしつつある昨今、再び衆目を集めている。
マルクスの魅力とその問題点、さらには自らの理論のエッセンスまでも語り尽くした著書
『資本論に学ぶ』 岩波新書やちくま学芸文庫や岩波文庫に収められているよね。 「技術進歩に伴って、労働者が要らなくなり、失業者が増える」というのは、昔から言われている
古くは、産業革命期のイギリスで起きた機械打ち壊し、ラッダイト運動。
いまは、「人工知能の発達で消滅する職業」が盛んに取り沙汰されている
技術進歩により生産能力が上がると、資本に対して人口が相対的に過剰になる。
資本主義がどんどん生産方法を改善していくと、過剰人口がどんどんできてくる。
つまり、過剰人口がどんどんできてくると、労働者の生活はますます窮乏化する。
それが資本主義に特有な傾向、かの有名なマルクスの「窮乏化法則」だ。
宇野弘蔵は、これを批判した 日本のマルクス主義者諸君や、あるいは西洋のマルクス主義者諸君もそうですけれども、この窮乏化法則というものを、マルクスの非常に重要な法則のように考えている人がいるのですが、これは困るのです。
人口法則までは正しいのです。しかし窮乏化法則は、不断に生産方法が改善されていくという前提に立っている。しかし資本は不断に生産方法を改善してはいかないのです。
大きい目で、明治、大正、昭和と時代的な流れを大きく見れば、不断に生産手法を改善してきたと言っていいと思うのです。
しかし少し近寄ってみると、いっぺん資本を投じるとどうしても固定資本があるのです。この固定資本を無視して、新しい方法をどんどん採用していくということは資本主義にはできないのです。
その点が、この窮乏化法則なる議論の落し穴になっているわけで、マルクスはそこをちょっと忘れてしまったんだな。
ぼくのマルクスとは比較にならない小さい根性から言えば、おそらく人口法則を発見したということが非常にうれしかったので、つい勇み足をしたのではないか。
そしてそれがエンゲルスのいわゆる産業予備軍というのと結びついてしまって、窮乏化法則というものになったのではないか、というふうに考えるのです。 宇野はマルクス主義的な直線的に物事が進歩して行くという思想に疑念を呈した訳だな。
でも、結局は螺旋状に展開して行ってる気がする。 >>34
そういうことでしょうな
現実には、資本主義には景気循環がある。
好景気なときには人が足りなくなり、不景気なときには人が余る
一方、資本の側には固定資本があり、そんなにすぐには変わらない。
宇野弘蔵によると、「マルクス主義者諸君」はこの点を見落としているのだという 螺旋階段なんか知らないという世代もいるだろうから、
景気変動の踊り場という表現の方がいいのかもしれない。 この点では、恐慌論になる重要なポイントをいっぺん発見しながら、マルクスはそれをうまく使えないようにしてしまった。
これは恐慌論に非常に関係があるのです。つまり、恐慌現象というのは、景気の循環の過程の中で、ある時期には労働者がたりなくなる、
ある時期には労働者が余ってくる、たりなくなるときがいわゆる好景気で、余ってくるときがいわゆる不景気なのです。
資本主義はそういう循環過程を繰り返しながら発展してきている。その過程で労働者が余った不況期に、資本は新しい生産方法を採用する。
資本主義はそういうときにとんちんかんな、つまりひっくり返ったことをやるのですね。
不況期で失業者が多くて人口が余っているというときに合理化をやるのです。ちょうど正反対になる。
儲けになるときには、合理化をやらないで、どんどん拡張するという傾向がある。どんどん拡張すると、必ず資本の方がよけい増殖される。
つまり資本の蓄積の方がよけいになって、人間の方がたりない。
好景気に生めよふやせよと言っても、そう生むわけにいかないのです、人間は。生めよふやせよと言って、生んだところで間に合わない。
ナチスでも、それで弱っちゃったのです。生めよふやせよと一生懸命で言ったけれども、生んだ子が労働力になるまで、あるいは兵力になるまでには十何年かかるのですから、そう簡単にふやすわけにはいかない。
逆に、ちょっとおもしろいのですけれども、不景気になって過剰人口ができたときに合理化をやって、もう一つ過剰人口を作ろうとする。
そのかわり、この過剰人口を基礎にして好景気をやろう、という関係ができてくる。これが景気の循環になるのです。
恐慌現象というのは、そういう意味では資本の蓄積が労働人口にマッチしないような過剰の蓄積をやる。そういう関係で恐慌現象が起きるのです。
(宇野弘蔵 「資本論に学ぶ」) 引用お疲れ様。宇野弘蔵はやっぱり時代を見てきた人だけあるね。 つまり、宇野弘蔵はマルクス理論をベースにしながら、「景気循環」を説明しようとした
技術が進歩すれば、労働者が今までほど要らなくなって、失業者が増える。
「AIが発達した結果、消滅する職業ランキング」がいい例だ。
その結果、労働者が窮乏化して、貧富の差がますます大きくなる
ここまではいいんだけど、宇野弘蔵によれば、「マルクス主義者諸君」が考えているほど、これが一直線に進むわけではない。
なぜかというと、資本主義には好景気なときもあれば、不景気なときもあるからだ >>38
なんか、今の時代にこそ脚光を浴びてもいい考え方のような >>40
書かれた当時も今も通用する不朽の古典だということですな。 >>8
の元東大の伊藤誠が去年出した本を入手した。 東京大学名誉教授の伊藤誠は学士院の会員だけど、
学士院の関係者が青土社から本を出すのは
異例じゃないかな? 伊藤誠教授の講義
もっと、ちゃんと聴いておけばよかった はっきりいって宇野弘蔵の著作はマルクスより難解である。
そこで宇野理論の入門手引き書として『資本論』が参考となる。
奇妙な逆転現象ではある。
しかし、あらゆる古典テキストとはそういうものだ。
(憂の弘蔵)
暴力革命にこだわらないのであれば、
革命家が手にとるべき本を著した学者たちの一群だと思う。 「マルクス葬送派」という一派がござってな。
言葉の正しい使い方なら「宇野弘蔵」こそがそれに当てはまる。
死者を丁寧に葬る、あるいは祀る。
それが「葬送」ではないか。
それをあろうことか笠井等は遺骸を荒野に放り出し「葬った」などとぬかす。
今もマルクスが亡霊や悪鬼として彷徨うのも無理はない。 古本屋で宇野弘蔵の資本論50年の上下巻本を見かけた。買わなかったけど。
そのうち文庫化されたりしてw 宇野弘蔵が古本の中で人気があるのは、剣呑なことはしませんよ
というポーズを作るための知的武装に都合が良いということからなのだろう。
これが梅本克己などになってくると話は違ってくる。 関西系のマルクス経済学は市民社会系と極左系があるが、そのせいで、
漠然と左翼といった感じの東日本での宇野経済学=マルクス経済学の根付き方とは
ちょっと違った感じの様相を呈していると思う。 昔の2chに、家に榎原均の『資本論の復権−−宇野経済学批判』があったら、
公安に捕まるなどといった書き込みがあったな。 実際は榎原本をcinii booksで調べたら、
結構いろんな大学の図書館に所蔵されているぐらいの書物なので、
ビビる必要はそんなになかったと思われるが、
出版は1980年前後のことだったから、
当時としては結構所持するのに勇気の要る本だったのだろう。 ◯ ◯「隣はなにをせし人ぞ」というのは、あれは。
── 「した人ぞ」です。
◯ ◯ 前年の三月十日までのときですか。
── そうです。あれは僕の隣に脱獄囚が入ったのです。夜、ガタガタガタ
ガタやっているんだ。大騒ぎている。それからさっと静かになった。
「春浅き隣はなにをした人ぞ」というわけだ。あとで聞いたら脱獄囚
だった。したたかものだったらしい。それは二月の塩釜署です。
◯ ◯ そうすると一年と三ヶ月ぐらい入っていたわけですね、
── やはり運動していないのにあげられたという点と、それから『資本論』
に自信がなかったということ、これが非常に大きな弱点だった。この
点でぼくのいまぐらいの考えがあったら、もう少し強く検事とでも争
えたかもしれない。以下略
資本論五十年(上)宇野弘蔵 P531 法政大学出版局 1970
宇野弘蔵は理論家としても実践家としても駄目だと戦前の検挙で思い知らされた訳だな。
で、戦後は独特の思想家のような立ち位置に
行くと。
労農派がどうとか講座派がどうとか言う話は
この板が適切だな。 ちなみに榎原均の上記の著書は
獄中で書かれたものというのがインパクト大だよね。 かつての思想警察(検察?)の水準を知るには
警察御用達の立花書房から出ていた『マルクス・レーニン主義とその批判』
が役立つと思われる。俺はまだ読んでいないが。 大内力の国家独占資本主義はこぶし書房に入っているが、
何が気に入られて入ったのかが気になる。 カール・マルクスこそ「宇野弘蔵」だったということ。
これが肝心。
スミスやリカードの著作から「諸国民」や「課税の原理」
という“不純物”を追い出したのが『資本論』。
その『資本論』から「社会主義」や「革命」という“不純
物”を追い出したのが純粋資本主義論よしての「宇野理論」。
経済学史的には首尾一貫している。 ただし、原理論だけでは歴史的推移に対応できないということで、
段階論や帝国主義論のようなものが加わっていて
いわゆる「三段階論」が成立する。 そもそも「三段階」ということが誤解の元ではないか。
宇野理論に「現状分析論」など必要はない。
純粋資本主義論(原理論)こそ現状分析論。
対しての非資本的原理で成り立つ帝国主義論(反グローバル)。
両者の均衡点が “現代“ と呼ばれる世界なのだろう。 原理論は19世紀イギリスにしか妥当しないんじゃ
なかったっけ。 『資本論』が未完成に終わったのは19世紀末の世界状況に
作者が対応できなかったという説は確かに有力ではある。
しかし、その『資本論』を原理化(モデル化)した宇野理論
は「ウェーバーの理念系」そのもの。
だが、宇野自身は自己の理論を「ウェーバーの理念系」でない
と否定している。その論拠が今ひとつわからない。 細かいけど、理念型だよね。
柄谷行人の世界共和国もそうだと思う。 イデオロギーと学問を区別する職業としての学問チックなところは
あるかもね。 『資本論』から「マルクス」を追い出したのが宇野理論だった。
マルクス主義者が“殺気立つ”のも無理はない。
聖書からGodを追い出したようなものだ。
いまでこそデリダの「テキスト論」としても定着しているが実
践は難しい。 ニーチェを文献学的に読むというのと少し似ているね。 「資本の謎」に挑んだのが D・ハーヴェイ 。
「資本論の謎」に挑んだのが宇野弘蔵。
どちらの挑戦がいいというわけではない。
先ず区別が必要。 資本論の文献的解釈に宇野学派も立ち入っているのかな? 岩田弘の1960年代の著作にも目を通しておいたほうがいいんだろうな。 宇野弘蔵は本当は「経済学者」と呼ばれるのはものすごく
恥ずかしいとおもっていたのではないか。
あくまでも自分は文献学者あるいは資本論学者であって
そのことを周りの弟子ども(特に東大出)は全く理解して
いなかった。しつこいまでの科学とイデオロギーの分別は
それを表していた。 イデオロギーって何だろう
少しでもましな世の中にってのも
イデオロギーのうちなのか。 宇野弘蔵の著作には経済政策についてのものも
あったような。 パンデミックこそ「宇野理論」の発生源だろう。
ウィルスがヒトに感染し増殖する。
GーWーG' 実にわかりやすい。
貨幣資本(流動資本)が生産資本に取り憑きあるいは包摂しさらに増殖する。
よくわかる『資本論』。
1898生まれの宇野少年がどのような「スペイン風邪」蔓延の
岡山倉敷の環境にあったかは残念ながら定かではない。
しかし宇野弘蔵が「商家出身」という俗説よりは説得力がある。 宇野弘蔵は第六高等学校時代は何語を専攻していたんだろうか。 大内力ってドイツ語もロシア語も読めたんだな。すごいな。 宇野学派がいいと思わなくても、
宇野弘蔵の博士論文である『恐慌論』と伊藤誠の博士論文である『信用と恐慌』は
馬鹿にはできないと思う。 <資本論馬鹿一代> この尊称こそ宇野弘蔵にふさわしい。
宇野弘蔵が他の資本論研究者と異なるのはアナーキズムの
水脈が滔々と流れていたからである。
マルクスがマルクス主義者と截然と区別されるように
宇野弘蔵も宇野学派とは截然と区別されなければならない。
特に現状分析論。国家独占資本主義論。
宇野弘蔵に従えば『資本論』こそ今もなお200年に及ぶ
超ロングスパンの最高の現状分析論。
マルクスはいまもなおあの世でせっせと『資本論』を書き続けている。
資本論バカ一代 嗚呼。 >>80
相当なスピードで読める人でないと十分な読解力は無いと思う。
そうでないと文章のメリハリが分からない。
トロッキーは5−6か国語を読めたはず。 >>84
『農業恐慌』を半分熟読した感じと『国家独占資本主義』をぱらっと読んだ感じとでは、
総合的に見て相当能力の高い人だと思ったけどね。 eテレで斉藤幸平が栗原康と対面していたのにはワロタ。
水と油。ボンボンと引きこもり。
それ以上にフイタのが高橋源一郎が見田石介・宗助と縁戚という事。
高橋には作家として甘粕姓から見田姓に替えた見田家のその辺の
事情をえぐって欲しいね。
おっと宇野弘蔵。
宇野弘蔵こそ『資本論』の「アナーキスト読み」の第一人者。
「宇野理論」なるアカディズムこそぶっ壊せ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています