マックス・ウェーバー 統一スレPart4
中野敏男の大塚久雄批判すごい。
プロ倫の翻訳はまったくのでたらめだといっている。 >>6
中野敏男『大塚久雄と丸山眞男――動員、主体、戦争責任』
青土社 (2001/11)
絶版の本です。わたしは古本屋で手に入れました。
大塚の翻訳への批判は正しいのでしょうが、
わたしはこの人の道徳的な大塚、丸山批判には嫌悪感を抱きました。
アマゾンでこの本が出ますので、検索してみてください。
>>7
持ってました。読みましたが、あまりクリティカルな批判ではなかった記憶が。
総力戦体制論(動員史観?)とかが流行ってた頃で、戦中の大塚の生産力論にひっかけて、
『プロ倫』の訳が恣意的だとか何とかそんな感じだったような。
梶山訳と比べていましたが、最近は中山元訳もあるのでそれと比べても面白いかもしれないですね。
羽入・折原論争には中野さんは何かコメントしてましたっけ?
>>9
情報ありがとうございます
この方はどちらかというと動員史観批判派のようですね(中野氏とは距離があると思う)
しかし、大塚史学の検証で博論が書ける時代なんですね (1)ドイツ語の訳し方がおかしいところがある。
sollenの訳がおかしいらしい。
(2)自分の考え方を盛り込んで訳してしまう。
これこそが、大塚の「犯罪」である。
ここ数ヶ月楽しみにしていたヴェーバー研究者の論文集の出版が
伸び伸びになってて、「いつ出るんだよ!」と思ったら
やっとamazonで予約取り扱いになってた 大塚、山之内、中野。
ウェーバーへの関心から、こういうのを読んでいると
誤導されてしまう読者が多いだろう。 大塚久雄はマルクス的ウェーバーだ、
山之内はマルクス研究者だった、 だから日本の社会思想史の研究者にはロクなのがいないと。
大学の社会学部でもどんどんコマが削られてるし、20世紀で
終わった学問領域だよな。 イギリスなんぞでは、ヴェーバーをどういう具合に
社会学的に利用できるかという観点から、
ヴェーバーを研究するのが多い。 アマチュアは、ヴェーバーの著作そのものを読まず、
悲しいかな、そうした日本のヴェーバー研究者の本ばかり読んでいる。
大塚久雄や折原浩を読むんじゃあないですか。
それでヴェーバーがわかったつもりになるのだけど、
それは大塚、折原のヴェーバーでしかない。
日本以外でヴェーバー研究者で有名な人はだれがいるの。 >それは大塚、折原のヴェーバーでしかない。
この人らには、露骨にクセがある。 マックスヴェーバー読んでみようと思ったんだけど岩波の大塚訳はあんまよくないのかな
日系BPだかでぷろりんと職業としての学問、政治の新訳出てるみたいだけどそっちにしたほうがいいかな 姜尚中に暇があれば新訳期待してもいいが、
もう無理だろうな。 >日系BP
中山元ですね。ルソーもフロイトも、ウェーバーもカントも訳しておられる。
『プロ倫』の訳は大塚訳を参考にしたと見えて、梶山訳よりも後退しているのでは。
>姜尚中に暇があれば
ヴェーバーを「近代」批判者としてみる人ですね。
ヴェーバー理解が根本的に間違っているように思えてなりません。
>>29
ふうむ
なら岩波の大塚訳でもあんまり変わらないんですかね
実はもう買って積んであるんですよ
岩波訳というか、読みにくい日本語には慣れてきてるのでそのまま岩波版を読もうかと思います 梶山・大塚共訳というのがあって、それが大塚訳になって
おかしくなった。前の方が正確だった。
大塚は、自分の思想、自分のウェーバー理解にあわせて、訳した。
ドイツ語理解の問題だけではない。
すでに決定版が出ています。
マックス ウェーバー (著),
梶山 力 (翻訳)、安藤 英治 (編集),
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』
未来社、¥ 5,040
>梶山 力 (翻訳)、安藤 英治 (編集),
>『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』
冒頭で安藤英治がやんわりと大塚久雄を批判しているね。
森嶋通夫『思想としての近代経済学』のウェーバーの章は非常に良く書けていると思う。
高田保馬−森嶋通夫ラインはやはり凄いと思った。
余談だが、2003年に札幌で乗ったタクシーの運転手の名前が「高田保馬」だったw
「昔、運転手さんと同じ名前の学者がいたんですよ」と話すと「もう亡くなられたそうですね」
と言っていた。あの運転手はどこで博士のことを知ったのだろう? 森嶋通夫『サッチャー時代のイギリス』(岩波新書)
この本でヴェーバーの「責任倫理」と「信念倫理」が
はじめて分かりました。
カトリックには「予定説」の考えなんて、これっぽっちもないの?
ほとんど異端に近いの? カトリックは「予定説」を全面否定していますね。
ほとんど異端でしょう。
「予定説」を認めると、
免罪符の価値がなくなりますからね。 俺が小学生だった頃、日曜日の朝早くから「神は・・・」という街宣車による
大音量放送を聞かされて、同級生のクリスチャンの男の子に、「神って朝から
大迷惑なんだけど」と話したら「あれはカトリックじゃないからダメなんだ」
と言われたので、カトリックがキリスト教の正統なんだと思っていた。
街を歩いていると「世界人類が幸福でありますように」っていうメッセージを
目にするけど、あれってカトリック?プロテスタント?
ビートたけしが「大きなお世話だ」と言っていたけど、俺もそう思う。
>>39
カトリックは恩寵予定説だけどな。
カルヴァンの予定説みたく救われる奴は救われるけど地獄に堕ちる奴は落ちるのは
むしろユダヤ教からの流れだって感じがする。 ウェーバーが特に日本で熱心に研究され、語られるのは
やっぱ大塚久雄の影響が大きいんですか? 昔はそうだったんでしょう。
しかし、このごろヴェーバーは読む人は、
大塚とは無関係のはずです。
宗教法人 白光真宏会 立教 1949(昭和24)年
開祖・教祖 五井昌久(ごい・まさひさ)
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命がまっとうされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
>ヴェーバー研究者の本なんか素人は読まん。
入門書、解説書を読んでいる。
>>37
>森嶋通夫『サッチャー時代のイギリス』(岩波新書)
ウェーバーの政治家論については、
森嶋通夫『政治家の条件』(岩波新書)のほうが、
より詳しく出ています。
森嶋はウェーバーに依拠しつつ、サッチャーを批判しています。
森嶋は保守党にも労働党にも批判的。
英国自民党を支持している。
サッチャーは信念倫理の政治家だとしてきびしく批判。
信条倫理と責任倫理のバランス(Sense of proportions)が大事で、
前者が暴走したのがサッチャー、一方後者しかないのが日本の政治家、
という見方だったね 森嶋通夫『政治家の条件』(岩波新書)
もう絶版になっている。
よく、政治家たちがいう「結果責任」が
ウェーバーの「責任倫理」のことだよね。
ウェーバーの研究者ってだんだん下火になってないか?
二次文献の数が以前より明らかに減ってるように思う 雑誌のヴェーバー特集はまだチラホラとあるようだが。
探せばけっこうあるけどね>二次文献
よほど好きか専門でなきゃまず読まないだろうな 『季報 唯物論研究』第113号、2010年8月
これが特集「ウェーバーの超え方」だ。
「大塚久雄の「誤解」ー『プロテンスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の末尾をめぐって」という論文も入っている。
http://www.mosakusha.com/newitems/2010/10/_113.html
日本じゃ社会思想史という分野が下火だからな。
安藤英治が亡くなったあたりでついえた感じがする。 中野敏男とか大学入りたてのころ読んでた時期があったが、懐かしい
今じゃ二度と読むことはないだろうけど
ウェーバーとマルクスはは二次文献不要だろう
岩波訳(というか大塚訳か)は評価低いね
『社会学の根本概念』清水訳はどーよ >『社会学の根本概念』清水訳はどーよ
わかりやすい。しかし、原文に忠実ではない。
いまでは絶版の角川文庫版がヨリ正確。
単行本化されて、復刊されているはず。
『理解社会学のカテゴリー』も
岩波文庫の林道義訳がよくない。
林は理解していないと思われる。
値段ははるが、未来社版がよい。 >>60トン
…ふむふむ、ウェーバーに関してはどうも岩波は避けた方がいいみたいだね >63
歴史哲学一般が時代錯誤。
ヴェーバーが、歴史を「合理化」の進展として見ていた
とすれば、これは目的論的歴史哲学でしかない。
しかし、そういうヴェーバー解釈自体も怪しげだが。
左翼思想からする資本主義批判が後退するとともに、
むかしあった近代批判というのが復活しだした。
そこから近代批判というかたちでのヴェーバー論も出てきた。
カンサンジュンがそうだ。
しかし、近代批判というのは漠然としてる。
ウェーバーの国家論は、
国防と警察を国家の基本的役割とするオーソドックスなもので、
あまり魅力がない。
ヴェーバーが「暴力装置」という言葉を使ったとネット上では騒がれてますが
自分が確認できる限りでは、そのような記述は見当たらないのですが、
どなたか出典を存知でしょうか? >>69
すみません。「暴力装置」という言葉を使ってる箇所を誰の訳で、どのページでしょうか。
教えていただけると助かるのですが。 >>69
なんかさいきん勘が冴えてるのか、今日ちょうど古本入手した
>『職業としての政治』
ほぼ全ページが赤線と赤点と赤丸だらけで凄いことになってるw >>70
ウェーバーによれば政治そのものが暴力で、軍備はその物理的手段なんだってさ いや「暴力装置」という言葉の典拠を教えて頂きたいのです。
自分が所持している、岩波の脇圭平訳「職業としての政治」にも
河出版の清水幾太郎・清水禮子訳「職業としての政治」にも
そのような言葉は見当たらないのですが。 >>68
暴力装置という言葉そのものはレーニンからの引用説も出てた >>68
「暴力装置」は 今村仁司の著作で見たかも(ウェーバーの事ではなかった様な・・・)
哲学や社会学で権力とか「暴力」という言葉を扱う時それは中立的な(党派的・政治的ではない)概念のはず
仙谷を擁護する気はないが、この用法はこういう世界では間違いではない(或いは「戦争機械」だとか)
ただ、内閣・政治家の答弁として こんな言葉遣いが通用するのかな? 評価は分かれると思う
(柳澤伯夫元夫厚労大臣の「産む機械」騒動を想起させる)
>>76
> 哲学や社会学で権力とか「暴力」という言葉を扱う時それは中立的な(党派的・政治的ではない)概念のはず
でLAのようです
政治用語としても普通に使用する中立的言葉だとの説もあるにはありましたが。 携帯にかわたので ID変わります
>>77 政治学でもそうですか けど国会で使うべきかと
(但し、突っ込んだら負けかと。とりわけ共産党の皆様w) >>74
>いや「暴力装置」という言葉の典拠を教えて頂きたいのです。
ヴェーバーは 「暴力装置」という言葉は使用していません。
また国家を「暴力装置」としてとらえる考え方もありません。
ただ『職業としての政治』に次の言葉があります。
「むしろ近代国家の社会学的な定義は、結局は、国家をふくめたあらゆる政治団体に
固有の・特殊の手段、つまり物理的暴力の行使に着目してはじめて可能となる。『すべ
ての国家は暴力の上に基礎づけられている』。トロツキーは例のブレスト・リトウスクで
こう喝破したが、この言葉は正しい。」
「国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――
正統な物理的暴力行使の独占を(実効的に)主張する人間共同体である……。」
脇圭平訳『職業としての政治』岩波文庫、9頁。ただし、訳文の一部を修正。 80の引用の前に、次の文章があります。
「それでは社会学的にみた場合の『政治』団体とは何か。したがって
『国家』とは何か。国家もまた、その活動内容から考えていったのでは、
社会学的に定義することはできない。どんな課題であれ、まずたいていの
課題は、これまでどこかでどの政治団体かが一度は取り上げてきたと考えら
れるし、といってこれだけは、いつの時代でも百パーセント、政治団体――
この政治的と呼ばれる団体は現在でいえば国家であり、歴史的に見れば近代
国家の先駆となった団体である――の専売特許だった、と断言できるような、
そんな課題も存在しない。」脇圭平訳『職業としての政治』岩波文庫8-9頁。
訳語の一部を変更。
要するに国家権力の一種で、暴力による反乱を鎮圧するための手段てことかな >>80
ヴェーバーの術語だと言われたのでおかしいなと思ったのですが
やはりヴェーバーの用語ではないですか。
『宗教社会学論選』でも下記の記述なので
やはり「暴力装置」という訳語はヴェーバーのものじゃなさそうですね。
「国家」は、正当性をあたえられた暴力行使 legitime Gewaltsamkeitの独占を要求する、そうした団体だと定義するほかはないであろう。 マックス・ヴェーバー『宗教社会学論選』 p118 >「国家」は、正当性をあたえられた暴力行使 legitime Gewaltsamkeit
>の独占を要求する、そうした団体だと定義する
「正当性」とか「暴力行使の独占」とか…
こと軍事に関しては左も右も似たようなもんだからなあ 仙石さんがどういう意味で言ったのかが問題なんだよね?
全共闘の言説空間でいったなら、まずレーニンだし、しかも俗流だ。
ウェーバーでも、レーニンでもない、全共闘用語でいいんじゃないか?w
当時の学生運動家も満足に原典にあたってないよ。
今の学生と変わらない。
学術用語だから問題ないとかナンセンスもいいところだ。 って言うか暴力装置云々は「社会学」なの?
「政治学」だと勝手に思ってたわい 「暴力装置」という言葉が「日本で」どういうニュアンスで流通してきたかって
ことは元全共闘の活動家だった知識人や日本共産党の古参幹部なら経験上で知って
るはずなのに、なんで黙ってるんだ?
国家秩序を維持するための物理的な強制力に類するものはなんでもウェーバー発祥
みたいなぬるい一般論がTwitterでも平気でまかり通ってるよ。
しかも学術用語でございますだってw 普通に諸君とかで出てくるような言語で
問題なし
中西輝政とかでも普通にいいそう
文句言うやつが馬鹿
そういえば唯物弁証法とか弁証法的唯物論って言葉をマルクスやエンゲルスは使ってないらしいな。
それと同じにおいを感ず→暴力装置 >>88
>当時の学生運動家も満足に原典にあたってないよ。
この一文に触れたとき、ニュース速報+板で今宵アツい喧嘩をしてる人たちと
半世紀前に口から唾を飛ばして激論してた学生運動家が一瞬かぶって
心がちょっとほっこりした。 GoogleのWeb検索の「暴力装置」の検索結果はすでに仙谷発言関連で
埋め尽くされていて、「暴力装置」の過去の用例を探す目的には使えそう
になかったので、Googleの書籍検索で出てきた4000件ほどの書籍をざっと
一晩かけてチェックしたら、保守派の論壇である「諸君!」とかでも、
自衛隊をきちんと軍隊として位置づけよという文脈で「暴力装置」を使ったり
しているね。 http://y-sengoku.com/06/05/051003.html
>私の感覚では、良いか悪いかは別として自衛隊の存在を国民の8割くらいが認めているのではないでしょうか。
>確かに暴力装置としての大変な実力部隊が存在し、法的に言えば自衛隊法や防衛庁設置法でもって定めているのです。
>それならば、これが違憲の法律だと言わないのならば、憲法に自衛隊が存在することの根拠を書かないというのは、
>憲法論としても法律論としても如何なものかというのが本当は論点の核心にならなければいけない。
>しかしながらそれは殆ど素通りをして、憲法の文言を変えて自衛隊を憲法上の存在とすることによって軍国主義化するとか、
>そうでないとか、戦争をすることになるか否かという議論ばかりが現在まで延々と続けられてきた。
>衆議院の憲法調査会を5年間やりましたけれども、そういう両極端の議論を100回繰り返しても物事は何も進まないと
>私も随分発言しましたけれども、それがまだまだ主流になってこない。 >>90
保守派の言う言葉だよ
そもそも暴力装置を否定する人はその時点で保守じゃない 試しに仙谷議員の>>95の記事本文を「保守系の石破議員が書いた」ってことに
してニュース速報+板に貼ってみた。
そしたら、仙谷議員を叩いてる連中が、この「暴力装置」の用法は問題ないと
言って、いっせいに擁護するんだよね。(>>310-)
【政治】仙谷官房長官、「自衛隊は暴力装置」と発言★9
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1290092845/310-
軍隊は暴力装置、という言葉に党派性やイデオロギーを持たせようとするから
こんなわけのわからん話になってるのさ
天皇機関説で「陛下を機関車に喩えるとはけしからん!」
と、怒っていた時代と、この国のメンタリティは変わってないってことさ 訂正:日本の社会学者や政治学者
なんかいよいよ自然科学者に馬鹿にされそうだ・・・ >>99
戦国さんはあきらかにレーニン論が頭にあったと思う