大宮デン助(大宮敏充、1913年4月13日 - 1976年12月23日)は昭和時代に浅草を中心に活躍したコメディアンである。本名は、恒川 登志夫。
東京都浅草生まれ。旧制第二東京市立中学校※五年制(現・東京都立上野高等学校)を3年で中退後、当時のスター歌手・田谷力三に憧れ芸能界入り。
メリヤスシャツ、腹巻き、背広、ハゲ頭をゆらゆらゆらしぐるっとした大きな目玉、青い口ひげをはやし草履ばきが特徴なデン助に扮して
タイムリーな話題にして風刺の効いたコントやショーを行い決まり文句でもある「オレにデンとまかせておけ」と共に大流行した。
この頃は大宮敏光という芸名であったが人々からは「大宮デン助」という愛称で呼ばれるようになっていた(最終的な芸名である大宮敏充に改名したのは、
1961年である)。1942年に地元浅草にて公演を開始。河合キネマという小さい映画館に出演して人気を得る。
評判を聞きつけた吉本興業(東京吉本)から声がかかり、吉本の東京の劇場に出演するようになった。
しかし当時の吉本は浅草だけでなく、渋谷や横浜にも劇場を持っていたため、そちらにも出演しなければならず、浅草にじっと落ち着けないのが悩みだったという。
そうした中、1944年に松竹に招かれ、浅草で新設の松竹演芸場に出演するようになる。しかし出演5日目に召集令状が来て出征。
東京から小樽に向かい、そこから千島列島のホロムシロ島に送られる予定だったが、その時の部隊副官が、奇しくも吉本興業の支配人をやっていた
人物だったため、戦場に送られず、小樽の物品販売所に回された。ホロムシロ島へ送られた連中は、島へ着く直前に魚雷でやられ、1500人全員が全滅したという。
戦後復員。1946年に「デン助劇団」を結成。浅草松竹演芸場を拠点に自ら演出・脚本・主演(役名は木村デン助)をこなすなど、
浅草演芸界の代表的な存在にまで登りつめた。この松竹演芸場での活躍は1973年の劇団解散まで続き、浅草演芸界の華であった。
また、NET(現:テレビ朝日)で放映されていた『デン助劇場』は1959年4月11日から開始され好評を博し1972年3月25日まで続いた。
番組では「デン助人形」がプレゼントされていた。劇団解散後、晩年はテレビで俳優などをこなしていたが持病の糖尿病が悪化して1975年11月に入院し、
1976年に脳卒中と肺炎のため死去。63歳没。