1951年(昭和26年)5月のムーラン解散後は活躍の場を舞台からラジオやテレビ、スクリーンに移し、本格的に女優業に専念する。女優としての
初出演作品は1951年9月21日公開の映画『花嫁蚤と戯むる』で、23歳の時であった。その後も様々な映画、ドラマの名脇役として出演し、
独学で学んだ独自の東北弁(ズーズー弁)訛りで人気を呼ぶ。そして1957年(昭和32年)公開の映画『おトラさん』では脇役であるにもかかわらず、
彼女のコメディー志向の持ち味が存分に発揮された作品となり、一躍人気女優の仲間入りを果たした。ちなみに、この東北弁があまりに流暢だったため、
彼女を東北地方出身だと思い込んだファンや業界関係者が非常に多く、青森県や岩手県などの東北地方出身と誤植された事が多かった。
また、結婚では手塚幸四郎と結婚、女児を出産するが離婚。のちに村上清寿が脚本を担当した映画に出演した事がきっかけで村上との交際が始まり、
1954年(昭和29年)に結婚している。
『おトラさん』シリーズの出演で大人気女優となった若水は、1959年(昭和34年)『おヤエのママさん女中』に初主演。この映画も大ヒットし、
この『おヤエ』シリーズは全部で8作が製作されるほどの人気ぶりだった。しかも、この当時の映画業界では東宝、新東宝、松竹、日活、東映による
五社協定が結ばれており、この協定のために専属俳優陣は作品出演の自由が利かなかったのに対して、どこの専属女優でもなかった若水は全ての
映画会社の映画に出演していたほど自由で幅広い活躍ぶりを見せていた。こうして若水は女性コメディアン、喜劇女優としての不動の地位を築いた。
喜劇物の映画が中心で三枚目キャラでの出演が多かったために「東北弁訛りの田舎娘」や「ひょうきん爆笑女」と言うイメージが強かった若水だが、
元々の美貌や歌、演技能力も非常に高く、歌や演技の上手い美人女優として『月光仮面』などの映画やドラマにもレギュラー出演し、奥様役から
恋人役まで何でも器用にこなしていた。努力家で休憩時間や休日は常に台本に目を通し、自分の役回りを研究していたと言う。