40歳を過ぎた1968年(昭和43年)頃からは奥様役だけではなく中年の母親役や老婆役も多くなり、「戦うお母さん女優」や「おばあちゃん女優」
としても活躍した。また、それまでの活動の中心だった映画やテレビドラマの出演だけでなく、本業だった舞台女優(歌手)のノウハウを活かして舞台や
歌手活動にも活躍の場を伸ばして積極的な活動を続け、1971年(昭和46年)3月にポリドールレコードより「若水ヤエ子とひまわりキティーズ」名義で
『かあちゃんと子供のアンダン所に遺しており、コミックソングとしては異例のスマッシュヒットを飛ばしている。若水はこのレコードをリリースしてから
わずか2年後に死去してしまったため、レコード発売はこの1枚のみに止まってしまった。
こうして様々な舞台で精力的な活躍続け、これからのさらなる活躍も期待されていた若水だったが、人気絶頂中だった1973年(昭和48年)5月28日
に自宅で突然体調を崩して倒れ、そのまま意識不明になってしまった。すぐに東京慈恵会医科大学附属病院に搬送されたものの、手当ての甲斐もなく意識
が戻らないまま間もなく死去した。死因は急性心不全、まだ45歳の若さでの急死であった。原因は不明だが、新人時代から晩年まで体調を崩すことは
ほとんど無いくらい頑丈な身体の持ち主で、ほとんど休み無く仕事をこなしていたために、長年の過労の蓄積が寿命を縮めた原因と言われている。
お墓は上野のお寺である。 また、若水の死から5年後の1978年(昭和53年)に講談社より発行された「TVグラフティ」の記事では、若水とともに大人気
だった市村俊幸(ブーちゃん)、40歳を過ぎた1968年(昭和43年)頃からは奥様役だけではなく中年の母親役や老婆役も多くなり、「戦うお母さん女優」や「おばあちゃん女優」
としても活躍した。また、それまでの活動の中心だった映画やテレビドラマの出演だけでなく、本業だった舞台女優(歌手)のノウハウを活かして舞台や
歌手活動にも活躍の場を伸トシエ、トニー谷、丹下キヨ子などを「テレビがつくり出したタレント」と評し、「彼らなくしては創成期・中期のバラエティ番組は
生まれなかった」と最大限の賛辞をもって紹介されている。楠トシエ、トニー谷、丹下キヨ子などを「テレビがつくり出したタレント」と評し、「彼らなくしては創成期・中期のバラエティ番組は
生まれなかった」と最大限の賛辞をもって紹介されている。