◆200枚しか作られなかった「六甲おろし」

古関が昭和6年に作曲した早稲田大学の応援歌
「紺碧の空」は評判がよかった。
そのため、昭和6年10月に「日米野球行進曲」、
昭和9年8月に「都市対抗野球行進曲」を作曲している。

そして、昭和11年2月には通称「六甲おろし」で
現在も愛唱される「大阪タイガースの歌」が作られた。
中野忠晴が吹き込んだオリジナル盤は、
関係者に配布する200枚しか作られなかった。
しかし、アジア・太平洋戦争後の昭和20年代からは、
タイガースファンの間で歌われ、
関西では知られるようになっていた。

昭和36年にチーム名が阪神タイガースに変わると、
歌詞の最後のリフレインで
「オウ、オウ、オウ、オウ、オーサカタイガース」
のところが、「阪神タイガース」へと変更された。

古関の長男正裕によれば、昭和60年(1985年)に
阪神タイガースが21年ぶりにリーグ優勝し、
さらに初制覇することになる日本シリーズで
それがよく流されたときには
「父も忘れていたくらいです」という。

したがって、翌61年1月のインタビューで
古関が「大阪タイガースの歌は
ボクの曲の中でもとりわけ気に入ってるんです。
今聞いても若々しく、
力強い気分になれるでしょ」というのは、
リップサービスの感じがする。
古関自身が忘れていた「大阪タイガースの歌」は、
半世紀の時を経て認知されるようになったのである。

刑部芳則