『おちょやん』とは正反対である。
お千代は、この世界に居場所がない。
おそらくそうおもっているだろう。
自分で必死で獲得しないかぎり、
9歳の女の子が生きていける場所がないのだ。
『エール』の裕一は、自分がこの世界にいていいかどうか
ということさえ疑ったことはなかったはずだ。
だからこそ「人を励ます音楽」を次々と作っていく。
畏るべき才能を持ち、気負いなく、自然に振る舞っていた。
ごく近くからみるかぎりは、ふつうの人のように見える。
彼に押しつけがましさがないため、
朝ドラらしからぬ風通しのよい仕上がりになっていたとおもう。

世俗を超越し仙人であるかのようだった晩年

最終話で、主人公は、
いまも自然に音楽は涌いてくる、という話をしていた。
引退同然となり、なぜもう曲を書かれないのですかと若者に問われ、
いまでも曲は涌いてくる、でももう自分ひとりで楽しみたい、と言う。
世俗を超越している。
穏やかにふつうに話していたが、何かの境地に到達した
「超人」のようであり、神仙思想でいえば「仙人」に近い。
神との会話が可能だ、と言ってるようなものである。
至高の境地に達しているようだった。だからこそ穏やかだったのだろう。

『エール』の妻は「修羅の道」を歩んでいた

いっぽう彼の妻・音は、
歴代朝ドラヒロインと同じような「修羅」を歩んでいた。
欲しいものはすべて欲しいと願った。わがままを言い通していた。
歌手も、家庭も、と欲しがっていた。
でも、それは叶っていない。
(このあたりは史実とは少し違うようである)。
ドラマの終盤、夢だった舞台での主演を辞退し、
隣家の喫茶店の妻にだけ自分の心情を語る。
「私は、ここまでの才能の人間だった」と正直に語っていた。
胸に刺さるシーンであった。
あまり朝ドラでは見かけない正直な心情吐露である。
史実と離れてまで、妻を修羅の道(戦いの道)から引き離して描いたのは、
おそらく『エール』というドラマのテーマを貫徹するためだろう。