古代日本の支配層、朝廷のシノギは種貸しである。
だから太陰暦と24節季は必須のアイテムである。
朝廷は、種貸しがスムーズに行くよう、24節季を秘匿する方策を考えつく。
それが”引き延ばされた書紀の太陰暦となる。
引き延ばしに法則はないが(法則があれば露見する)、だいたい5年ぐらいたつと
1年程度の空白年を差し込み、少しずつ空白年が大きくなり、崩御時に、19年*n回になるよう
決定する。しかも空白年の差し込みでないぞ、と主張するために、日々の干支を付ける。

書紀の太陰暦は、そこそこ正しいが、−660年の太陰暦と見ると、時々不審な干支の揺らぎがある。
これが、実際の太陰暦と空白の太陰暦の2重暦の証拠である。
後は、文献で書紀の主張する出来事が合致すれば、正しい歴史であると主張出来る。
崇神(188年〜216年)新羅本紀に歴史を合わせた場合。
崇神(189年〜216年) 崇神5年を後漢193年とした場合。

崇神5,6年=新羅192,3年 弥生後期後半唐古鍵遺跡などが放棄される。
崇神11年異俗多帰 纒向遺跡に各地の土器。
崇神58年過ぎ 任那建国。 新羅209年。三国遺事541年で建国330年=金官伽耶。

239年垂仁90年 田道間守の派遣
240年景行元年 田道間守帰還。

274年 渡海
275年神功元年
313年神功39年太歳=仁徳元年。
323年神功49年 半島占拠
326年神功52年七支刀
323年 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年, 水羊(癸未年)祭を行った。
癸未(中国)=水羊(半島)=みずのとひつじ(倭)=ねしと(ホツマ)。