【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その17
前スレ
その16 http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1306848787/
─────────────────────────────────
次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!
「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」 銅鐸圏倭人社会の精神構造は銅鐸文様、埴輪等に残る素朴なものであったが、
吉備津彦の吉備平定により紅山文化由来の直弧文、特殊器台、積石塚、石板墓等
の極めて高度な文化と漢鏡文化の世界が到来した。卑弥呼は江戸時代から現代に
ワープして脳外科手術を執刀するような局面に遭遇したのだろう。 特殊器台と太鼓の起源は同じか
「これら円筒の真の機能に付いては今後議論を尽くす必要があるが、われわれはよく
わかる解釈を聞いた。Tong Enzhengによると、巫覡の活動には土器製の太鼓が
不可欠であり、それらは「故人を霊界と交信さす為に特別に造られた」ものであると
する。第二地区方墳出土円筒土器はその両端に革を張り太鼓として使用された
可能性がある。ということで、サイト全域で出土する彩文土器及び円筒破片は牛河梁
においては巫覡が存在し、活動していたことを改めて示唆するものなのである。」
http://www.scribd.com/doc/23302537/Archaeoastronomical-Evidence-for-Wuism-at-the-Hongshan-Site-of-Niuheliang