氷河期の時代でも日本は暖流により植生豊でした。
なにより人口が数万と少なかったので、縄文人食料不足にも至らずなんとかやっていました。

ところが「縄文海進」の温暖な亜間氷期で縄文人はその数を急激に増やしてしまったのです。
それゆえ狩漁採集だけでは食料がこと足りず、栗や陸稲の粗放栽培(撒きっ放し)も行うようになりました。
そして問題の「亜氷期」が4千数百年前に日本を襲いました。
30万人にも増えていた縄文人は再度10万人を切るところまで衰退したのです。

同時期の大陸でも寒冷から逃れるように華北黄河文明が再南下して、水稲耕作文化の長江文明を圧迫(後に滅亡)していました。
そのため沿岸部にいた半農半漁の海洋民族弥生人が長江水稲と共に海を渡り日本に逃れたのです。
日本の水稲遺伝子は持ち込まれた個体数が極端に少なかったために、長江のものからだいぶ欠損していることが判明しています。
日本に到達できた弥生人の数も相当少なかったとする説が有力になってきています。

大陸の先端技術と当時驚異的収穫率を誇った水稲を持ってしても、縄文人(今でも日本最優勢遺伝子)を淘汰出来なかった理由もそこにある、と言われています。