益田岩船で、もうひとつ…。


なお保守的な人たちは、こう言います。
「はやし浩司は、自分に都合のよい事実だけを集めて、自分の理論を組み立てている」と。
それについては、こう反論します。
「考古学者のセンセーたちは、自分に都合の悪い事実には目を閉じ、自分の理論を組み立てている」と。
どちらが罪深いことなのでしょうか。

私は、そのことを、あの益田の岩船を見たときに感じました。
あの岩船を外から運ぶことは不可能です。
しかし周囲には花崗岩は、ありません。
そこで案内板を読むと、こうありました。
「ここで彫った」と。

で、私は周囲を探してみました。
とくに岩船の下方部(山下部)を探してみました。
が、どこにも、そのカケラを見つけることはできませんでした。
(上方部は、土がかぶるということもあるでしょうが……。)
証拠としてのカケラも見せないで、「ここで彫った」は、ないですね。
つまり自分たちにとって都合の悪い事実は、隠す。
どちらが罪深いことなのでしょうか。

事実は事実です。
現実は現実です。
まずそれを認めましょう!
https://plaza.rakuten.co.jp/hhayashi/diary/201301030000/





はやし浩司センセーがやっているのは、
「自分に都合のよい事実だけを集めて、自分の理論を組み立てている」
じゃあなくて、
「自分に都合の悪い事実には目を閉じ、自分に都合よくこじつけて捏造したものを『事実』と騙り、トンデモ理論を組み立てている」
でしょう…。

>どちらが罪深いことなのでしょうか。
そりゃあ、
>案内板を読むと、こうありました。
>「ここで彫った」と。
…なんて、案内板に書いてもいないことを悪怯れることなく嘯く、はやし浩司センセーのほうでしょうね。

ホームページの掲示板や、YouTubeのコメント欄に、自分に都合の悪い事実を寄せられて、それらを無視し削除して、なかったことにしようとしても、
事実は事実です。
現実は現実です。
まずは、それを認めましょうね♪