考古学で天皇はタブーか。邪馬台国とは? [無断転載禁止]©2ch.net
もう一人の重要な歴史学者が、内藤湖南である。
「邪馬台国は九州にあった」など、戯言ならまだしも、学問なら妄言・暴言に過ぎない。
なぜなら、「邪馬台国」とは、和語“大和の国”の支那国の宛て漢字だから、
「邪馬台国」は「やまとのくに」としか訓めない。
だが、これを「ヤマタイコク」と、日本は学校教育でもトンデモ嘘読みさせる。
天皇制廃止のためなら嘘を擦りこめ!である。
一方、「やまとのくに」と当り前に訓めば、大和朝廷の皇后クラスの女性皇族が
『魏志倭人伝』の「女王=ひめみこ」となる。卑弥呼は「ひめみこ」の宛て漢字だから、
ヒミコと訓むことはできない。
これはまた、大和朝廷が魏帝国(220〜65年)と外交関係を持っていたことになり、
大和朝廷が三世紀前半には北部九州をも統治下に置く確固たる統一国家だったことが判明する。
が、この正しい歴史が『魏志倭人伝』によって判明するのは、天皇制廃止勢力にとって、どうしても困る。
なぜなら、「大和朝廷は三世紀後半以降に誕生した」と、
事実を二百五十年ほど遅らせないと、神武天皇から少なくとも第九代開化天皇までを紙上テロルして抹殺する政治的歴史改竄ができなくなるからだ。
「大和朝廷は、邪馬台国の後に出現した」とか
「大和朝廷は、魏帝国が滅んだあと、邪馬台国が東遷した国家」等の政治的創作の嘘歴史にすれば、
皇室の祖先である「神武天皇〜開化天皇」は消え、皇室はどこの馬の骨かわからぬ人物から生まれたとなり、その由緒ある皇統史をぶっ壊せる。
これが、天皇制廃止勢力は暴言・妄言の類「邪馬台国(やまとのくに)は九州」を執拗にがなり立て続ける理由である。
現在は、共産党が組織的に指揮し、
暴言・妄言「邪馬台国(やまとのくに)は九州」を、大学だけでなく、
学校教科書の定説にデッチアゲている。これは明治時代から執拗で、
共産党員のハシリ久米邦武や水平社系の喜田貞吉はこの巨頭だった。
今もその悪影響は衰えていない。 あ、邪馬台国ね
ここだけの話。忖度なしで解決したいなら中国の正史に後漢書を見れば一目瞭然だよ
東夷列伝倭条に邪馬台国から狗邪韓国まで直線距離で北西7000里(525キロ)
・狗邪韓国から北九州まで約200キロ~400キロ
・狗邪韓国から近畿まで約700キロ
今の地図でもいい
525キロをピッタリと当てはまる場所は阿波なんよ 邪馬壹国は古代中国の発音で
邪:シャ/サ
馬:ムラ
壹:イツ
国:クワク
と読む
シャムライツクワク(サムライクワク)
となる。
つまりサムライコクだ
侍(サムライ)の語源はここにありだ!
分かったかい? 『もういちど読みとおす山川新日本史』 山川出版社 2022年
古墳が成立する時期を3世紀とする研究が進む中で、
「ヤマト」を中心とするヤマト政権に邪馬台国連合が直接つながる可能性が高くなった。
邪馬台国の中心部とされる候補地の一つに、纏向遺跡がある。
この遺跡は奈良盆地の東南、三輪山のふもとに位置し、大量の土器が出土し、大型建物跡も発見されている。
巨大な運河などの土木工事がおこなわれた大規模な集落であり、政治の中心的地域だったと考えられる
『高等学校 日本史探究』 清水書院 2023年
史料2に倭の女王(卑弥呼)が魏から銅鏡100枚を授けられたことがみえる。
それに該当する可能性があるのが、前期古墳に副葬された三角縁神獣鏡である。
また、史料1に、247年ころに卑弥呼が死去し、直径100歩あまりの塚をつくったことがみえる。
その有力候補に、奈良県桜井市の三輪山のふもとに立地する箸墓古墳がある ネトウヨの歴史観の間違いだらけ
日本人は縄文文明人の末裔
→間違い。弥生文化人の末裔です。
日本語は縄文時代から日本列島で話されていた
→間違い。縄文人は古代アイヌ人です。
稲作は中国江南から伝わった
→間違い。日本米は古代韓半島の無文土器文化人の稲の品種です。
日本の古代には神代文字があった
→間違い。上代日本語と神代文字は母音の数が合わないのでニセモノです。
縄文人と弥生人は同じ民族である
→間違い。人種レベルで異なる種族です。言語も違います。
天皇家は縄文時代から続く最古の王朝
→間違い。世界最古ではあるが贔屓目に見ても弥生時代終末期から。
日本は皇紀2600年の世界最古の国
→間違い。ヤマト王権の始まりは卑弥呼の即位と同時代で1800年程度。
ホツマツタエやオシテ文書や契丹文書や東日流外三郡誌は正史
→間違い。完全に近世以降の偽作。
邪馬台国の卑弥呼は九州の土蜘蛛の女酋長
→間違い。ヤマト王権の女王というのが学者の間でほぼ定説。 朝鮮人は少なくとも2700年前には若狭湾岸エリアに来ていた。その証拠に北陸弁や東北弁には朝鮮語訛りの発音が含まれてる。3000年前の出雲に流入した雑穀農民(シニガイ文化)が、水田稲作の普及と共に東へと拡散する過程で、ウラル語と朝鮮語が混じり合ったようだ。 古事記の干支から、
⑩崇神没年258年or318年と推定。
同様に、
⑬成務没年355年、
⑭仲哀没年362年、
⑮応神没年394年、
⑯仁徳没年427年、
⑰履中没年432年、
⑱反正没年437年、
⑲允恭没年454年、
(21)雄略没年489年、
(26)継体没年531年、
単純に没年記録ない他の天皇は実在してなかった模様 熊襲と同じだともされる隼人(はやと)が音感的にも邪馬台国の人達で元々は、耶馬渓
(やばけい)辺りにいたのでは?大和の政権に反抗したとも書かれてる。のちの大和朝廷
たちに追われ鹿児島や宮崎あたりまでにげてきてその後住んでいた伝説が、宮崎説とかに
つながって、菊池や日田に近い耶馬渓辺りに隼人たちが元々いた土地が邪馬台国。
やばけい、はやと、はやとこく、やばたいこく、やばとこく、やまとこく
その地名を奪って襲名したのが奈良に築いた大和国。 なんで考古学も歴史学も数理をもっと使わないのか
この界隈、統計を取らずに推論するばかりで流石に主観的すぎはしないか?
日本書紀に対して簡単に一次データを抽出する作業をしたらさ、4巻目が8代の天皇に対して文字数が少なすぎるとかでたんよな
こういうのどうやって考古学はどう答えることができるん?