皿や浅鉢、甕、壺といった土器の類は、皆、典型的な「縄文土器」であった。--

また、「日韓交渉の考古学」(小田富士雄,韓炳三/編)の記述でも、--菜畑遺跡の晩期後半の石器には
大陸系と縄文系の2系統があるが、量的には後者が圧倒的に多い。--としている。

 すなわち、菜畑ムラでは、従来どおりの西北九州縄文人が生活しており、そこに「水田稲作技術」だけが新たに導入された、

という印象なのである。とても南部朝鮮人が集団で菜畑ムラにやって来て、水田稲作を営んだという痕跡はない。