日本の古代史 Part36©2ch.net
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前スレ
日本の古代史 Part35
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1481406180/ >>790 <沿海州沿岸だと考えられる。>と憶測で誤魔化さず
陶塤(ケンは土へんに員)(とうけん)や土笛が
朝鮮、沿海州で出土した遺跡が有ったら教えてよ。
日本では縄文時代から日本海沿いを中心に
100個ほど出土してるから。
http://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12043460662.html
その一つが「土笛」です。弥生時代の土笛は、陶塤(とうけん)とも呼ばれる
焼物の笛で、起源は中国。河姆渡文化晩期(かぼとぶんかばんき・約6500年前)
の遺跡などで出現しています。 >>791
じゃあ何で中国土器の生活器種がないの?
. 縄文人は大陸に進出していたから一方通行的な考え方は賢くない
アメリカには「古代支那文明のうち少なくとも一つは日本列島から大陸に渡った縄文人がルーツ」と考える研究者もいる
人類の移動はもっとダイナミックに考えるべきだろう 読むだけで眠くなってウンコ出そうだな。
>>793
中国青銅器は飲食器が中心なんだが、
何で中国青銅器の飲食器種が何一つ伝わってないの?
>>794
甕と壺ばっかりだな。
9000年前から中国土器には甕と壺があるけど、何で日本には3000年くらい前まで無いの?
>>796
で、越式青銅器がいつ伝わったの?
で、テン国人が渡来定着した証拠遺跡とテン国系土器とテン国系青銅器は? >このデータ、論文から如何して西日本は「無人」って結論が出るんだ?
もう一度、勉強し直してくれるか。
図7 縄文遺跡分布のカーネル密度による面的表現
http://bbs.jinruisi.net/blog/wp-content/uploads/img2011/%E7%B8%84%E6%96%87%E9%81%BA%E8%B7%A1%E5%88%86%E5%B8%83%E3%80%80%E9%9D%A2%E7%9A%84%E8%A1%A8%E7%8F%BE-thumb.JPG
縄文遺跡の立地性向 - 地理情報システム学会
http://www.gisa-japan.org/dl/17-1PDF/17-1-63.pdf
図6 黒ボク土分布と遺跡位置(左上は黒ボク土の分布) (注)
図7 縄文遺跡分布のカーネル密度による面的表現 (注)
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/12dai1bunomatome/jyoumonnkakukinojinkou1.jpg
表1 奈良文化財研究所収録地方別縄文遺跡数および
遺跡密度(/ 1000ku)
地方 東北 関東 北陸中部山国 東海 近畿 中国 四国 九州
遺跡数 6542 10852 824 1257 2748 1235 1004 169 2932
遺跡密度102.0 337.6 37.3 46.5 220.7 37.5 31.6 9.0 69.5 日本最古の水田、菜畑遺跡(なばたけいせき)
佐賀県唐津市の丘陵先端部にある縄文前期〜中期の貝塚と、縄文晩期〜弥生中期の集落遺跡。
遺跡面積は約1000m2で、1980〜81年(昭和55〜56)におこなわれた調査により、
縄文晩期後半の水田跡、炭化米、農耕具などが発見された。
78年に福岡県の板付遺跡で縄文晩期末の水田跡が発見されていたが、菜畑遺跡の発見で
日本に水稲農耕がつたわった時期が従来よりかなりはやくなることがわかった。
最古の水田は畦畔(けいはん)をともない、水路は幅1.35m、深さ45cmで、土留めの矢板(やいた)も
くむなど本格的なものであった。石包丁、木製鍬や朝鮮半島系の磨製石器類(→ 石器)も多数みつかっている。
米以外にも、アワ、オオムギ、アズキ、ゴボウなど栽培植物の種子も出土していることから、
水稲農耕と並行して畑作もおこなわれていたと考えられる。ほかに、動物や魚介類の骨類が多種みつかっており、
なかでも顎(あご)の部分に穴を開けられている豚の骨は、家畜飼育の開始をしめす発見として、注目されている。
1983年に国の史跡に指定された。 弥生文化: 稲作 縄文系弥生人
菜畑遺跡の水田は畦(あぜ)がつくられ、土留めの矢板(やいた)もくむなど本格的なものである。
水路は幅が約1.35mあり、深さは45cmほどである。木製農工具や炭化米もみつかり、これらの発見で、
日本での稲作の始まりが縄文時代晩期後半の約2600年前にさかのぼることが明らかとなった。
従来、日本列島の水田稲作は弥生時代(2300〜1800年前)頃に、朝鮮半島方面からやってきた
渡来民によって始まるというのが定説であったが、菜畑遺跡の発見はその常識を覆すことになった。
時代はさらに300年遡り、水田を作った主体も日本列島在来の縄文人であることがわかったのである。
何故、縄文人だと考えられるか。それは発掘された生活道具が、全て縄文文化に由来するものだった。
皿や浅鉢、甕、壺といった土器類は、みな典型的な「縄文土器」であった。
土器文化の異なる渡来人が、わざわざ土着の縄文土器を作るとは考え難い。
こうして日本最初の水田が、縄文人によって開かれたことが判明したのである。
発掘のデータによると、菜畑の集落は海岸沿いに立地し、人々は半農半漁で暮らしていたこともわかった。
半島に交易に出かけていた縄文人とは、九州北部の沿岸地帯に暮らし、航海技術に長けた漁労民であった。
唐津近隣の松浦あたりで産する黒曜石を、交易の品として持ち出していた。
このことは韓国の東三洞貝塚で出土した黒曜石などの産地を同定した結果、確かめられている。
水田に関する技術を身に付けて帰ってきた縄文人は、得意の漁労を営むかたわら、
日本列島に水田稲作の第一歩を印したのである。
(佐賀県唐津市。Encarta Encyclopedia唐津市教育委員会) 水田稲作技術を持って来たのは縄文人自身?
以上のように、北部九州乃至は西北九州の縄文人が、水田稲作について直に肌で感じたり、
実際に水田稲作に携った可能性を認識した上で、菜畑遺跡の出土物を観察するとき、
その不思議な構成の理由が明らかとなってくる。
先程、菜畑遺跡で出土した「水田稲作」に必要な道具のセットについて調べた。それらの先端的な道具は、
確かに南部朝鮮からの到来品であった。 ところが同時に発掘された“生活用具”の方は、
「日本人はるかな旅4」の記述によれば、--菜畑遺跡ではすべて縄文文化に由来するものだった。 皿や浅鉢、甕、壺といった土器の類は、皆、典型的な「縄文土器」であった。--
また、「日韓交渉の考古学」(小田富士雄,韓炳三/編)の記述でも、--菜畑遺跡の晩期後半の石器には
大陸系と縄文系の2系統があるが、量的には後者が圧倒的に多い。--としている。
すなわち、菜畑ムラでは、従来どおりの西北九州縄文人が生活しており、そこに「水田稲作技術」だけが新たに導入された、
という印象なのである。とても南部朝鮮人が集団で菜畑ムラにやって来て、水田稲作を営んだという痕跡はない。 無文土器(縄文時代中期末)
http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/script/shuzo_img/443b.jpg
db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp › 収蔵紹介
山口県熊毛郡平生町平生町岩田 文様のない縄文土器です。
西日本では縄文時代中期末(今から約4千年前)以降、次第に文様のない縄文土器
が増加していきました。これらは弥生時代に向けた、土器に対する意識変化を象徴す
る現象として注目されます。 縄文時代後期になぜ無文土器が登場したのか? - 縄文と古代文明を探求 ...
web.joumon.jp.net/blog/2007/11/376.html
2007/11/14 - 長野県大清水遺跡は長野県の中央部からやや北より丘状の山に囲まれた
長野氏篠ノ井信更町に所在する。信更町には聖川が流れ、遺跡は豊富な湧水帯の中に位置する。
大量の無文土器の発掘は今から30年前に著者自身が立ち会って.......
無文土器の発掘の実例として読んでいただきたい。 >陶ケン(ケンは土へんに員)
>陶ケン(とうけん)土笛の謎、日本では縄文時代から日本海沿いを中心に
100個ほど出土してるが、朝鮮半島からは一つも出土していない。どうして?
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12043460662.html
その一つが「土笛」です。弥生時代の土笛は、陶ケン(とうけん)とも呼ばれる焼物の
笛で、起源は中国。河姆渡文化晩期(かぼとぶんかばんき・約6500年前)の遺跡
などで出現しています。
2014/08/12 - 陶ケンの出土は殷から周時代にかけて. 中国大陸と日本列島間の
交流があった可能性を表している。 陶ケンが朝鮮半島から全く出土していない
ことから、. 中国との直接交流があったということだろう。
「中国古代の陶ケンにその形と指孔の状況が酷似している」(国分 1968:190)と
指. 摘、以来「陶ケン」や「土笛」として紹介 ...
朝鮮半島において陶ケン形土製品の出土が知られていない。 そもそも夫余は呉王の弟「夫慨」の子孫。
「史記-呉太伯」闔閭10(505)年、夫概を攻める。夫概は破れて楚に奔走する。
「風俗通義 廣韻〜餘」呉の公子の夫概は楚に奔走した。その子に国があり、夫餘を氏とした。
(今の百済王夫餘氏)[呉公子夫概奔楚、余子在呉者、因以為氏焉]
・「呉王 闔閭」が楚を攻略中に、留守居の弟王「夫概」は楚と通じてクーデターを起こし、呉を実効支配した。
・闔閭は直ちに取って返して呉を奪い返し、夫概は楚に奔走した。呉に残された夫概の子らは呉におられず、
半島北部、さらに西部に逃げて、高句麗や百済の始祖となった。
・呉は元をたどれば(倭国の大夫も名乗った)周の王子「太伯」の末裔で、江南の東夷系の水生種族。
その東夷が北進して、北方ツングース族の地で王家となって国を建てたのが高句麗。
・高句麗王家も百済王家も、もちろん朝鮮人じゃない。
・ちなみに「正統な呉王家」の末裔は、新撰氏姓録によれば、結局日本にやってきている。
そのため高句麗には
1)四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)信仰がある。(玄武すなわち変温動物の蛇や亀が北にある)
2)織媛(七夕)や北斗七星、北辰といった夷族系の星信仰がある
3)江南発祥とされる「支石墓」がある。
4)高床式建築がある。
5)建国の始祖朱蒙(あるいは東明王)は天帝と河神の子であり、追手に攻められたとき魚(トーテム)族に助けられた。
6)朱蒙は弓の善射という意味だが、弓は北方系の短弓ではなく夷族の長弓。
というように高句麗王家は、実は北方騎馬民族要素は少なく(江南の)水生夷族系の文化を多く持つ。 風俗通義-廣韻〜餘(後漢代)によると、
「呉の公子の夫概は楚に奔走した。その子に国があり、夫餘を氏とした。今の百済王夫餘氏である。」
とあります。
夫概(フガイ)は呉の公子で呉王「闔閭」の弟で、夫余氏の始祖とされます。
このあたりの流れを史記他を総合すると、
1)B.C.506呉軍と楚軍が漢水を挟んで対陣した。
2)11月、夫概は闔閭の命を聴かず部下5000人を率いて楚を襲撃し、楚軍を大敗させた。
3) この戦いで呉は郢を陥落させることが出来た。
4)B.C.505呉は秦、越に攻められ敗北を喫した。
5)夫概は闔閭が楚の地から帰国できない情勢であることを見て取ると、呉に戻り自立して王となった。
6)しかしすぐに鎮圧されて楚に亡命した。楚の昭王に堂谿に封じられ、堂谿氏と称す。
7)呉に余(のこ)されていた夫概の子らが呉を去り,以後「夫餘」を氏とした。 今度は呉のブタチックニグロピーデは高句麗、百済の始祖になったってかw
そういうウンコみたいなマスターベーションは鏡を見てから言えよ台湾インドシナ華南ブタw
日本に呉の王族の後裔がいるのは孫呉が滅んだときに楽浪帯方郡に亡命した
呉の王族の一部がいたからで、楽浪帯方郡が滅んだあとは百済や高句麗に
散らばり、その後裔が白村江の敗戦で百済が滅んだとき、また高句麗が
滅んだときに日本に亡命したからで、直接来た訳じゃないぞ。
結局、朝鮮帰化人なだけなの。 「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している『新撰姓氏録』。
「竹斯(筑紫)国の東にある秦王国」 隋の使節団は「そこの人々は華夏
(の人々=中国の古代国家「夏」)と同じである」と報告している。
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
秦の陶芸品「陶胎漆鼎(とうたいしつてい)壺に日本でよく見る「巴(ともえ)紋」
https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/image-12199080085-13746154434.html
豊前宇佐神宮、京都の石清水八幡、八坂神社、秦氏に関わる神社(三つ巴紋)
https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/image-12199080085-13746155049.html
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
黄金の宝剣 新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、黒海や中央アジア
で作られたと考えられている。カザフスタンのある遺跡からも同様の剣が発掘されて
おり、新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語る (三つ巴紋)
https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2015062300182/22/
新羅の装飾宝剣とフン族、カザフスタン、ボロヴォエ湖付近出土(5世紀末〜6世紀初)
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/03/blog-post_10.html 始皇帝はペルシャ人だろうし弓月君もペルシャ人だからまあペルシャ同士関係はあるだろうな
つうか長宗我部は秦氏なんだな
長宗我部家の当代が「うちは秦の始皇帝の子孫なんですよ」と言ってた なぜ唐突にイランが出てくるのか
もしかしてペルシャ人とイラン人が同じだと思ってる? 弓月国があったのは東トルキスタン辺りと考えられている
東トルキスタンはペルシャだ
地名に「スタン」が付くのはペルシャだから分かりやすいだろ 沿海州沿岸から渡来したから短弓じゃないんだろ。
九州北部に最古水田や支石墓を遺した人々は朝鮮土器をほとんど作っておらず、
やはり沿海州にルーツがある弥生土器を作っている。
最古水田も支石墓も、沿海州沿岸から渡来した弥生土器人が単に朝鮮南部から
取り入れただけの文化だという事が分かる。
弥生を通して朝鮮系土器をメインで作っている集落遺跡は無い。
朝鮮系土器を一番作っている集落遺跡でも出土土器全体の3割ほどで、
弥生土器人が朝鮮から搬入した土器を元にコピー土器を作っていただけだと
言えてしまう程度なのである。 それと、弥生土器人が甕棺墓に大量に遺してくれた弥生人骨が
朝鮮半島とは違うんだよ。
弥生の渡来人骨は朝鮮半島から渡来したにしてはあまりにも北方モンゴロイド過ぎる
人骨だったのである。
と言うか、北方モンゴロイドそのものの人骨なのである。
渡来人たちは沿海州沿岸から朝鮮半島を経由せず、そのまま最古の弥生土器が
現れる島根あたりに上陸して定着したと見られる。 遺跡の発掘調査は基本的には開発等により偶然発見された場合だけ行われる
つまり未発見・未発掘の遺跡が日本中にいくらでもあるということだ 粛慎よりもさらに1000年くらい前に沿海州沿岸に居た集団だろうな。 日本と同じタイプの弓の分布をみると、日本の弓は、中国南部や
インドネシア方面の民族によって伝えられた可能性が強い。
これは、上古日本語と、インドネシア語やカンボジア語の基礎語彙に、
偶然以上の一致がみられるという言語学上の知見とも整合する。
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-10.gif
■毒矢
アイヌは毒矢を使った。毒矢については、毒物学の石川元助氏の次のような見解がある。
キンポウゲ科のアコニツム属植物を矢毒につかう伝統は、北海道と沿海州、樺太、
アリューシャン、アラスカ半島に、西南へは、中国大陸を通って、雲南、四川、
さらに、ネパール、ブータンにのびる。
毒矢文化の起源は、ヒマラヤとみられる。毒矢文化をアイヌの祖先集団に
伝えたのは、ユウ婁(ゆうろう)族であろう。 『毒矢の文化』紀伊國屋書店 1965 弓月国は現在のカザフスタン・東トルキスタン・キルギスタン辺りに存在した弓月君の出身国である
そこには「ヤマト」「ナラ」という地名が現在も残っている
ヤマトは古代ヘブライ語で「ヤハウェの民」という意味である
弓月君御一行様が日本に渡来して各地に散ったが特に北九州と大和に多く住んだ
北九州も大和も「ヤマト」地名が現在も残っている事は言うに及ばない
弓月君渡来後に日本は大和時代となる
大和はもともと「ワ」という地名だったが一文字地名禁止令により「大和」となった
その呼称は当然「ダイワ」「オオワ」「オオミワ」等である筈だが実際には「ヤマト」である
「大和」は「ヤマト」とは読めないのに無理矢理「ヤマト」と呼称した事になる
更に大和三輪山の隣には弓月ヶ嶽がある
ちなみに「ニホン」も古代ヘブライ語で表記すると「ヤハウェの忠実な民」という意味になる
「日本(ニホン)」という呼称も弓月君渡来後から正式に使われ始めた
上記全てを偶然と一蹴するなら不誠実な態度と非難を受けるだろう 業績がある優等生を潰すのは簡単
デッチ上げで構わないから、とにかく嘘でも何でも悪口やスキャンダルを流しまくればいい
イメージを傷つけ、それを就職しそうな大学周辺や関係者に喧伝するだけ
協力者を作って、集団で噂をばらまくのが賢い喧嘩の仕方
成功例多数だから、やらない奴が馬鹿 >>834
そんな事を良心の抵抗感なく平気で出来る恥知らずは
朝鮮民族と中国民族だけだろう また華南ブタ広鼻半ニグロが祖先の台湾黒人的造形ブタが詐欺を働いているのか。
汚らしい。 わお〜わお〜わお〜
先週発売のグランドジャンプには、本宮ひろ志の
「こううんりゅうすい徐福」が連載されているw
ついに太陽神の巫女、日巫女(卑弥呼)が登場する!!
↓
◎渡来系が主体の奴国が九州一円に覇権を広げ、周辺国を飲み込もうとする時
在来縄文人の血を強くひく一族から、日巫女(卑弥呼)が誕生した!!
◎後漢の金印を後ろ盾に侵略する奴国に、邪馬台国の日巫女を共立した周辺国連合は
立ち向かえるか!?
◎時代設定としては、弥生後期の代表国である奴国と新興の邪馬台国の対立から国土統一
までが描かれる BC1C頃の半島の遺跡から倭の長弓の祖形が出土しているから、結局、倭の長弓は
半島から取り入れただけ。
矢の長頸鏃もやはり半島から出土するから半島から取り入れただけ。
和弓の成立に中国からの直接的な関係など何もない。
台湾ブタ広鼻半ニグロはさり気に詐欺を働かないように。 >>839
残念だな台湾ブタ広鼻ブラック。
日本の弓は登場した縄文早期から長弓しかないんで。
初期の矢の鏃に細石刃が使われているところから、弓を伝えたのは樺太経由か
朝鮮経由しかありえない。
この段階で中国は消える。
弥生時代に入り、東日本と西日本との間で長さに差が現れてくる。
西日本は長く、東日本はそれよりも短くなっている。
地理的に西日本が朝鮮の長弓の影響を受けたためだというのが定説で、
華南だの東南アジアだの狂った事をほざいてる頭のおかしな考古学者など
一人もいない。
いるなら、その考古学者の氏名と所属団体を出してみろよ台湾の黒人みたいな顔面造形の方wwww わお〜わお〜わお〜
>>840
>>827
>と言うか、北方モンゴロイドそのものの人骨なのである。
>>830
>粛慎よりもさらに1000年くらい前に沿海州沿岸に居た集団だろうな。
半島人以上の北方モンゴロイドである沿海州の粛慎の祖先とは?
堺正章のようなわが列島に現存するY-hapC3の割合は、たかだか4%ではないか
さすが邪馬台国連合に殲滅された甕棺墓文化人の末裔だな
本当に大笑い >>841
じゃあ日本人の約4割を占める一重まぶたの人はどこから来たの?
朝鮮か?w
それと朝鮮人は北方モンゴロイドじゃなくて中央モンゴロイドな。
朝鮮人はあまり扁平な顔をしてないでしょ。
朝鮮人は頬骨が突出して角張っていて、あまり扁平な顔をしていない。
ところが渡来人骨は頬骨が突出しておらず、極めて扁平な顔面部をしている。
朝鮮半島の集団ではないからである。
粛慎よりも前の沿海州の集団の記録はないが、人種的にはオホーツク系ツンギーデだと
思っている。
石田肇氏によると、沿海州の古代人骨は途中で韃靼人(トルコ系か?)が
入ってきたらしく、途中で形質が変わってしまうそうだ。
縄文晩期に渡来した集団は韃靼人の影響を受ける前の人種だろうが、粛慎が韃靼人の
影響を受ける前の人種なのか、受けた後の人種なのかまでは分からない。
邪馬台国がいつ誕生したのかまでは分からないが、弥生後期初め頃の盛岡の
弥生遺構から北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土しているから、
弥生後期初め頃までには渡来形質はすでに東北中部あたりまで及んでいた事が
伺える。
その血が日本人なら全員入っているのだよ。
よろしいか、マンガチックでむぱ頭脳の方w 日本人なら全員入っているのは4万年前に日本列島に初めて到達した新人集団の血 4万年前じゃなくて、35000年くらい前に大陸の一部だった今の朝鮮半島から
入ってきた石刃技法をもたらした旧石器人な。
それを言ったら、朝鮮以北や華北以北やアメリカ大陸のモンゴロイドは
全員入っている事になるだろ。 >>844 ←このアホいつもの妄想性障害チョンか?
いい加減に現実に目を向けろよ わお〜わお〜わお〜
>>842
>じゃあ日本人の約4割を占める一重まぶたの人はどこから来たの?
生粋の北方モンゴロイドの割合はエベンキ族で80%に昇るが、半島人で10%まで落ち
わが列島になると5%未満に過ぎない
しかし当然、半島人の方が元の侵略など生粋の北方モンゴロイドに蹂躙される機会も多く
一重まぶたといった北方形質を引き継ぐ割合は格段に多くなるだろ
わが列島では、縄文期に沿海州のニブヒが渡海してアイヌに混ざったわけだが
たがだか5%未満の現存率で、マチャアキやミヤゾンの祖先がわが列島の主役に
なれたわけがないだろ
本当に小笑い >>845
俺が朝鮮人ではない事は周知の事実だし、844は考古学の常識だろうが。
鼻の穴がよく見える台湾ブタ広鼻ブラック。
>>846
旧石器時代に伝わっている石器がアルタイ系とバイカル湖系しかないじゃないの。
で、スンダランド方面から渡来定着した事を証明する九州以北の証拠遺跡と、
その生活痕たるスンダランド系石器の礫器や不定形剥片石器は?
>>847
で、日本人の約4割を占める一重まぶたの人はいつどこから来たの?
. わお〜わお〜わお〜
>>848
>で、日本人の約4割を占める一重まぶたの人はいつどこから来たの?
わが邪馬台国(大和国)による甕棺墓文化人の殲滅の後には、百済や高句麗の亡国遺民、近年では済州島からの逃亡民が在となって大量に居るではないか?
本当に小笑い 信長・秀吉の時代にイエズス会宣教師が本国へ送った書簡(報告書)に「日本人の容貌はユダヤ人に見える」との記述がある
江戸時代にはオランダ人医師が解剖所見として「日本人の頭骨形状はユダヤ人と同一である」と述べている
「ヤマト」は古代ヘブライ語で「ヤハウェの民」という意味である >>847
生粋の北方モンゴロイドの割合ってなんの事?
まさかY染色体ハプロの事言ってる?
Y染色体の遺伝子数知ってる?
民族距離をY染色体で測るとか本当に大笑い 民族距離の話なんてどこにも出てないみたいだけど見えない何かと戦ってるのか? >>852
北方モンゴロイドの割合が何%とかバカ丸出しだな >>849
在日ビビンバ人って帰化を含めても100万人くらいで、日本人口の1%くらいなんだよ。
ビビンバ人の一重まぶた率は6割ほどと見た事があるから、その内の4割は
二重まぶただから、40%から差し引いても39.4%が残る。
それに、古墳期の百済や高句麗、新羅などの朝鮮帰化人は続日本紀に全部載っていて、
全部合わせても1万人くらい。
日本人口が500万人くらいの時代だから、全体のわずか0.2%ほど。
もちろん、それも4割が二重まぶただから一重まぶたは0.1%ほど。
39.4%から0.1%を差し引いてもまだ39.3%も残る。
で、残りの約39%の一重まぶたの日本人はいつどこから来たの?
中卒程度の知能レベルしかないマンガチックでむぱ頭脳の方w >>848
C系が日本からアルタイ・バイカル湖に言ってるだろ
そいつらが逆輸入したのがその石器な
人の流れと石器の流れが必ずしも一致するとは限らない >>856
日本最古の人類の痕跡がアルタイ系の石刃技法(石刃石器)なんだから、
日本からアルタイ地方に行って逆輸入したなら、アルタイ地方に行く前の
人類の痕跡があるはずだろ。
その痕跡は?
それに、その日本最古の人類の痕跡を遺した人々は3万年前にナイフ形石器を
生み出し、日本列島にナイフ形石器文化が花開いた。
日本経由で北上してバイカル湖に行ったなら、バイカル湖側に日本のナイフ形石器が
伝わってるはずだろ。
少なくともアムール川下流域までは伝わってないとおかしいが、アムール川下流域で
日本のナイフ形石器が出土した話など聞いた事がない。
何であちら側に日本のナイフ形石器が伝わってないの?
淡褐色、エラ張り短顔、鼻の穴がよく見えるブタみたいな広鼻、黒人のような突顎に、
巨大なタラコ唇をした、赤の遺伝子afb1b3がタップリの遺伝子真っ赤っかな、
クッサイ汚らしい醜悪極まるブタがかった黒人的造形の顔面をした東南アジア華南の
汚物人種が祖先の台湾ニグロティックブタピーデの方。 逆。
寒冷化で食糧の狩猟動物の分布が南にも拡大してきたために南下してきたの。
寒冷化で食べられるから南へ。 モンゴルけ北方民は、遊牧が生業で狩猟は祭祀にしかすぎない 日本最古の人類の痕跡であるアルタイ系石刃技法をもたらした旧石器人が
当時大陸の一部だった今の朝鮮半島から入ってきたのが35000年くらい前、
バイカル湖系細石刃や土器技術をもたらした旧石器人が樺太から入ってきたのが
20000年くらい前だから、まだ遊牧というものはないぞ。 85000年前の石器ってネアンデルタール人でもすんでいたのか >>849
で、残りの約39%の一重まぶたの日本人はいつどこから来たの?
マンガチックでむぱ頭脳の方w >>856=862=865
で、アルタイ系の石刃技法の前の人類の痕跡は?
で、何でバイカル湖側に日本のナイフ形石器が伝わってないの?
鼻の穴がよく見える華南ブタチックニグロピーデが祖先の台湾ブタゴリラの方w >>849
で、残りの約39%の一重まぶたの日本人はいつどこから来たの?
マンガチックでむぱ頭脳の方w >>856
で、アルタイ系の石刃技法よりも前の人類の痕跡は?
で、何でバイカル湖側に日本のナイフ形石器が伝わってないの?
ブタ広鼻にタラコ唇が目印の華南インドシナブタピーデが祖先の台湾ブタ原人の方w >>849
で、残りの約39%の一重まぶたの日本人はいつどこから来たの?
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