2551*04*The Crest of God+Genjo did not go to India神々の紋章+玄奘三蔵はインドへは行っていなかった説by Hiroshi Hayashi, Japan
https://www.youtube.com/watch?v=mjwdpvdnoP8&;sns=em

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにあります。
『玄奘三蔵は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、国禁を犯して密かに出国、役人の監視を逃れながらインドへ向かった。
玄奘は西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越え、天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至った。
インドのナーランダ大学では戒賢に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した。ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの保護を受け、ハルシャ王へも進講している』と。
が、本当にそうでしょうか。
玄奘三蔵は、本当に、ナーランダ大学まで行ったのでしょうか。
その疑問の第一は、ナーランダ大学は、ブッダの仏教の大学。
一方、玄奘三蔵が長安へ持ち帰ったのは、密教。
つまり弥勒菩薩教。
もっとわかりやすく言えば、ミトラ教。
その証拠に、長安へ渡った空海が、日本に伝えたのは、弥勒菩薩教。
ブッダの仏教ではありません。
ナーランダ大学に残る仏像と、空海が高野山の根本大塔に収めた大日如来像を見比べてみれば、一目瞭然。
ナーランダ大学に残る仏像は、まさにブッダ像。
根本大塔の大日如来像とは、似ても似つかないものです。
つまり、空海が根本大塔に収めた大日如来像は、チベット密教の総本山、現在のタシルンポ寺にある、弥勒菩薩像と同じです。
つまり玄奘三蔵は、インドのナーランダ大学へは行っていない。
行ったとしても、チベット。
そのチベットで、いわゆるチベット密教をそっくりそのまま持ち帰った。
それがそののちの、密教となった。
それが私、はやし浩司の解釈です。
で、断言はできませんが、玄奘三蔵を何としても、インドまで行ったとしたい、後の学者たちが、そうしたストーリー、つまりナーランダ大学まで行ったという説を作り上げたのではないでしょうか。
おおきな謎が残ります。
そうした謎を、この動画の中で、みなさんに証拠を添えて、説明します。