日本の古代史 Part38
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日本の古代史 Part37
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1509015813/ 日本のルーツは東沃沮にあるのか
ギリヤークやツングースなど満州民族じゃないな
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_touyokuso/gisi_touyokuso.htm
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東 濱大海而居 其地形東北狭西南長 可千里
北與?婁夫餘南與??接 戸五千
「東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東にあり、大海のすぐそばに住んでいる。地形は東北が狭く、
西南は長い。およそ千里。北は?婁、夫余と、南は?貊と接している。戸数は五千。」
東北に行くほど狭く、西南あたりは幅広になる
これはハバロフスクあたりの地形、平地の形に近い
今の東沃沮の位置は北朝鮮よりにされてるが、それも間違いだろう さらに
婁人好乘船寇抄、北沃沮畏之、毎夏輒臧於巖穴、至冬船道不通、乃下居邑落。
?婁は船に乗り略奪することを喜びとしており、北沃沮はこれを畏れている。夏の間は常に山の嶮しく深い穴の中
にいて守り備えている。冬は船の通り道が氷結し、航海が不可能になるので、山を下り村落に住む。」
?婁(ユーロウ)は疑いなくツングース系で、船で山を背にしていた北沃沮を襲う
しかし冬に船の通り道が氷結するので村落に戻る
ってことは樺太あたりまで広がってるってことになる
その南に東沃沮があった
ウラジオストクあたり
沃沮に中国が侵攻し、その王城に玄菟郡が建てられた
漢初 燕亡人衛満王朝鮮時 沃沮皆屬焉 漢武帝元封二年 伐朝鮮殺満孫右渠 分其地為四郡
以沃沮城為玄菟郡 後為夷?所犯徒郡句麗西北 今所謂玄菟故府是也
「漢の初期、燕の逃亡者、衛満が朝鮮で王になった時、沃沮はみな朝鮮に属した。漢の武帝の元封二年、
朝鮮を攻撃し、(衛)満の子孫の右渠を殺して、その地を分けて四郡となしたとき、沃沮城を玄菟郡にした。
後、周辺の民族(夷貊)が侵入して荒らしたため、郡は高句麗西北に移った。今、玄菟故府というのがこれ
(元玄菟郡)である。」
これが第一玄菟郡で、おそらくハバロフスクあたりにあるはず そこらへんで多く見つかる遺物は箕子朝鮮時代の繁栄した時期のものだろう
それが秦の侵攻を受け、最後には屈服する(おそらくBC5世紀あたりに始まりBC3世紀に終わる)
で民は支配され、多くは殺されなどしてるうちに
一部が船で逃亡し、大和にたどりついた?
それが渡来人か 東沃沮は史書に「土地は肥えて、五穀に適している」と書かれる
北朝鮮近くの山地であってはならない
ハバロフスク地方は夏は温暖で農耕に適している
そのあたりであったはず
この五穀には稲も含まれる
すでに寒冷地向きに品種改良された稲があったのだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています