日本の古代史 Part38
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前スレ
日本の古代史 Part37
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1509015813/ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>801
じゃあなんでバイカル付近の主流のC3がこんだけ入ってないんだボケ
ツングースとは全く別民族の沃沮なんかの知識いれとけ >>803
頻度なんて全然関係ないんだよ
移動した場所がそのハプロタイプに適していれば頻度は発生地より激増するし、
適さなければ激減して消滅する
発生地でさえ適さなくなれば激減して消滅する
すべてはランダムな運で決まるだけ
Yなんていう星占いにハマってるのにそんな事も知らんのかポンコツ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>804
>移動した場所がそのハプロタイプに適していれば頻度は発生地より激増するし、
どういう理論だ?
Y遺伝子に環境適応の能力とかあんのか?
頻度が最も重要だろ
縄文はDでなくてそれ以外でありえるか? >オロチ、ギリヤークなどの沿海州の北方民族に
これが間違いなんだよボケ
オロチとかツングース系は靺鞨とかモツキツとかその辺の習俗
つまり小便で顔を洗ってた民族だ
小便で顔を洗うって意味わかるか?
小便以外に水がないんだよ
そこらへんの民族はそもそも本来生肉を食って生き延びてきた
エスキモーとかネネツとかと同じようにな
生肉じゃなきゃビタミンが取れないからな
五穀すべて実る沿海州、ハバロフスクあたりの習俗じゃないんだよ
生肉を食うって習俗はそんだけ「より北方」って結論にしかならない
でそいつらは生肉を食って、アザラシなんかの血をそのまま飲み
そして「小便で手を洗う」んだよ >>806
血液型のA型は世界で一番頻度が高い地域はポルトガルなんだが、
A型がポルトガルで発生したと思うか?
ポルトガルで発生して日本まで来たと思うか?
おまえ底辺高卒のパッパラパーだろ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>808
で、Y遺伝子がどういう要素で環境に適応して激増するんだ?
血液型ほども淘汰圧ないだろ こういうコピペだだはり野郎は、今まで見てきたかんじでは統合失調形質が多かった気がするんだが
お前も統合失調? 統合失調が発症してるとかじゃなくても
被害妄想系とかじゃない? >>810
じゃあA型がどういう要素でポルトガルに適応して世界一の頻度まで激増させたんだ?
てめえで考えろ底辺高卒のパッパラパー
>>811-813
自己紹介乙w 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. アホ化元々A型地域だったんだろ
あそこらは元々いたクロマニョンとかが男系遺伝子でほぼ塗り替えられたが血液型とかは塗り替えられない 今現在みてもツングースは短頭
渡来人骨は長頭傾向
で沿海州でもいま現在のニヴフ(ギリヤーク)などと近寄った数値を示すはずがない
沿海州で発掘された人骨とかなら、そもそもツングースであるはずがない >>816
じゃあA型はポルトガルで発生して日本まで来たんだなw
さっさと氏ねよ底辺高卒(嘲笑
>>817
おまえ頭形が永遠に不変なものだと思ってないか?w
今現在の日本人の頭形は短頭だが、100年前は中頭だったし、鎌倉時代は長頭だったんだが。
顔の輪郭だって今現在はやや面長だが、江戸時代はこめかみの間が広い丸顔だったし、
鎌倉時代は面長だった。
成年男子の平均身長だって今現在は172cmだが、明治時代は158cmだったし、
鎌倉時代は170cmだった。
渡来一世は短頭でも、日本列島生まれの三世、四世の時代には早くも中頭に
なっていただろうね。
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/1-thumb.jpg ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 でも沿海州ってのは正解だと思うよ
それをわからせるために延々コピペ魔をする?
ってのが統合失調っぽい
正答を導きだす能力ってのは多分キチガイのがすぐれてるんだろう
アナタキチガイね ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 常識。
なぜ渡来人のメッカの九州山陰じゃないのか?
なぜ中国鬲とは製法が異なる後付け足なのか?
先生からのおまえへの宿題。 >>824
沿海州でみたものを見様見真似で作った
それが亀ヶ岡土器の特殊な形式になった
明治以降の西洋風建物と一緒か
作りは日本式で外みだけ変えた感じ 実は満州沿海州の鬲型土器も中国鬲とは異なり足が後付けなのだ。
満州沿海州に鬲は遼西から紀元前千年代頃に伝わったと見られ、鬲型土器となった。
交流のあった沿海州から宝器として搬入した鬲型土器を元にコピー土器を数十基ほど
作っていたものと思われる。 それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 女真族の台頭以降はツングースにのまれた民もいただろうが
基本的に沿海州、古代沿海州を考えるならそこは沃沮でなければいけない
沃沮には城(防壁)があり、そこにゲント郡が第一玄兎郡を作って中国人に支配させていた
北朝鮮のあのせまい地域のはずがない
ハバロフスクが沃沮
でO1b2に中国系Oが入るのもわかる >>829
で、ハバロフスクに中国人が植民定着した痕跡遺構と中国系生活文物と中国系住居は? >>830
https://ja.wikipedia.org/wiki/玄菟郡
うーん、期間が短いからそこまで発掘されないかもしれない
しかし確実だ
沃沮に城(城壁)があり、そこに郡治が置かれ玄菟城とされた
>当初の領域は遼東郡北端から出発して中朝国境地帯山岳部(吉林省東部と北朝鮮慈江道・
>両江道に跨がる地域)から咸鏡道を通り日本海に達する回廊状に県城が並んだものと推察してこれを「玄菟回廊」[4][5]と呼ぶ学者もいる。
中国人の学者だろうが、日本海に至る「道」と考えてるということは北朝鮮とはみなしてないな
「日本語扶余語族説」とか知ってる?
沃沮であれば扶余と同語源であり、言語も似通ってる
それともつながる
この共通項とかに惹きつけられない? 白頭山の東に人口中国人あわせて数万戸ぶんは居住不可能だろう
沃沮はハバロフスクで北沃沮はそこにある山の向こうほっそいとこ
でその北に靺鞨粛真、女真族系ツングース民族があった
>>751
そのツングース系は冬に海が凍る時期以外は船にのって北沃沮を侵略したという
アムール川なんてことはあるはずもない(下流から上流に侵略?)
海が凍る地域でなければならない
ではどこか?
不凍港より上にならなければおかしい https://ja.wikipedia.org/wiki/沃沮
北沃沮[編集]
前述の通り、北沃沮は『三国志』東沃沮伝の中に見える名称で、別名で置溝婁ともいう。
南沃沮(北沃沮の対比での表現。東沃沮そのものを指す)から800里離れるが、南北ともに同じ習俗であり、
北を?婁と西を夫余と南を高句麗と接していた。
・「置溝婁」を「買溝」と書いている例があることから、通説では「置溝婁」は誤写で、「買溝婁」が正しいとされる。
買溝婁マイ・ガオ・ルーで
北沃沮の地名が何故か靺鞨・勿吉に通じる
東沃沮が高句麗に滅ぼされたため、同族の後ろ盾を失った北沃沮が女真族にやられ、
その地名から勿吉→靺鞨が生まれた
こういう影響でここらをツングースに比定する説があるのか >>831-833
そんな何の考古立証もできないものが確実な訳がないだろ。
単に個人的な脳内妄想に浸って創作しているだけ。
そろそろこちらへどうぞ↓
http://mao.5ch.net/mitemite/
. 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 ハバロフスク(ポリツェ文化)が起源でしょうな
日本の農村部と全く生活が同じだから
川辺で農耕牧畜漁労は日本だから
都市部の連中にはわからんかもしれんが https://ja.wikipedia.org/wiki/勿吉
勿吉(もつきつ、?音:Wuji)は、中国の南北朝時代に、高句麗の北から満州地域に住んでいた狩猟民族で
、現在の松花江から長白山一帯に居住していたと思われる。粛慎、?婁の末裔で、唐代における靺鞨の前身である。
人尿洗顔[編集]
?婁人と同様、最大の特徴である「人尿で手や顔を洗う」という風習も受け継いでおり、中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評される。
?婁(ゆうろう、?音: Yilou)は、後漢から五胡十六国時代(1世紀から4世紀)にかけて、外満州付近に存在したとされる民族。
https://ja.wikipedia.org/wiki/?婁
衣食住と人尿洗顔[編集]
?婁の生活スタイルは、その東夷諸国のなかでは極めて特異である。まず、?婁人は地上に家を建てず、
地下に縦穴(竪穴)を掘り生活する。竪穴は深く(梯子の段数が多く)かつ大きいほど尊ばれたという。住居
を地中に構えたのは、防寒の為と考えられている。さらに、部屋の中央に置いた尿を溜めた容器を囲んで暮
らし、その人尿で手や顔を洗ったという。尿に含まれるアンモニアは弱アルカリ性のために皮脂汚れを落とす効
果があり、古代ローマでは回収した尿で洗濯する業者がいたことが現代では知られているが、当時の中国大
陸ではそのような習俗はなく、『三国志』や『後漢書』では「その人々不潔」、「その人々臭穢不潔」とあらわしている。 スカトロもチンコロの人肉食よかマシなんじゃないか?w
シ シ ビ シ オ w
. 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 より抜粋 小便で洗顔の記述は中国歴史家の嫌がらせだろうな
日本へ来たのは靺鞨ではないが チンコロにはシシビシオ、人肉の塩辛喰いと一兆回唱え殺したれば黙るだろ。 >>842
なわけない
ツングースの習俗に必須なんだよ
イヌイットとか生肉食ってたろ?で血を飲んでた
そこまではわかる
じゃあその汚れを何で洗いおとせばいい?
水は凍ってるので燃料が大量にいるし、乾燥地でそもそも水のない場所も北方には多い
よく考えてみ
尿しかないだろ
ネネツなんかもそうだ
本来家畜とかの小便で顔あらってたんだよ でその習俗は靺鞨、ユーロウなどの北方人種に残り
生肉をくい、血を飲んでビタミンを補い、小便で手と顔を洗ったんだ
それがそんな南にあるわけない
樺太より北くらいでないと
ツングースの本来の居住地はそこらへん
であれば扶余語族の居住地も北にあがってくる >>840
なわけないな
>スカトロもチンコロの人肉食よかマシなんじゃないか?w
中国人は余裕持って人肉食文化が一部にあったことを語れる
北方民族は小便で顔を洗ってた民族の子孫だって自身もっていえるだろうか?
多分言えない
小便だもん https://youtu.be/PetlInMD84Y?t=73
生肉を食うネネツ
血も飲んでる
北極海が見えるほどの北方であっても生肉を食ってれば余裕で生き残れる
植物ではビタミンを取れない
なので生肉が必須
みんな手が汚れてるよな?
何をもってそれを洗う?
洗うツールがない >>844-847
人肉シシビシオはどっか行けよ
人肉シシビシオは 人肉なんてくえたのは一部の特権階級だろうけど
北方民族の小便洗浄は、その民族全員に及んでるからな
覚えとけよ >>849-850
インドシナ華南 ウンコ色 短顔 ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇 人肉シシビシオはどっか行け!
インドシナ華南 ウンコ色 短顔 ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇 人肉シシビシオは 東南アジアO由来の中国人はそれに劣等意識ももたないし
人肉食の歴史に対してなんもかんじないだろう
しかし北方アジア系は「私の祖先は小便で顔を洗っていました」と自信をもってい言えるのか? >>853
インドシナ華南 ウンコ色 短顔 ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇 人肉シシビシオはどっか行け!
インドシナ華南 ウンコ色 短顔 ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇 人肉シシビシオはどっか行け! 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例が10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 小便洗顔は唐の腹いせだ
唐は靺鞨には歯が立たなかったから
アムール川沿いの民族は半農半牧で木造家屋に
住んでいた。小便洗顔なんて習慣はなかった。 >>856
違う、北方民族の習慣
で、それ以外では洗浄方法がない
衣服は革からとれるし、食料は肉
住居は木を持ってきて革で作れる
植物から取れない栄養は生食から取れる
ここまではわかるだろうか
で、風呂はどうする?
そんなんあるはずない
温泉などわいてるはずがない
水も凍ってる
沸かす燃料は家畜からは取れない
小便しかないだろ? 人尿洗顔民族をルーツだ!などと考えてはならない
これにいきつきそうならまず否定しろ ふつうにルーツだろ
尿洗顔とかブタの脂を体中に塗るとか、冬の間だけだしな
夏はふつうに水で洗う訳だし
出雲に渡来して、その必要もなくなり、それらの風習も瞬時になくなったと
山陰山陽方面には弥生期の毛皮の靴が出土するのよ
故郷では毛皮の靴を履いていた
出雲に渡来して、その必要もなくなり、毛皮の靴もなくなりはしないが廃れていったと 小便ってなんのことだかわかってる?
おしっこのことだよ? 尿洗顔よりも人肉シシビシオ、人肉の塩辛食いの方がよっぽど野蛮だろ。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >856
燃料は木材か馬糞、これは豊富にある
小便使わんでも牛乳で洗浄できる >>864
「私の先祖は人食いです」とは言える
「私の先祖は小便顔洗い民族です」とはいえない
言えなければ負け >>869
「私の先祖は尿洗顔していた」とは言える
「私の先祖は人肉シシビシオ、人肉の塩辛を食っていた」とはいえない
言えなければ負け 牛乳と石灰岩で石鹸はできる
酪農家は牛乳は豊富にあるから
小便で洗浄する必要はない
靺鞨が唐より強く、文化的にも上だったから
歴史書にボロクソ書いたものと思われる 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>871
靺鞨以前のユーロウの時代から書かれてるぞ
石鹸とかあほかと よく考えろ
北極圏の地面が凍って
一部は雪も降らない土地
どうやって手と顔を洗う? 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >874
石鹸なんて馬乳に石灰岩砕いてかき混ぜれば
できるんだよ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>881
だったら出雲に渡来時に稲作がすぐ始まるはずじゃないの。
稲作が始まるのは渡来から少なくとも50年以上は後。
しかも出雲じゃなくて九州北部。
短粒種だけのイネ、耕作用農具は半島南部と一致。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一点出土したが、朝鮮土器を全く作ってないから
渡来人の子孫が半島南部からパクってきたとしか考えられないね。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 近隣諸国との整合性とやらで、日本の稲作は
弥生時代からってことにされている 沿海州からの渡来は日本海側全般だよ
出雲が最初かどうかわからん >>884
日本最古の弥生土器が出雲あたりから始まるから。
>>885
菜畑遺跡=最古水田より前にさかのぼるイネ粒も農具もないから。
>>886
渡来系土器がメインの生活痕遺構が北陸以北にはないから定着まではない。
西日本中に最初の弥生土器が席巻するが、それが始まるのは出雲あたりから。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 渡来第一波はどう考えても亀ヶ岡に付随する地域でしょ 鬲型土器のコピー土器以外の外来系土器がメインの生活痕遺構がないし、
渡来系人骨の出土もないから何の考古立証もできない。 >>890
主流は当然土着人だろうけど
一気に縄文時代が変質したのは、外からの影響以外に考えられない
渡来系「のようにも見られる」人骨ならあるでしょ
DNA調べんとわからんけど 渡来人を裏付ける衣食住に関わる生活痕遺構がないから何の考古立証もできないね。
弥生文化だって朝鮮南部との交流だけで稲作などの様々な文化や先進技術が
入ってきたが、在地産の朝鮮土器遺構がないから半島人の定着までは考えられない。
交流だけで様々な文化や先進技術が入ってきただけだ。
しかし、渡来系弥生人は沿海州南部と一致する在地産の土器遺構と数千体の
渡来系弥生人骨があるから考古立証できる訳だ。 それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 そんな星占いよりも当たらねえのゴミカス指標いつまでやってんだカス 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 ツングースはYハプロがC、日本人のYハプロは
OまたはD。 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 より抜粋 >>898
こう考えよう
遼河文明を生み出したのはほとんどハプロNの集団
それが漢民族原型と混じり合ってるうちに次第にO1b2に乗っ取られた(言語は北方言語)
そのO1b2が東へ移動し、一部ツングースや縄文系統と混じり合いながら沿海州で文化を築いた
で日本の少数のNもCも説明つく
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