【ルーツ】日本人の起源は江南か?半島か?
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>>578
で、江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる原始青磁や三足や耳の付いた中国系生活土器と
土壁の中国系住居と石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと
龍信仰と亀卜と渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、江南から渡来定着したとウソブいている頭の湧いた考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと立証しろよ外国人犯罪1位の華 >>580
で、江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる原始青磁や三足や耳の付いた中国系生活土器と
土壁の中国系住居と石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと
龍信仰と亀卜と渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、江南から渡来定着したとウソブいている頭の湧いた考古学者の
氏名と所属団体は?
場所立証しろよ外国人犯罪1位の華南ブタ広鼻ニグロ唇ベトナミー。 >>580
で、江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる原始青磁や三足や耳の付いた中国系生活土器と
土壁の中国系住居と石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと
龍信仰と亀卜と渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、江南から渡来定着したとウソブいている頭の湧いた考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと立証しろよ外国人犯罪1位の華 >>578
その説が一歩リード
だが世界最古の土器が日本にあって
稲の痕跡が7000年以上前から日本列島にある以上、時代を更に遡ると列島発→大陸と言う可能性も捨てきれない 遺伝情報という新しい科学的見地は一部の人々に都合悪いのかな?
一番確実な血による証明なのに、日本人は大陸とは違う(かつていたかもしれんが)
もう日本人は日本列島の固有種でいいのではなかろうか
D2系統Yapなんか日本以外に存在しないのだから >>585
そりゃ中華思想の冊封体制に精神的に支配されてる人達にとっては都合が悪いだろな >>578
ちなみにそうだと、下戸遺伝子の分布図とも整合性が合うよね >>585
考古学のブレイクスルーやからね
今まで構築してきた都合のいい歴史観が遺伝情報のせいで音を立てて崩れ去った
彼等にとって歴史とは科学ではなく政治
日本を影響下に置きたい勢力が暗躍してるんだろ
そりゃあ必死で否定もする アフリカで人類が誕生して日出る場所を求めて東の果てにたどり着き、そこで世界最古の文明を興した、それが縄文文明
文化は西からと言われるが文明は東から
世界は東西南北で循環している ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ま、朝鮮人の悪だくみは
科学とネットの普及によってどんどん通用しなくなるだろうね コピペの人、ずいぶん前から
他スレでもずっとコピペしてる 国を負われて出ていくのにわざわざ稲など持っていかないと思う、無事にたどり着けるかどうかも分からないんだぞ、わずかな衣類と食料のみ、命からがらたどり着いた所で釣りなり狩なりして食い繋いだ、ジャングルを歩いているうちに「稲があるぞー!」と見つけた奴がいて
そこから稲作が広まった
と考えるのが普通 それか
ジャングルを歩いているうちに
「こ、これは水田じゃないか...」 と田園風景を発見、そして縄文人の集落と出逢い
共にてを取り合って稲作を広めた 人類がアフリカで誕生して白変種が生まれ
差別され北へ追いやられたのが白人
寒さを避けて南下しインドへ、
再び黒人と合流混血したのが旧モンゴロイド、北東へ移動した一派は極寒を耐え抜き突然変異→新モンゴロイドとなる、新モンゴロイドが東アジア全域に拡大 、
旧モンゴロイドは南東へ追いやられ移動したのがオーストラロイド、アボリジニ、マレー系、日本列島で縄文人となる インディアン/インディオの祖先は、約2万5000年前にシベリアに進出したモンゴロイドである。
当時は最終氷期の最盛期で、現在のベーリング海は陸地のベーリンジアになっており、ユーラシア大陸からアラスカに歩いて移民できた。ベーリング海峡が海に戻った1万4000年前より前に、
彼らはアラスカまで進出したはずだが、考古学的証拠は乏しく正確な時期は特定できない。約1万5000年前、
古モンゴロイドはカナダを超えアメリカ合衆国本土へ渡り、クローヴィス文化の担い手のパレオインディアンとなった。彼らがインディアン/インディオの直接の祖先であり、
1000年で南米南端まで広がった。 紀元前6、7世紀から前2、1世紀にかけてケルト人が移動して英国に住むようになりました。
もともとドナウ川、ライン川流域地方を中心に定住していたケルト人が西に移動を始め、フランス、スペイン、北イタリア、バルカン半島、そしてブルタニア(英国のローマ名)に広がっていったと言われています。ブルタニアのケルト人をブリトン人と呼びます。
その後、ローマ帝国によってブリトン人は支配されるようになります(43年クラウディウス帝によるブルタニア征服から410年西ローマ帝国ホノリウスによるブルタニア放棄まで)。
117年にローマ皇帝ハドリアヌスがイングランド北部に「ハドリアヌスの長城」を築き、これがローマ帝国最北端の境界でした。
375年にゲルマン民族の大移動が始まり、ブルタニアにも5世紀から6世紀にかけてゲルマン人の一部族サクソン人、アングル人、ジュート人が侵入してきました。
この3部族が「アングロ・サクソン」です。このころはスコットランドからピクト人、アイルランドからスコット人なども侵入してきました。
この5世紀末から6世紀の時代、アングロ・サクソン人の侵入と戦ったのが、かのアーサー王と言われています。(もしアーサー王が実在したならの話しだけど)
その後アングロ・サクソン人がイングランドを支配し9世紀にイングランド王国が成立します。またこの頃、ピクト人とスコット人によってスコットランドに統一王国ができます。
1016年にデーン人がイングランドを征服しますが、1066年には仏ノルマン軍がイングランド王国を征服します。
イングランド王国は16世紀にウェールズを、17世紀にスコットランドを、そして19世紀にアイルランドを併合して現在に至っています。
以上をまとめると、英国人の祖先はケルト人、ローマ人、アングロ・サクソン人、ピクト人、スコット人、デーン人、アイルランド人、ノルマン人)ということになると思います。 アフリカ南東部から北上して北アフリカからアラビア半島あたりで高温砂漠気候に
適応したのが古コーカソイド。
その後、東進して変化したものが、インドから東南アジア、オーストラリアに
広がるオーストラロイド。
そのまま北上して白くなったのが、中央アジアからヨーロッパ大陸に広がる白人。
中央アジアから東進して亜寒帯に適応したのが古モンゴロイド。
さらに北上してツンドラ気候に適応したのが北方モンゴロイド(新モンゴロイド)。 ハプログループD1aは、チベット等に多いが、日本人にも見られるタイプである
ハプログループD1bは、日本列島に固有に見られるタイプで、アイヌが高頻度で約85%、次いで琉球民族で約40%、本土日本人にも35%ほど見られる。
縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌ[65]や一部の沖縄県民(特に糸満や宮古島)で高頻度に見られ、
反対に漢民族や朝鮮民族などの周辺諸民族にはほとんど見られないことから、ハプログループD1bは縄文人に特徴的なY染色体だとされる。
(ミクロネシアやティモール島でもわずかに発見されている。)
アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー のY染色体分析でもD系統が扱われ、
チベット人にも、約50%の頻度でこのハプログループDを持っていることを根拠に、
縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団が東進を続けた結果、約3万年前に北方ルートで北海道に到着したとする仮説を提唱したしかし、実際にどのような経路を通ったかは様々な学説があり結論には達していない。
D系統は、現在世界で極めて稀な系統になっており、日本人 (D1b) が最大集積地点としてその希少な血を高頻度で受け継いでいる。
遠く西に離れたチベット人 (D1a) やアンダマン諸島(D*)で高頻度である他は、アルタイ(D*)、タイ (D1a)、ヤオ族 (D1a)、フィリピン (D2)、グアム島(D*) 等の南方地域にわずかに存続するだけである。
しかしながら同じD系統とは言え、D1b系統と東アジア(チベット等)のD1a系統は分岐してから4 - 5万年もの年月を経ていると考えられる
(O系統が誕生したのが3 - 4万年前であるため、これよりも前に分岐しているD1bとD1a等は別系統であるが双方とも日本列島で見られる) >>599
20000年以上前に北海道や樺太に人類の痕跡がない。
ゆえに35000年前に日本列島最古の人類の足跡であるアルタイ地方起源の石刃技法を
日本列島に伝えた旧石器人は朝鮮半島経由で入ってきた事が分かる。 >>600
シルクロードまっすぐ東に向かうと江南
そこから筏で海流に乗って、即九州 考古事実と整合しないものを考古学が永遠に受け入れる訳がないだろ。
遺伝学がメジャーなものになって40年くらい経つようだが、
いまだに「イデンシガー」なんて言ってる考古学者などいない。
解釈が複雑すぎて実用的ではないし、遺伝学単体の解釈など、
考古事実と整合していない事がほとんどで、あてにできない材料だからだ。
考古事実と整合した場合だけ、利用できる場面もあるだろうが、
それなら、考古学単体の解釈だけで十分事足りるのである。
考古学にとって遺伝学など取るに足らない「無用の長物」なのである。 >>602
今すぐ外国人犯罪者の頭の病院、刑務所に行こう! >>604
こりゃ一本取られたなw
確かに考古事実がないw 出土品は事実の解明の重要な要素には
なるが、それだけでいくと一つの出土品が新たに発見されるだけで歴史が全部塗り替えられる事になりかねない
過去何度も同じ過ちを繰り返してきて
現代では出土品だけで真実を究明する事は
困難だと言う事が解った
そこで遺伝子が登場
遺伝子は科学の発達と共により正確な真実
を解明するための決定的要素
考古学のみならず迷宮入り事件や
今後の医学の発展、可能性にも大いに貢献している 考古学には無用の長物。
むしろ考古学においては科学を謳った詐欺材料になっている。 >さらに北上してツンドラ気候に適応したのが北方モンゴロイド(新モンゴロイド)。
ただの突然変異、新モンゴロイドとされてる集団が赤道付近にいたり、寒い地域にいるアイヌは古モンゴロイド、アリューシャン列島を通ってインディアンの祖先となったのも古モンゴロイド
古とか新とか使い分けてるのは日本の学会だけで同じモンゴロイドに大きな差があるわけではない >>608
全然なって無い
出土品の方が捏造が相次いでるから
遺伝子が決め手になる
お前の言う事は1から100まで間違ってるよ >>609
赤道付近にいるのは華僑、つまり南方モンゴロイド。
南方モンゴロイドはインドネシア人種に南下した中央モンゴロイドが混成したもの。
その中央モンゴロイドは古モンゴロイドに南下した北方モンゴロイド(新モンゴロイド)
が混成したもの。
北海道はみんなが思っているほど寒くない。
1月の平均気温が-10℃以下にならないの。
それに対して、北方モンゴロイドの本拠地たるバイカル湖あたりなんかは
1月の平均気温が-20℃未満。
寒さのレベルが違うの。
北方モンゴロイド形質を獲得する前にアメリカ大陸に渡ってしまえば、
古モンゴロイド形質のままだろうしな。 >>610
さあ、今すぐ外国人犯罪者の頭の病院、刑務所に Let's go! >>611
なんの裏付ける物もなしに語ってるだけじゃ、ただの妄想でしかないぞ
せめて少しは周りを説得しようと言う気を持ったらどうだ?
ホントいつまで同じ事繰り返してんだか >赤道付近にいるのは華僑、つまり南方モンゴロ
アホすぎて、言葉が出ない... 華僑は18世紀以降の中国人人種的分類でもなんでもない
新モンゴロイドは寒さに耐え抜くため瞼が太くなって毛が無くなったと言われてるが、
それも何の根拠もない一つの説に過ぎない、普通に考えて毛が無いほうが寒さに弱い、動物も冬になれば毛が濃くなる
新モンゴロイドとされてる人集団も南下している、江南人がそれ >>611
お前はキリンの首は
キリンの念力で伸びたとでも思ってるのか? そもそも遺伝情報なしで、どうやって種族間の混血の有無を証明出来るんだよ
不可能だろ
今まで声のデカい人の主張が通ってたのは、まさにそのせいなんだよな
証明不可能なのをいいことに、やりたい放題やりやがって
遺伝子解析が出来なかったら、今頃ソメイヨシノの起源は朝鮮に書き換えられてたかもしれんw
科学の進歩万歳だよ >>613-617
遺伝学の話がしたいなら、板違いだぞ。
ここは考古学板で遺伝学の板ではないぞ頭の湧いた華南人。
遺伝学は遺伝学の板に行け。
○人類の遺跡・遺物に関する学問=考古学、およびその関連分野について語る板です。
○人類史・遺跡に関わらない話題については、より相応しい板があるかもしれません。
それぞれの話題に応じて適した板を選びましょう。
●ネアンデルタール人、猿人などの生態・遺伝学に関する話題は ⇒地理・人類学 生物 「古き時代を考える学問」
と書いて考古学
出土品も遺伝子も大事だし、その時の気候、
地理、歴史等、総合的に判断して真実を解明して行くのが本流、本筋
遺伝子、科学の話題も考古の真実を突き詰める目的なら何の問題もありません 遺伝学は佐藤サギ一郎のように遺伝学を使って巧妙な詐欺を働くからダメ。
さっさと遺伝学用の板に失せろ! ハプログループの分類は詐欺でも何でもない
考古学会でも認められている重要な学説
お前は、オカルト板へ行け 欧米では考古学は人類学の一部とみなされてるし考古学とDNA解析を組み合わせた研究が主流、発掘によって発見された古代の動物の遺骸や植物のDNAを解析して、新たな情報を得るのは今では当たり前の事
考古学で重要な出土品の年代測定も
現代の科学が進んで来たお陰で、かなり前進した。
考古学でDNA研究を外せと言うのは
とんでもない暴論 >>592
否定されまくって破れかぶれなんだろ
敗者の叫びとしか思えんし、生暖かくスルーするしかないんじゃないか? 向こうの学会はあんなのがほとんどなんだろな
でもここは嘘を暴くスレとしては良スレ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>620
壊れた機械のように同じ事連投されても
最早ただの嫌がらせ
板違いどころか荒らし行為だろ
オマエいい加減にしろよ! 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 チョンってどうしてこんなに会話が成り立たないんだろ
真実を追求するとこを拒み、自分の都合の良い妄想を一方的に喚き散らす
周囲がそれを指摘し都合が悪くなってくると火病起こして意思疎通を拒み、また何事もなかったかのように同じ主張を繰り返す
周囲が呆れて去っていくと、勝利宣言して罵倒する
もうどうしろとw >>596
インディアンの祖先はアイヌ又は縄文人ではなさそうだな、北方騎馬民族がそれに近い関係らしい >>634
スルーしたり
絡んで来たらたまに相手にしてあげたり 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>635
失礼
ハプログループq ケット人
ケット人のY染色体ハプログループはアメリカ先住民で高頻度のQ系統が90%以上を占め、遺伝子からもアメリカ先住民との同系性が示されている。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 九州と南朝鮮の稲作は支那の研究者も同時期
と捉えていて、オクキョンと菜畑の年数の誤差
はほとんど問題にされてない
江南→九州→南朝鮮と言うのは支那の研究者の間でもほとんど定説
もはや朝鮮経由はトンデモセツになりつつある ハプログループD1aは、チベット等に多いが、日本人にも見られるタイプである
ハプログループD1bは、日本列島に固有に見られるタイプで、アイヌが高頻度で約85%、次いで琉球民族で約40%、本土日本人にも35%ほど見られる。
縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌや一部の沖縄県民(特に糸満や宮古島)で高頻度に見られ、
反対に漢民族や朝鮮民族などの周辺諸民族にはほとんど見られないことから、ハプログループD1bは縄文人に特徴的なY染色体だとされる。
(ミクロネシアやティモール島でもわずかに発見されている。)
アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー のY染色体分析でもD系統が扱われ、
チベット人にも、約50%の頻度でこのハプログループDを持っていることを根拠に、
縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団が東進を続けた結果、約3万年前に北方ルートで北海道に到着したとする仮説を提唱したしかし、実際にどのような経路を通ったかは様々な学説があり結論には達していない。
D系統は、現在世界で極めて稀な系統になっており、日本人 (D1b) が最大集積地点としてその希少な血を高頻度で受け継いでいる。
遠く西に離れたチベット人 (D1a) やアンダマン諸島(D*)で高頻度である他は、アルタイ(D*)、タイ (D1a)、ヤオ族 (D1a)、フィリピン (D2)、グアム島(D*) 等の南方地域にわずかに存続するだけである。
しかしながら同じD系統とは言え、D1b系統と東アジア(チベット等)のD1a系統は分岐してから4 - 5万年もの年月を経ていると考えられる
(O系統が誕生したのが3 - 4万年前であるため、これよりも前に分岐しているD1bとD1a等は別系統であるが双方とも日本列島で見られる) 欧米では考古学は人類学の一部とみなされてるし考古学とDNA解析を組み合わせた研究が主流、発掘によって発見された古代の動物の遺骸や植物のDNAを解析して、新たな情報を得るのは今では当たり前の事
考古学で重要な出土品の年代測定も
現代の科学が進んで来たお陰で、かなり前進した。
考古学でDNA研究を外せと言うのは
とんでもない暴論 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. また火病発症しとるwww
こんな劣性遺伝子持ってたら、そりゃ遺伝学否定したくもなるわなw
で、チョンの火病は敗北宣言とみていいのかね?w
他に手段のなくなった末の悪あがき以外何者でもないわけだしw 7000年前にその痕跡が残ってるし
何より魏志倭人伝がそれをはっきりと証明してる「倭国は温暖で一年中野菜が食べれる、そして稲作をしている」
少なくとも縄文時代から弥生時代まで日本の近畿から南は亜熱帯気候だった事が分かる
そしてどうみても「亜熱帯気候の倭国では米が豊富に採れる」と言うニュアンス、当時の魏よりも米が採れて稲作が活発に行われていた事を示している。魏から見ると倭国は米の本場とも解釈できるから、米の伝来自体が無い、あったとしてもそれよりも大昔に南方からだろな
朝鮮からなど200%無い しかし、南(華南)から北(朝鮮半島)に行って、また南(九州)に下がってくるというのは、何とも不思議で、実は、稲作は九州から朝鮮半島へ伝播したのではないでしょうか?
事実、北九州の菜畑遺跡(約3000年前の遺跡)からは、縄文晩期後半の突帯文土器、夜臼式(弥生土器の原型)よりも古い山ノ寺式といわれる土器の層から、水田址4枚や水田稲作に
必要な道具が発見されており、朝鮮半島南部で確認された最古の水田跡(無去洞玉遺跡)は、約2800〜2500年前となっていることから、
ほんのわずかですが、北九州の方が早く、水田稲作が始まっています。
また、海流と気候の関係からも、北方ルートはありえません。なぜなら、従来長江からのルートとして考えられてきた、山東半島及び朝鮮半島西側は、
西の黄河や北の遼河から流れ込む寒流の影響で、寒冷乾燥の土地となっており、水田稲作には適さないところであるからです。逆に、
九州は南からの暖流の影響で、温暖湿潤な気候となっており、水田稲作に適しています また、海流と気候の関係からも、北方ルートはありえません。なぜなら、従来長江からのルートとして考えられてきた、
山東半島及び朝鮮半島西側は、西の黄河や北の遼河から流れ込む寒流の影響で、寒冷乾燥の土地となっており、水田稲作には適さないところであるからです。
逆に、九州は南からの暖流の影響で、温暖湿潤な気候となっており、水田稲作に適しています。
よって、長江下流域(温暖・湿潤)→山東半島(寒冷・乾燥)→朝鮮半島西側(寒冷・乾燥)→九州(温暖・湿潤)
といったわざわざ不適な箇所を時間をかけて通るルートは考えられず、長江下流域(温暖・湿潤)→九州(温暖・湿潤)→朝鮮半島南部ではないかと考えられます。
そして、このことは、従来、稲作の伝播と同時に語られる「支石墓」の伝達ルートからも見て取れます。 >>648
8000年前に中国と言う国は存在しない
どこの考古学者が言ってるの?所属団体は? 出土品は事実の解明の重要な要素には
なるが、それだけでいくと一つの出土品が新たに発見されるだけで歴史が全部塗り替えられる事になりかねない
過去何度も同じ過ちを繰り返してきて
現代では出土品だけで真実を究明する事は
困難だと言う事が解った
そこで遺伝子が登場
遺伝子は科学の発達と共により正確な真実
を解明するための決定的要素
考古学のみならず迷宮入り事件や
今後の医学の発展、可能性にも大いに貢献している ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 九州と南朝鮮の稲作は支那の研究者も同時期
と捉えていて、オクキョンと菜畑の年数の誤差
はほとんど問題にされてない
江南→九州→南朝鮮と言うのは支那の研究者の間でもほとんど定説
もはや朝鮮経由はトンデモセツになりつつある ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 板材を多くつかう建築物は、木の板を量産できるようになった鎌倉時代末ないし南北時代ごろになるまでは庶民の手にできるものではなかった
だから庶民は竪穴式住居を使っていた。鎌倉時代まで竪穴式住居は現役で広く使われていたんだよ
中国だって地域によっては数百年前まで洞窟住居を現役で使っていたのと同じ
高床式建築物は高級品で庶民住居に使えるものではなかったわけ
千六百年前とか、寝言は寝て言え アー タノシーデスネー 長江の鬲wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=鬲++長江&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RivbYm8qxbVV0AYQ6U3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 稲作の伝来ルートについては、植物学者、農学者だけでなく考古学者の間でも、中国江南地域から直接伝来したというのが定説です。
そして近年、中国の稲作研究界では、「水田稲作」は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっています。
稲の遺伝子は7種類あり、現代までの日本で発見された2つをNO,1とNO,2として分類したのが「温帯ジャポニカ」と「熱帯ジャポニカ」という品種。
中国大陸でもこの2つ見つかっているますが、半島ではNO,1は見つかっていません。これは中国江南地域より北では気温が低く育たないためです
それどころか、炭素14年代測定法での測定の結果、日本の稲作の方が半島より古いことが分かりました。
日本の稲作開始は「焼畑稲作」で紀元前6700年程度前、「水田稲作」は3200年程度前であることが判明しています。一方、半島での「水田稲作」は紀元前1500年程度前のもので、
九州北部と栽培法が酷似し、遺伝子学的に日本米に、満州から入った米の遺伝子が交雑していることから、「水田稲作」は日本から半島へ、「焼畑稲作」は満州から半島へ伝わったことが証明されています 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 ここで、縄文時代を振り返ってみると紀元前6500〜4000年前の縄文時代・前中期にヒプシサーマル(気候的最適期)
と呼ばれる時期がありました。当 時の気温は現在より東日本で2度、西日本で1.5度ほど高く、その温度上昇は海水面を現在よ2〜4m押し上げていたと言われています(縄文海進)
その結果、関東などでは海水が栃木県の内陸まで進み、三内丸山や八ヶ岳山麓集落が繁栄したのもこの時期でした。
が、紀元前4000年前以降から冷涼化が始まり繁栄にも陰りが見えてきました。これが品種改良と、
「焼畑稲作」である"縄文稲作"から効率的な「水田稲作」への転換のきっかけとなります
ところで、稲の他、ムギ、キビ、トウモロコシなどのイネ科植物は、吸い上げた水分の中の珪酸という物質を細胞に蓄積する性質があり、稲が
枯れたときでもガラス質である珪酸はそのまま1万年でも土の中に残留します。これが「プラントオパール」ですが、
このプラントオパールによって、遺跡などから出た植物の由来が分かり、遂に2005年2月、岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(紀元前約6700年前)
の地層から、土1gあたり2000〜3000個という大量の稲のプラントオパールが見つかりました。 今後、更なる発見によって"縄文稲作"の年代は更に遡る可能性があります。
いずれにせよ、世界最古級とされてきた中国の河姆渡遺跡から僅か300年で日本に伝播するのか、また「弥生人が日本に稲作を伝えた」と俗説は強調しますが、"縄文"時代に"弥生人"が渡来するのか大いに疑問です。
ところで、この"縄文稲作"の稲は、麦、アワ・キビなどの雑穀の中の一つとして位置づけられたものであり、
かつ水田によって栽培された「水稲」ではなく、焼畑、畑作によって栽培された「陸稲」だったとされます。どういうことかというと、
一つは、東南アジアの焼畑と縄文の焼畑との違いを考えてみると、人口密度が低かった縄文時代には土地も十分にあり、
現在のように急な斜面などではなく、縄文の焼畑は平らな土地で行なわれていたのではないかという点です。
もう一つは、このような地形と関連して、縄文時代の焼畑には水が豊富にあったのではないかという点。
春先の水位の低いときに草原や隣接する森を焼き払い、夏の間は高くなった地下水位に支さえられて稲作を行うというわけです。
一方、渇水の年には稲に代わってアワ、キビなどの乾燥に強い雑穀を栽培。反対に雨が多い年には稲が多く収穫できたようです。そういう意味で、縄文時代の稲作は
「水陸両用稲作」というのが適切でしょう。これに対し、弥生時代に日本に伝来したという稲作は「水田稲作」と言われます。 ここにいう「水田稲作」とは、水田を使った稲の安定的かつ大規模な"生産方式"という意味だと考えられます。
というのは、日本産の稲の品種は、その後、先に挙げた「温帯ジャポニカ」と「熱帯ジャポニカ」が混合し、より耐寒性のある「早生ジャポニカ」に品種改良されていたからです。
「水田稲作」が全国に急速に普及したかと言うと、土地の支配者にとって大規模で効率的な生産が可能だったことと、
農耕地を中心に人々を定住させて管理するのに好都合だったからではないかと推測されます。
ちなみに、日本の品種改良技術は奈良〜鎌倉時代に飛躍的に伸びましたが、飛鳥時代にも籾の選別技術等が確立しており、
5世紀頃には単位収量がアジアでトップクラスになっています。
また、日本が朝鮮を併合した時に半島に日本の耕作技術が移出され、単位収量が併合前に比べて2・2倍に増加しました。
これは灌漑設備の他、植物防疫、施肥法の伝授によるもので、単位収量の増加は半島での生活に安定をもたらしました。
実際、食料計画の研究資料によると、摂取カロリーが一日あたり併合前に比べて一人あたり400カロリー、
摂取タンパク質量が一人あたり7グラムも増え、栄養状態の大きな改善により併合後の半島の人口は2倍以上に増加しました。
中国大陸でも、当初は半島と同程度の収量であったことなども考えると、日本の稲作技術は20世紀初頭のアジアでトップであったばかりか、古代でも進んだ生産技術だったことが考えられるのです。 7,8年前からまず考古学の分野から変化が起き、次第に支那南部から直接伝来した説が有力になって、
現在ではほぼすべての学界で定説になっている。また支那の稲作研究界ではむしろ水稲種は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっている。
この流れが加速したのは主に2つの理由がある。
遺伝子工学の分野からの研究の成果、もう1つは支那政府機関が20年以上かけて満州で行った品種の調査だ。
この2つが決定打になり朝鮮半島経由で米が伝来した可能性がなくなった 近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきている。
日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。
これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや
遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、
陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。支那政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。
また、支那南部の日本の米の起源と推定される地域は熱帯ジャポニカも温帯ジャポニカも同時に存在しているので、両者を1品種ずつ持ってきたと考えられる。
往来回数が多くなると別遺伝子品種が紛れ込む可能性が高くなるので、古代人が遺伝子選別技術を持っていない限りはこの地域だけから流入したと考えるしかない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. アー タノシーデスネー 長江の鬲wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=鬲++長江&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RivbYm8qxbVV0AYQ6U3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>675
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