3058【05再重】Genjo Sanzo in Suspicion+Secret of Kukai疑惑の玄奘三蔵+空海の秘密と謎の矢田寺by Hiroshi Hayashi, Japan
https://youtu.be/uvMA4BvVloY

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにあります。
『玄奘三蔵は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、国禁を犯して密かに出国、役人の監視を逃れながらインドへ向かった。
玄奘は西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越え、天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至った。
インドのナーランダ大学では戒賢に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した。ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの保護を受け、ハルシャ王へも進講している』と。
が、本当にそうでしょうか。玄奘三蔵は、本当に、ナーランダ大学まで行ったのでしょうか。
その疑問の第一は、ナーランダ大学は、ブッダの仏教の大学。一方、玄奘三蔵が長安へ持ち帰ったのは、密教。
つまり弥勒菩薩教。もっとわかりやすく言えば、ミトラ教。
その証拠に、長安へ渡った空海が、日本に伝えたのは、弥勒菩薩教。ブッダの仏教ではありません。
ナーランダ大学に残る仏像と、空海が高野山の根本大塔に収めた大日如来像を見比べてみれば、一目瞭然。
ナーランダ大学に残る仏像は、まさにブッダ像。根本大塔の大日如来像とは、似ても似つかないものです。
つまり、空海が根本大塔に収めた大日如来像は、チベット密教の総本山、現在のタシルンポ寺にある、弥勒菩薩像と同じです。
つまり玄奘三蔵は、インドのナーランダ大学へは行っていない。行ったとしても、チベット。
そのチベットで、いわゆるチベット密教をそっくりそのまま持ち帰った。それがそののちの、密教となった。
それが私、はやし浩司の解釈です。




大唐西域記によると、玄奘三蔵法師が長安を発ったのは629年・・ 、
その頃のチベットは、統一への黎明期とも呼ぶべき時期で、いくつかの部族が争う混乱も多い時代であって、
仏教を学ぶ目的地として行けるところではありませんでした。
と言うか・・・、学ぼうにもシャーンタラクシタがチベットに仏教を興したのが761年、
パドマサンバヴァが密教をもたらし、チベット密教を興したのが774年、
いっぽう、玄奘三蔵法師が唐に、おびただしい数の仏教の経典や仏像や仏舎利、
仏教のほかにもナーランダ大学で、医学・薬学・土木などの科学知識などを学び、持ち帰ったのが645年です・・・。
まさか・・・、玄奘三蔵法師は、エイリアンならぬタイム・トラベラーだったとか言うのでしょうかw?

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それにしても「行っていない」も何も、
玄奘三蔵法師が持ち帰った数多くの経典・仏像・仏舎利、
また、仏教以外の医学・薬学・土木などの科学知識は、
ナーランダ大学に赴かなければ得られなかったものばかりですし、
( 二十二、玄奘三蔵が持ち帰ったもの | 三蔵法師〜苦難の西域への旅 http://sanzouhousi.com/life/22.html )

そのナーランダをはじめとするインド各地の仏教遺跡は、
大唐西域記を基に、発掘されたり研究されたものも多く、大唐西域記の記述を疑う余地はありません。

例えば、2001年に、アフガニスタンのターリバン政権によって爆破破壊された、バーミヤンの石窟寺院遺跡や石仏などは、
意外なことに、1885年にイギリスの調査団による調査がなされるまで、アフガニスタンの人々も仏教遺跡であるとは思ってもいなかったのが、
イギリスの調査団の、英訳された「大唐西域記」の記述をもとにした調査によって、ようやくバーミヤンの巨大な彫像が仏像であることが認められました。
また2005年にも、破壊されたバーミヤン遺跡の修復と保全のために、ユネスコの委託を受けた日本の文化財研究所が、
ターリバンが破壊した石仏から1キロほど離れた場所から、「大唐西域記」に記述されていた寺院と思われる仏塔の跡を発掘しています。

また、高野山壇上伽藍の根本大塔は、何度も火災で焼失し再建されていて、
現在にある根本大塔は、昭和12年に再建されたもの・・・、
大日如来像や曼陀羅の絵もそのときのもので、チベット密教の寺院や仏像を参考にしていた可能性はあっても、
玄奘三蔵法師が、インド(ナーランダ大学)に行っていない証拠には、なりません。