3159【05】GenjoSanzo did not got to Narranda, India 玄奘三蔵はインドのナーランダ大学へは行っていなかった説by Hiroshi Hayashi, Jap
https://youtu.be/y06gSCbmNAA?t=00h04m55s

>ウィキペディア百科事典には、つぎのようにあります。
>『玄奘三蔵は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、
>国禁を犯して密かに出国、役人の監視を逃れながらインドへ向かった。
>玄奘は西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越え、天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、
>ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至った。
>インドのナーランダ大学では戒賢に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した。
>ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの保護を受け、ハルシャ王へも進講している』と。
>が、本当にそうでしょうか。玄奘三蔵は、本当に、ナーランダ大学まで行ったのでしょうか。
>その疑問の第一は、ナーランダ大学は、ブッダの仏教の大学。
>一方、玄奘三蔵が長安へ持ち帰ったのは、密教。
>つまり弥勒菩薩教。もっとわかりやすく言えば、ミトラ教。
>その証拠に、長安へ渡った空海が、日本に伝えたのは、弥勒菩薩教。
>ブッダの仏教ではありません。
>ナーランダ大学に残る仏像と、空海が高野山の根本大塔に収めた大日如来像を見比べてみれば、一目瞭然。
>ナーランダ大学に残る仏像は、まさにブッダ像。
>根本大塔の大日如来像とは、似ても似つかないものです。
>つまり、空海が根本大塔に収めた大日如来像は、
>チベット密教の総本山、現在のタシルンポ寺にある、弥勒菩薩像と同じです。
>つまり玄奘三蔵は、インドのナーランダ大学へは行っていない。
>行ったとしても、チベット。
>そのチベットで、いわゆるチベット密教をそっくりそのまま持ち帰った。
>それがそののちの、密教となった。
>それが私、はやし浩司の解釈です。

大唐西域記によると、玄奘三蔵法師が長安を発ったのは629年・・ 、
その頃のチベットは、統一への黎明期とも呼ぶべき時期で、
いくつかの部族が争う混乱も多い時代であって、仏教を学ぶ目的地として行けるところではありませんでした。
と言うか・・・、学ぼうにもシャーンタラクシタがチベットに仏教を興したのが761年、
パドマサンバヴァが密教をもたらし、チベット密教を興したのが774年、
いっぽう、玄奘三蔵法師が唐に、おびただしい数の仏教の経典や仏像や仏舎利、
仏教のほかにもナーランダ大学で、医学・薬学・土木などの科学知識などを学び、持ち帰ったのが645年です・・・。
ちなみに、タシルンポ寺は密教の総本山ではないし、その創建も1447年なので、
玄奘三蔵法師がタシルンポ寺で密教を学んだなんてことはあり得ませんが・・・、
まさか玄奘三蔵法師は、エイリアンならぬタイム・トラベラーだったとか言うのでしょうかw?

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