【謎】考古学初心者雑談4【解明】
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京都産業大の鈴木久男客員教授(歴史考古学)は「渡来系の人々が暮らしていた地で国内最古のこまが見つかったことを踏まえると、こまが渡来人由来のものである可能性も考えられる。こまのルーツを知るうえで大変貴重な発見だ」と指摘している。 こまは9月1日から同10日までの間、大津市役所の市民ギャラリーで展示される。問い合わせは市教委文化財保護課。 8/28(金)16:24配信 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200828-00000558-san-cul https://amd.c.yimg.jp/amd/20200828-00000558-san-000-1-view.jpg 3311【01新】Boyd Bushman’s Cofession on Grey Alien グレイについてのボイド・ブッシュマンの死の床証言 by Hiroshi Hayashi, Japan https://youtu.be/VB6rQ1zl2CI ボイド・ブッシュマン氏の証言 初の和訳だと思います。。 >>696 >>455 公表後まもなくインチキを暴かれて、盲信的なUFOビリーバーにすら話題にしなくなった ボイド・ブッシュマンの動画を、今さら・・・(* ̄∇ ̄*) Debunked: Boyd Bushman, Area 51 scientist, claims existence of aliens in deathbed video [Hoax] https://www.metabunk.org/debunked-boyd-bushman-area-51-scientist-claims-existence-of-aliens-in-deathbed-video-hoax.t4886/ 【宇宙人秘話】あるエンジニアが死の間際に「宇宙人は存在する」と写真を公開→ 「嘘だ!」とネットユーザーが真実を暴きにかかる https://news.merumo.ne.jp/article/genre/2223556?page=2 20世紀の驚くべき発見:人間よりはるかに高いIQを持つ地底人が実在 https://youtu.be/1B57pTTXntY こんにちはシャンバラからのNTさん。。 M.I.Bもお出迎え。 CNN.co.jp : スノーデン氏、CIAネットワークでエイリアン実在の証拠検索 https://www.cnn.co.jp/usa/35144386.html >>698 地底人とかの話なら、こちら↓でなさってください。 地球空洞説を真剣に語るスレ 3 [無断転載禁止]©2ch.net http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/galileo/1481166926/ 「よみがえる邪馬台国」豊前の国に迫る 吉野ヶ里歴史公園で9月19日から特別企画展 佐賀 https://tourism.travelnews.co.jp/kyusyu-okinawa/202008280931221494.html 佐賀県吉野ヶ里町の国営吉野ヶ里歴史公園では9月19日から、特別企画展「よみがえる邪馬台国」が開かれる。 12回目となる今回は「倭人伝のクニを探る」シリーズ第2弾として、大分県宇佐市など豊前地域と青銅器にスポットを当てる。 11月8日まで。 同展では、弥生時代後期の集落跡である別府遺跡をはじめ弥生遺跡が点在する宇佐市を中心とする豊前地域に注目。 遺跡の特色、出土資料から、吉野ヶ里遺跡との関係、播磨・摂津の畿内遺跡との比較などを通して「豊前の国」を検証する。 9月27日には特別記念フォーラムを開催。邪馬台国の九州説と近畿説についての基調講演、フォーラムを行う。 時間は9―17時。特別企画展観覧は無料だが、入園料は大人460円。 https://tourism.travelnews.co.jp/img/200828kyusyu-okinawa1.jpg 【イギリスで「キリスト教の聖杯」の断片を発見!表面に天使や十字架のシンボルが描かれていた】 イングランド北部・ノーサンバーランドにある遺跡にて、5〜6世紀のキリスト教の「聖杯(英: Chalice)」の断片が発見されました。 断片は全部で14個見つかっており、無数の文字やシンボルが刻み込まれています。 聖杯の断片は、ローマ帝国時代に建てられた要塞跡から出土しており、イギリス国内で見つかった聖杯としては最古のものです。 研究主任のアンドリュー・バーリー博士は「イギリスでのキリスト教の広まりを理解する上でも貴重な発見」と評しています。 ■イギリスで見つかった最古の「聖杯」 聖杯が見つかった場所は、スコットランドとの境界線近くにある「ハドリアヌスの長城」の直下、「ヴィンドランダ要塞」の教会跡です。 ハドリアヌスの長城は、122年にローマ皇帝ハドリアヌスの命令により建設が開始されました。 その後、ローマ人は約330年間、同地に滞在しましたが、5世紀初めにその地を去り、集落だけが後に残されています。 聖杯が出土した教会は、ちょうどその頃の5〜6世紀に建てられたものです。 これまでに同遺跡では、拳闘用のグローブやシューズ、ブーツなどの遺物が見つかっていますが、聖杯が見つかったことはありませんでした。 これはローマ人が去った後も、同地の集落でキリスト教信仰が続いていたことを裏付けています。 キリスト教は313年のミラノ勅令によってローマ帝国の国教となり、そこから各地に広まっていきました。 そのため、聖杯の断片は、イギリスにおけるキリスト教信仰の初期の遺物と考えられます。 ■聖杯に記された「シンボル」の意味は? 聖杯には、天使や十字架、クジラ、舟などを含むキリスト教のシンボルがいくつも刻まれており、文字としては、ラテン語とギリシャ語の他に、5〜6世紀頃に盛んに使われたオガム文字も見られました。 シンボルや文字の大半は意味が分かっていませんが、「十字架の帆が張られた舟」は、キリスト教徒を約束の地に連れていく乗り物としての教会を象徴するものと言われています。 バーリー博士は「これらの意味を解明するだけでも、今後数年にわたる大規模な調査が必要」とした上で、 「この時代のイギリスは歴史的にあまり知られていないため、5〜6世紀のイングランドを知る重要な手がかりとなる」と話しました。 聖杯の断片は、今週火曜日から、ヴィンドランダ要塞で見つかった遺物を展示する「Vindolanda Trust」で一般公開が始まっています。 ナゾロジー 2020/9/3(木) https://nazology.net/archives/67847 【中欧の奇妙なうつぶせ埋葬、「蘇る死者」を恐怖か、最新研究】 ■ペスト流行期に増加、不死者迷信との関連を指摘 2014年、スイスの人類学者アメリー・アルタラウゲ氏は、数世紀前の共同墓地で見つかった奇妙な墓を調査するよう指示された。 ベルン大学法医学研究所で働き始めてからわずか数日後のことだった。 共同墓地には340の墓があったが、その中の1つが際立っていた。 教会の墓地の片隅に、中年の男性がうつぶせに埋葬されていたのだ。 「このような墓を実際に見たのは初めてでした」とアルタラウゲ氏は振り返る。 曲がった肘の内側には、硬貨がいっぱいに詰まった財布と鉄製のナイフがあった。 服の下に隠していたのだろう。 硬貨から推定された埋葬時期は1630〜1650年。 当時、スイスのこの一帯ではペストが流行していた。 「家族も葬儀屋も遺体を調べたくなかったように見えます」とアルタラウゲ氏は話す。 「埋葬するとき、すでに遺体の腐食が進んでいたか、あるいは感染症にかかっていたため、誰も近づきたくなかったのではないでしょうか」 アルタラウゲ氏はこの発見をきっかけに、うつぶせで埋葬された遺体をスイス、ドイツ、オーストリアで探すことにした。 うつぶせの埋葬は極めてまれだが、東欧のスラブ語圏などには記録が存在する。 遺体を切断したり、石の重りを付けたりといった風習と同じく、遺体が墓から逃げ出さないようにすることで、吸血鬼や死者のよみがえりを阻止できると信じられていた。 しかしアルタラウゲ氏によれば、現在のスイス、ドイツ、オーストリアにまたがる中世のドイツ語圏におけるうつぶせの埋葬は、体系的に調査されたことがなかった。 アルタラウゲ氏らの研究は8月31日付けで学術誌「PLOS ONE」に発表された。 中央ヨーロッパのドイツ語圏における900年分のうつぶせの埋葬の記録を100件近く分析したところ、データからは埋葬習慣の大きな変化が示唆された。 アルタラウゲ氏らはこの変化を、ペストによる死や、よみがえった犠牲者が生きている人に取りつくという迷信と関連づけている。 「遺体は動き、音を出します」 中世前期〜中世盛期(950〜1300年頃)のヨーロッパでは、うつぶせの遺体は数少ない。それらは大抵、教会の墓地の中央に埋葬された。 なかには教会の建物の中に納められた遺体もある。 宝飾品、高級な衣服や筆記用具とともに埋葬されたものがあることから、身分の高い貴族や聖職者が神の前で謙虚さを示すための選択だった可能性が示唆される。 その一例がカール大帝の父ピピン3世だ。768年に死去したピピン3世は、父親の罪を償うため、大聖堂の前にうつぶせで埋葬されることを望んだと伝えられている。 ヨーロッパでは14世紀前半あたりから、うつぶせの埋葬が増加し始めた。ただしその一部は、キリスト教の神聖な墓地の中でも端のほうに埋葬されている。この変化は壊滅的なペスト流行の時期と一致する。 1347年から流行が始まったペストはヨーロッパ全域で猛威を振るい、数千万人もの命を奪った。 「何らかの変化があったのです」とアルタラウゲ氏は述べる。氏はドイツ、ハイデルベルク大学の博士課程にも在籍している。 埋葬が追いつかないほどのペースで死者が増えると、遺体が腐敗する光景や音が日常になり、人々を不安にさせた。 遺体は膨らんで変形し、腸に充満したガスが予期せぬタイミングで耳障りな音を放つ。朽ちて干からびた遺体は表現のしようがなく、肉体がしぼむと体毛や爪が伸びたように見える。 腐敗中の「遺体は動き、音を出します。自身の肉体や、遺体を覆う布を食べているように見えるかもしれません」とアルタラウゲ氏は話す。 中世のヨーロッパの人々は、こうした目の前の音と光景を説明しようと試み、東欧のスラブ語圏に広まっていた不死者(アンデッド)の概念に注目した可能性がある。 「ドイツには、吸血鬼(の概念)はありません」とアルタラウゲ氏は話す。「しかし、遺体が動き回るという考え方はあります」。 14世紀半ばに最初のペストの感染拡大が発生してから間もなく、東欧のスラブ語圏から西欧に伝わった概念だ。 (以下略、続きはソースでご確認下さい。) ナショナル ジオグラフィック日本版 9/4(金)17:02 https://news.yahoo.co.jp/articles/b15977e7c74aa44352846791d8c03156f3392858 【日本天文学会、亀虎古墳壁画を天文遺産に認定】 キトラ古墳壁画を天文遺産に認定 「大陸から日本への科学知識流入示す」 毎日新聞 2020年9月8日 00時00分(最終更新 9月8日 00時19分) https://cdn.mainichi.jp/vol1/2020/09/07/20200907k0000m040214000p/8.jpg 天文図が描かれたキトラ古墳壁画の天井の部分=奈良県明日香村で2018年9月20日、藤原弘撮影 日本天文学会は7日、第2回の日本天文遺産として「キトラ古墳天井壁画」(奈良県)、「明治20年皆既日食観測地および観測日食碑」(新潟県)など 3件を選んだと発表した。 天文学の遺産を保護するため2019年、初認定した。 第2回は3月発表予定だったが、新型コロナウイルスの影響で延期していた。 https://mainichi.jp/articles/20200907/k00/00m/040/212000c 3700年前の古代カナン人宮殿、地震で廃墟になった 最新研究 現在のイスラエル北部にあるテル・カブリ遺跡には、今からおよそ3700年前の紀元前18世紀、カナン人の見事な宮殿があった。 6000平方メートルもの巨大な建物は現代のショッピングモールよりも広く、壁画が描かれ、豪華な宴会場があり、倉庫には100個以上の大きな瓶(かめ)に詰めたスパイスワインが貯蔵されていた。 ところが同世紀中に突然この宮殿は打ち捨てられ、以後1000年近くにわたり利用された形跡がない。 西暦2009年から遺跡の発掘が始まったものの、考古学者たちは困惑していた。 これほど壮麗な建物は、この地のカナン人にとっては間違いなく政治の中枢だったはずだ。 利用されなくなる直前まで改修が行われていた形跡もある。 それなのに、なぜ住人たちは逃げ出したのだろうか? テル・カブリ遺跡は、地震活動が活発な地域にあるため、放棄されたのも地震のせいだろうと憶測したくなる。 しかし研究者たちは、その説を採用することに躊躇(ちゅうちょ)した。 用途を説明できない遺物を何でも「祭祀用」としてしまうのは、考古学者の間でジョークになるほどやりがちなことだ。 地震説は、それと同じく安易な道だと思われたからだ。 そこで発掘チームは、調査を続けながら1つずつ可能性を排除していった。 ナショナル ジオグラフィック協会からの支援を受けて実施された発掘調査で、チームは干ばつや洪水といった地震以外の自然要因があった証拠を探したほか、武器や焼かれた跡、きちんと埋葬されていない遺体といった暴力や戦闘を示唆する痕跡も探した。 しかし、そうした証拠は何一つ見つからなかった。 イスラエル、ハイファ大学のアサーフ・ヤスール=ランダウ氏は、カナン人の宮殿が地震によって破壊されたという説を受け入れるまでに6年かかったという。氏は発掘調査の共同責任者で、共著者として執筆に加わった論文は9月11日付けで学術誌「PLOS ONE」に掲載された。 「そのような結論にたどり着く前に、全ての可能性を念入りに検討し尽くしたかったのです」と氏は話す。「派手な説に飛びつかず、丁寧に科学に取り組む姿勢が非常に大切です。そうしないのは、科学だけでなく私たちの社会にとって本当に良くないことなのです」 (以下略、続きはソースでご確認下さい) ナショナル ジオグラフィック日本版 9/16(水) 7:11 https://news.yahoo.co.jp/articles/c7ad7858cf09a965fc7280212f515bc1b056f142 2020年09月16日 20時00分00秒 【170万年前の人類が「温泉」で食料をゆでて食べていた可能性】 人類史上最古の道具使用の痕跡があることで知られる、東アフリカのオルドバイ峡谷に、かつて温泉が存在していたという論文が発表されました。 人類が温泉のそばに定住していたことを示すこの発見から、専門家は「人類は火を使うようになる以前から温泉で食料をゆでて食べていた可能性がある」と指摘しています。 Microbial biomarkers reveal a hydrothermally active landscape at Olduvai Gorge at the dawn of the Acheulean, 1.7 Ma | PNAS https://www.pnas.org/content/early/2020/09/14/2004532117 Did our early ancestors boil their food in hot springs? https://phys.org/news/2020-09-early-ancestors-food-hot.html 古代の人類が温泉のそばに住んでいたことを突き止めたのは、マサチューセッツ工科大学ケンブリッジ校の研究者であるAinara Sistiaga氏らの研究チームです。 2016年に、タンザニアのオルドバイ峡谷で実施された発掘調査に参加したSistiaga氏は、170万年前の地層から採取された砂の組成がその下にある180万年前の地層とは大きく違うことを発見しました。 170万年前の東アフリカは、徐々に砂漠化が進行していた時期だとされていることから、Sistiaga氏は当初、砂の組成の違いは植生の変化に由来するものだと考えていたとのこと。 そのため、Sistiaga氏はオルドバイ峡谷から持ち帰ったサンプルを分析し、植物由来の脂質を検出して当時の植物の種類を調べようとしました。 しかし、サンプルから見つかったのは植物とは無関係な脂質だったとのこと。 そこで、Sistiaga氏が論文の共著者であるロジャー・サモンズ氏にデータの解析を依頼したところ、サモンズ氏は問題の脂質がアメリカのイエローストーン国立公園で発見されたThermocrinis ruberという好熱性細菌が合成する脂質と同じものだということを突き止めました。 サモンズ氏は、「Thermocrinis ruberは温度が80度を超えない限り成長することができません。 オルドバイ峡谷のサンプルから、このような細菌が生み出す脂質が見つかったということは、当時のオルドバイ峡谷には高温の水があったことを明確に示していると考えられます」と述べました。 また、Sistiaga氏がサンプルを採取した場所は、石器や動物の骨といった初期の人類の生活跡が見つかっている場所と隣接していたことから、研究者らは「170万年前のオルドバイ峡谷には温泉が存在し、そのすぐそばに人類が定住していた」と推測しています。 Sistiaga氏は、「人類の遺跡のそばに温泉が存在した可能性があることは証明できますが、人類が温泉と関わりを持ったことを示す証拠はありません。おそらく、170万年前に姿を消した種の行動を知ることは非常に困難でしょう」と指摘。 その上で「もし古代の人類が熱水の中に落ちてゆで上がった獣を見つけたら、それを食べないとは思えません」と述べて、人類が温泉で食べ物を調理していた可能性は高いとの見方を示しました。 研究チームは今後、オルドバイ峡谷でさらなる調査を実施し、今回見つかったものと同様の脂質や温泉の存在を示す兆候を探す方針とのことです。 https://gigazine.net/news/20200916-human-ancestors-boil-hot-springs/ 【2600年前のワイン「工場」を発掘、レバノン最古、世界のワイン文化のさきがけ】 ■「ワイン文化」を地中海沿岸に広めたフェニキア人に関する貴重な証拠 中東のレバノンで、同国最古のワイン圧搾機(圧搾所)が発掘された。 古代フェニキア人が広範囲にわたってワインの交易を広く行っていた新たな証拠として、注目に値する発見だ。 ワインの発祥地はフェニキアではない。 ジョージアでは、約8000年前のワイン醸造の証拠が発見されている。 しかし、オリーブオイルやアルファベット、グラスなどとともに、ワインの醸造技術を古代の地中海沿岸地域に広めたのはフェニキア人だ。 ワイン文化は全世界に広まり、現在もフェニキア人の影響は生き続けていると言える。 9月15日付けで学術誌「Antiquity」に発表された論文によると、ワイン圧搾機が発掘された場所は、レバノンの沿岸都市シドンから南に約8キロ離れたテル・エル・ブラク遺跡だ。 少なくとも紀元前7世紀には使われていたと推測される 。当時、レバノンはフェニキア人の領土だったため、フェニキア最古のワイン圧搾機ということになる。 発掘現場からは大量の種子が見つかっており、近くのブドウ園から運び込まれたブドウを人の足で踏みつぶしていたことを示唆している。 ワイン圧搾機の保存状態は極めて良く、耐久性のあるしっくいが塗られており、約4500リットルの液体を入れることができた。 つぶしたブドウの果汁や、それに果皮や果肉を混合した「マスト」は大きな桶に集められ、アンフォラという特徴的な形の陶器に移された後、そのまま発酵、熟成させて、運搬された。 ワイン圧搾機は泥レンガでできた住居4棟とともに発掘された。テル・エル・ブラクは紀元前8〜6世紀に存在したフェニキア人コミュニティーの一部で、輸出用ワインの醸造が行われていたと、研究チームは推測している。 「フェニキア人にとって、ワインは重要な交易品でした」と、テル・エル・ブラク考古学プロジェクトのコーディネーターを務める、ベイルート・アメリカン大学(AUB)の考古学者ヘレネ・セイダー氏は話す。 氏によれば、シドン地方のワインは特に有名で、古代エジプトの文献でも言及されているという。 しかし、フェニキア人がワインを醸造していた証拠は、これまでレバノン国内ではほとんど見つかっていなかった。計画的な発掘調査が行われてこなかったせいかもしれない。 「レバノンの沿岸地域がくまなく調査されたことはありません。適切な発掘調査が行われた鉄器時代のフェニキアの遺跡はわずかです」 ただし、現在のイスラエル北岸では、似たようなワイン醸造所がいくつか発掘されている。当時、一帯はフェニキアの都市国家ティルスとシドンに属していた。 (以下略、続きはソースでご確認下さい) ナショナル ジオグラフィック日本版 9/17(木) 18:09 https://news.yahoo.co.jp/articles/772e64b0413f2660ac97ff716689b6f28cbf469a 【12万年前の人間の足跡発見 サウジの砂漠は緑豊かだった可能性 (論文)】 【AFP=時事】約12万年前、現在のサウジアラビア北部で、現生人類ホモ・サピエンスの小さな一団が浅い湖に立ち寄り、水を飲み、食料を調達した。 湖には今日見られるどの種よりも大きなラクダや水牛、ゾウも頻繁に訪れていた。 ホモ・サピエンスの一団は大型の哺乳動物を狩ったかもしれないが、湖は長旅の通過地点にすぎず、長くとどまることはなかった。 これは、サウジアラビアのネフド砂漠(Nefud Desert)で発見された古代人と動物の足跡を基に再構築された場面で、16日の米科学誌サイエンス・アドバンシズ(Science Advances)で発表された新たな論文に記載されている。 論文の筆頭著者で、ドイツのマックスプランク化学生態学研究所(Max Planck Institute for Chemical Ecology)に所属するマシュー・スチュワート(Mathew Stewart)氏はAFPに対し、足跡は2017年、博士課程のフィールドワーク中に、古代の湖で見つけたと説明した。 堆積物が浸食された結果の発見だった。 今日のアラビア半島(Arabian Peninsula)は、古代人や動物たちにとっては住みづらかったであろう、広大な不毛の砂漠という特徴を持つ。 しかし、過去10年間の研究で、いつでもそうだったわけではないことが示された。自然の気候変化により、アラビア半島は最終間氷期には、より緑豊かでより湿度の高い状態にあった。 「過去のある時点で、アラビア半島内陸を占める砂漠は、常に水をたたえる淡水湖や川のある広大な草原に変わった」と論文の共著者で、英ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校(Royal Holloway, University of London)のリチャード・クラークウィルソン(Richard Clark-Wilson)氏は説明した。【翻訳編集】 AFPBB News AFP=時事 9/17(木)13:34 https://news.yahoo.co.jp/articles/18c27ed16c8553a54015a96f164156edfdb5a402 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1600323693/1 01481 Video Diary 点と点が線でつながった、一連の怪光UFO事件+スペーズシャトル・ コロンビア号周辺を飛び回ったUFO群byはやし浩司Hiroshi Hayashi, JP https://youtu.be/cStV1eR2fIM 区切り:202099222 。。 >>708 スペース・シャトルの周辺に現れた光体は外壁から剥がれた氷片が光って見えた宇宙ホタルだろう (^。^)y-゜゜゜ 宇宙ホタルが見たければ見栄を張るのはやめましょう。 (ネタ審) | Welcome to K's Garden 〜光太郎の妄想日記〜 https://ameblo.jp/mystkys/entry-10511154629.html 「NASA超常ファイル シーズン2 #5 宇宙ホタル」(ドキュメンタリー / 2015年) https://video.unext.jp/episode/SID0045310/ED00265642 『ライトスタッフ』史実を元に作り上げた、フィリップ・カウフマンの脚色・演出術とは https://news.yahoo.co.jp/articles/743fbbdaef2654edf6887e61be09c6916067f1e4?page=7 宇宙情報センター / SPACE INFORMATION CENTER :マーキュリー7号 http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/mercury_7.html MUFON: Glowing Lights Over Utica, New York On Sept 17, 2020, UFO Sighting News.https://youtu.be/ZNaupfsi3WI ちなみに、こちら↑の光体は夕暮れ時にLEDをつけたスカイダイバーをUFOと誤認したものだろう ^ ^ 光るUFOと思ったら夜中にスカイダイビングしたLEDだって!? | 心の備忘録 https://ameblo.jp/yamatodamashii1192/entry-12292203669.html 謎の光…実はスカイダイビング 本田航空がLEDテストで - SANSPO.COM(サンスポ) https://www.sanspo.com/geino/news/20170711/sot17071120210012-n1.html 【「よみがえる邪馬台国」展、「豊前の国」に焦点 「九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」】 北部九州と近畿地方の、弥生時代から古墳時代前期の遺跡や遺物などを紹介する企画展が、佐賀県の吉野ヶ里歴史公園で開かれています。 この企画展「よみがえる邪馬台国」は、佐賀県教育委員会などが毎年開いていて、邪馬台国があったと考えられている九州と近畿の出土品を展示しています。 ことしは、現在の北九州市から大分県北部にあった「豊前の国」に焦点をあて、大分県宇佐市のほか、吉野ヶ里遺跡や兵庫県内の複数の遺跡から出土した土器や青銅器など、およそ400点が展示されています。 このうち、大分県宇佐市の赤塚古墳から出土した「三角縁三神三獣鏡」は、直径およそ22センチの大型の銅鏡で、6体の神獣が描かれ、中国から卑弥呼に贈られたという説もあります。 また、大分県宇佐市の切寄遺跡から出土した「中広銅矛」は、祭祀に使われた大型の矛です。 佐賀県内の遺跡から同じ形の鋳型が出土していることから、佐賀をはじめとする北部九州で生産され、その後、宇佐に伝わったことがうかがえるということです。 吉野ヶ里公園管理センターの小林昭彦歴史専門員は、「企画展を通じて、吉野ヶ里遺跡と豊前の国との関係性を見直してほしい。邪馬台国があった場所として考えられている九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」と話していました。 この企画展は、吉野ヶ里歴史公園の「弥生くらし館」で、11月8日まで開かれています。 09月23日 12時34分 https://www3.nhk.or.jp/lnews/saga/20200923/5080007088.html 【11.5万年前の人類の足跡を発見、アラビア半島最古】 ■古代の湖に引き寄せられた人類、ゾウやラクダの足跡も サウジアラビア北部の砂漠地帯で、いくつもの小さなくぼみが見つかった。 その数は全部で376個。 目立つものではなく、2017年にこの地域を調査していた科学者のチームもあやうく見過ごすところだった。 しかし詳しく調べていくと、このくぼみは古代の動物たちが残した足跡の化石と判明。 なかには現生人類ホモ・サピエンスの足跡も含まれているらしいことがわかった。 これが本当にホモ・サピエンスの足跡と確認されれば、アラビア半島では最古の例になる。 アラビア半島は、アフリカを出て世界へ拡散する人類が最初に通ったはずの場所だ。 9月18日付けで学術誌「Science Advances」に発表された論文によると、足跡は約11万5000年前のものであり、動物や人間が水と食べ物を求め、浅い湖の近くに集まった瞬間が記録されているという。 足跡は一目でわかるものではないが、その中で最大のものが、たまたま発掘チームの目にとまった。古代の湖岸につけられたその足跡は、どの現生種よりも大きいゾウの足跡のように見えた。 「1つの足跡が見えた途端、残りのすべてが見えてきました」とドイツ、マックス・プランク化学生態学研究所の動物考古学者で、この論文の著者であるマシュー・スチュワート氏は振り返る。 よく見ると、ラクダの細長い足跡や、大きなスイギュウや古代のウマと見られるかすかな足跡もあった。だがその日の作業を終えようと片付けに取りかかったとき、最大の発見があった。現生人類が残したと思われる、7個の足跡化石である。 現生人類がアフリカ以外の地に残した証拠としては、この湖岸の泥に残された足跡は最古のものではない。しかし、かつてこの地域が緑豊かだった頃の風景や、当時の人間と共存していた動物たちの姿を垣間見せてくれる。 「まるで、ある一瞬を切り取ったかのようです」と研究チームを率いたマックス・プランク研究所の人類進化研究者マイケル・ペトラグリア氏は言う。 「足跡を見ていると、想像がどんどん広がっていきます。この人たちはどんな姿をしていたのだろう? 何をしていたのだろう? 湖が干上がった後、彼らはどうなったのだろう? 知りたいことが次々に出てきます」 (以下略、続きはソースでご確認下さい) ナショナル ジオグラフィック日本版 9/24(木)7:13 https://news.yahoo.co.jp/articles/cb6a98b538a48d4ce45a18bc77939cb0b03bd298 【 2千年前のシベリアに「暴力の時代」 犠牲者の遺骨が続々出土 ナショナル ジオグラフィック日本版 】 ■「これほど暴力にまみれた民族の遺骨を見たことはありません」と研究者 ユーラシア大陸の草原地帯(ステップ)にかつて存在した遊牧国家。その崩壊が、数百年に及ぶ激しい闘争の時代をもたらしたのではないか。 シベリア南部でこの時代の遊牧民の墓を掘り起こした考古学者たちは、そう考えた。 墳墓から、暴力の犠牲者と見られる遺骨が多数発見されたのだ。 ロシアとスイスの考古学チームは4年前から、ロシアのトゥバ共和国で埋葬のための墳墓(クルガンと呼ばれる)を発掘していた。 「トゥンヌグ1」と名付けられたその墳墓は、遊牧民族スキタイが築いた初期の大規模なものだった。 スキタイは、紀元前1100年ごろからヨーロッパとアジアの間にある広大なステップの大部分を支配していた。 墳墓の南端を発掘していたチームは、最初に墓が作られた時期よりもずっと後の時代、西暦100〜400年の墓所を発見した。 発掘を始めたころは、特に大きな発見を期待していたわけではない。当時の遊牧民の食生活や埋葬様式、寿命についてもっと詳しく知ることができればと思っていた。 ところが、スイス、ベルン大学の考古学者マルコ・ミレラ氏らがトゥンヌグ1から掘り起こした数十体分の遺骨を調べていくと、驚きの事実が浮かび上がってきた。 「これほど暴力にまみれた民族の遺骨を見たことはありません」と、ミレラ氏は言う。 「最初に見つけたときは、それほど驚きませんでした。ところが、次から次へと暴力を受けていた跡が出てきました。 成人男性だけではなく、子どもまで、多くの人々が暴力にさらされていました」 9月16日付の『Journal of Physical Anthropology』に掲載された論文で、ミレラ氏らは100カ所以上に残されていた傷跡から、古代ステップの暴力的な社会を描き出した。 小さな墓所に埋葬されていた少なくとも87人の遺骨のうち、20人以上に切り傷、矢じりや剣先で開けられた穴、殴られた跡などの傷が残っていた。 犠牲者は子どもから老女まで幅があるが、ほとんどが10代前半から成人だった。 ■遊牧国家の興隆と崩壊 この調査結果は、シベリア南部で起こったことが遠く離れた古代中国にも影響を与えていたことを示す証拠にもなりそうだ。 墓に埋葬されていた人々は、激動の時代を生きていた。 その数世紀前、この地方は匈奴(きょうど)と呼ばれる遊牧国家に支配されていた。匈奴は南東へ向かって略奪を繰り返しながら勢力を伸ばしていた。 万里の長城は、中国の皇帝がこの匈奴の脅威に対抗するために建設したものだ。 当時の中国の文筆家たちは、隣人である遊牧国家を驚嘆と侮蔑の眼差しで眺めていた。 漢の歴史家、司馬遷は、紀元前1世紀に、匈奴に関して次のように書き残している。 「平時には家畜の群れを牧し、狩猟によって生計を成すのが習わしだが、危機においては武器を手に取り、略奪と襲撃に打って出る。生まれながらに備わった彼らの気質のようだ」 西暦100年ごろに匈奴が崩壊すると、ステップ一帯は混乱に陥った。戦士たちは、力をつけ始めていた漢を襲うのではなく、仲間同士で争いを始めた。 ベルン大学の考古学者で発掘責任者のジノ・カスパリ氏は、 「トゥンヌグ1の遺骨から察すると、匈奴の滅亡によってこの地域の政治的安定が崩れ始めたのだろうと考えられます」と話す。 ■骨の傷が伝える暴力の痕跡 放射性炭素年代測定により、トゥンヌグ1の遺骨の年代は西暦100年ごろのものから数百年後のものまで、ばらつきがあることがわかった。 つまり、一度の戦闘や大量虐殺で殺されたのではなく、小規模の奇襲や争いが長期間にわたって続いていたことを示している。 ※続きはソースで https://news.yahoo.co.jp/articles/9f0a35560618baa07f93604a3d744f9bb386bc3c 【 古墳時代のネコの肉球跡か 土器ふんじゃった?破片に足跡「国内でのネコの生息時期を知る上で貴重な史料」】 ネコと日本人が歩んできた歴史を紹介する福井県の美浜町歴史文化館の企画展「ネコ踏んじゃった!?」がこのほど、同館で始まった。 町内で見つかったネコとみられる動物の足跡付きの須恵器片を初めて公開している。 足跡付きの土器片では最古級の古墳時代後期(6〜7世紀)のもので、同館学芸員は「国内でのネコの生息時期を知る上で貴重な史料」と話している。 11月29日まで。 須恵器片は2018年10〜12月、興道寺廃寺跡周辺の発掘調査で見つかった。 円墳の周溝から土器片約10点が出土し、そのうちの一つの須恵器杯に大きさ約2センチのくぼみを確認。 形状がネコの肉球に似ているほか、爪の跡がなく、歩く時に爪を隠す特徴があるネコの足跡と推測。屋外で乾燥させていた時に踏まれたとみられる。 同館の松葉竜司副館長によると、ネコとされる生き物の足跡がついた土器は国内に3点見つかっている。 そのうち、同様の足跡が付いた古墳時代の須恵器は、07年に兵庫県姫路市の古墳で見つかったものしかないという。 松葉副館長は「近年の発掘調査で国内のネコの生息時期は弥生時代中期(紀元前2世紀〜紀元1世紀)にさかのぼるといわれているが、十数年ほど前までは奈良時代(8世紀)以降とするのが定説だった。 8世紀以前のネコに関する国内の史料は少なく貴重」と話す。 企画展では、美浜町と姫路市で見つかった足跡付きの須恵器のほか、日本のネコの伝来を探るパネルなど約40点を展示。 放し飼いのネコの盗難や売買を禁ずることを示す若狭の地誌の写真やイヌをかたどった古墳時代の土製品なども並べている。月曜休館。 9/29(火)12:23配信 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200929-00010003-fukui-l18 https://amd.c.yimg.jp/amd/20200929-00010003-fukui-000-1-view.jpg 【 陝西省の寨山遺跡で約4千年前の大型墓地を発見 】 【新華社西安9月29日】中国の陝西省考古研究院は24日、同省楡林(ゆりん)市府谷県にある寨山(さいざん) 遺跡で、竜山時代(新石器時代後期)から夏王朝初期の石峁(シーマオ)文化に属する大型墓地を発見したと明らかにした。 発掘済みの墓葬21基には明らかな等級の違いがみられ、約4千年前に出現した中国の初期国家の起源や発展類型、過程を研究する上で重要な墓葬資料になる。 寨山遺跡は同県田家寨鎮王沙峁(シャーマオ)村にある石城遺跡で、面積は約100万平方メートル。 陝西省、山西省、内モンゴル自治区の境界線上に位置し、石峁遺跡の北東約60キロの地点にある。 2015年に発見され、同研究院と楡林市文物(文化財)保護研究所が直ちに全面的な発掘調査を実施した。. 竜山時代の重要な石城集落1カ所が含まれ、城内の面積は約60万平方メートルあることが分かった。 寨山発掘プロジェクトの責任者、邵晶(しょう・しょう)氏によると、これまでに発掘を終えた石峁文化期の墓21基は、いずれも長方形の竪穴式土坑墓で、多くは東西方向に向け築かれ、玉器や陶器、石器などが多数出土した。 うち比較的規模が大きい3基は副葬品も多く、複雑な構造をしていた。 女性の殉葬、玉器の副葬、半月型の壁龕(へきがん)の発見、ほぼ同様の組み合わせのふた付き土器の出土などは、全て石峁文化の特徴を示しているという。 邵氏は、今回の発見により石峁文化の大型墓地の全容が初めて明らかになったと語った。 河套地域(中国北西部で黄河上・中流が「几」字形に湾曲する地域)で初めて見つかった等級区分が明確な竜山時代の墓地だとし、これまでに発見された朱開溝、新華、神圪墶梁(しんぎつたつりょう)、石峁など各遺跡とともに石峁文化の墓葬形式の基本的枠組みと典型的な特徴を構成していると説明。 石峁文化の内容を深く理解し、その政治体制を研究する上で、貴重な考古学資料になると語った。(記者/楊一苗) 新華社通信 2020年9月29日 12時42分 https://news.livedoor.com/article/detail/18973111/ なぜ地質レーダーを持ち込む考古学が文系にカテゴライズされているんだろうか? 『最後の博物学』ともされるだけあって 人間の生活や文化、それらに関連する事象や環境など研究対象が多岐にわたるためだが もともとは歴史学や人類学から派生したような学問だから、じゃね? 知らんけど 01499 Video Diary マルドックとイギギ+今が選択の時、神々の国に住む私たち日本人は何をなすべきか? by Hiroshi Hayashi, Japan https://youtu.be/tLOWf4xOMh0 コノサキに進むには一人一人の判断が重要にナリます。。 「仁徳天皇陵」来秋再発掘へ 保全目的、謎解明に期待 https://news.yahoo.co.jp/articles/96a13efbeb279a0b4e2a6e518b4b54845752655a 宮内庁が仁徳天皇陵として管理する国内最大の前方後円墳・大山古墳(堺市、5世紀中ごろ)について、 古墳の保全を目的に再発掘を検討していることが10日、同庁への取材で分かった。 地元自治体の堺市に協力を呼び掛け、2021年秋の実施を予定している。発掘は19年に世界文化遺産に登録されて以来初めて。 古墳の構造は不明な点も多く、被葬者を巡っては研究者の間で大きな論争が続いており、謎の多い巨大古墳の実態解明にもつながることが期待される。 同庁によると、今回の再発掘では内側の堤で調査範囲を広げ、石敷きの広がりや、埴輪列の有無などを確認する方針。 国内最古級すずり?「東九州にも高度な文化か」 弥生中期前半の3点出土 福岡県行橋市の下稗田遺跡で出土していた板状の石3点が弥生時代中期前半ごろのすずりとみられることが9日、分かった。 各地の出土品からすずりの有無の再検討を進める国学院大の柳田康雄客員教授(考古学)の調査で、これまで同県糸島市や朝倉市などで弥生時代中期中ごろのすずりを確認しているが、今回はさらに古く国内最古級という。 同遺跡は1979〜83年に発掘調査された弥生前期−中期の大規模集落跡。土器や鉄器などのほか約50点の砥石(といし)が出土品として調査報告書に記載されている。 柳田教授は9月下旬に行橋市を訪れ現物を確認し、3点はすずりの可能性が高いと判断した。 板石は上端4〜8センチ、下端6.3〜7センチ、長さ7.7〜9.8センチ、厚さ1〜1.4センチの台形など。 表面に炭をすってできた溝のようなくぼみがあり、周縁に炭粒の痕跡があったことから、すずりとみられるという。 http://amd.c.yimg.jp/amd/20201010-00010001-nishinpc-000-1-view.jpg 柳田教授は、同時期のすずりは福岡、佐賀県の玄界灘沿岸に多数あるとみており「紀元前2世紀(弥生時代中期前半ごろ)に、九州の東海岸にも高度な文化が伝わっていた証拠」と説明した。 西谷正・九州大名誉教授(考古学)は「年代については慎重な検証が必要だが、瀬戸内や近畿につながる周防灘沿岸でこの時代にすずり文化が定着していたと裏付けられれば意義は大きい」と話している。(石黒雅史) 10/10(土)9:48配信 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201010-00010001-nishinpc-l40 宗像・沖ノ島多角的に 福岡の5館、初の連携 ガラス製小玉や須恵器展示 https://news.yahoo.co.jp/articles/20bbcfa773856fca4e35900d75cdf30eb87ae737 世界遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の調査研究を進めている福岡県の九州歴史資料館(小郡市)や宗像大社神宝館(宗像市)などの博物館・資料館が、 同時に最新研究成果を展示する5館連携展覧会「ムナカタ−祈り・暮らし・交わり」を開催している。 宗像・沖ノ島は平成29年7月に世界遺産に登録されたが、5館が連携して展覧会を開催するのは初めて。 5館のうち、宗像大社神宝館は特別展「神々への美宝」を開催。沖ノ島から出土した国宝のガラス製小玉やカットグラス破片など13件を展示している。 同館は、化学組成をもとにガラス類の起源を追究。 地中海、中央アジア、東南アジア、中国に起源を持つガラスが混在していることを明らかにしている。11月23日まで開催。 九州歴史資料館では企画展「福岡の古代豪族」が開かれている。 日本書紀などの文献に登場する福岡県北部の宗像君(むなかたのきみ)、秦氏(はたうじ)、南部の筑紫君(つくしのきみ)、水沼君(みぬまのきみ)、 的氏(いくはうじ)の5豪族にスポットを当て、装身具、馬具、装飾付き須恵器など62件の出土品を展示している。 宗像地域では朝鮮半島系の土器が多いなど海外との交流が活発に行われていたと分析。一方で、福岡県内には83基もの装飾古墳があるのが特徴の一つと指摘している。 筑後川中流域に装飾古墳が多いことから、この地域を拠点とした的氏と装飾古墳には深い関係があったとの見方を示し、写真パネルで紹介している。11月29日まで。 他の3館の展覧会は以下の通り。 九州国立博物館(太宰府市)文化交流展「宗像海人の刀」。 宗像君が所有していた大刀や万能ナイフ「刀子(とうす)」を細かく分析。独自の鉄器加工技術の存在を通じて海人の実像を探る。12月23日まで。 海の道むなかた館(宗像市)特別展「古代ムナカタ海人の世界」。 土笛の分布など近年の発掘調査から、日本海文化圏の一員だった海人のルーツに迫る。11月29日まで。 福津市歴史資料館企画展「新原・奴山古墳群調査研究の現在」。 まだ未解明の部分が多い宗像君の古墳群の発掘状況を示し、今後の課題を明らかにしている。11月30日まで。 ブッダの謎に考古学で挑む、最古の仏教寺院発掘で解明に光 ■謎に包まれたその生涯や生没年、世界遺産の生誕地ルンビニを調査 その昔、現在のネパールにあったカピラバストゥ(カピラ城)に住む裕福な王子が、別の生き方を模索するため、家族と富を捨てて出家した。 ゴータマ・シッダールタ(釈迦)という名の彼は、修行の末に「ブッダ(仏陀)」つまり「悟った人」となり、その教えは現在5億人の信者を擁する宗教の基礎となっている。 宗教学者のカレン・アームストロング氏は、2001年に出版したブッダの伝記の中で、「仏教徒の中には『ゴータマ・シッダールタの伝記を書くなんて、とても非仏教的なことだ』と言う人もいるだろう」と書いている。 というのも生前のブッダは、人々に教えを広めようとはしたが、自身に全てをささげる信徒は望まなかったからだ。 おかげで歴史家たちは苦労することになった。 仏教に関する宗教的な文献は豊富にあっても、彼の個人的な生涯については、生没年を含め、はっきりしている事実はほとんどない。 そこで学者たちは、ブッダの生涯の全容を解明するために考古学に目を向け、信仰の聖地を調査している。 シッダールタが生まれたとされるネパールのルンビニは、ユネスコの世界遺産に登録されており、この20年間の発掘調査により、世界最古の仏教寺院などの驚くべき発見があった。 これらの発見は、初期仏教の発展と、紀元前3世紀インドのアショーカ王が仏教の普及に果たした役割について、多くの事実を明らかにした。 また、シッダールタがいつ生まれ、いつ活動し、いつ死んだのかにまつわる重要な情報も含まれている。 ■釈迦から仏陀へ 現在では仏教徒は世界中にいるが、なかでも中国、タイ、日本を中心とする東アジアに多い。 仏教が世界各地に広まる過程で、信仰の解釈や中心的な教典を異にする様々な宗派に分かれた。 仏典によると、シッダールタは、インド北東部を支配していたシャーキャ(釈迦)族の王、シュッドーダナ(浄飯王=じょうぼんおう)と、その妃であるマーヤー(摩耶)夫人の間に生まれた。 世の悪しきものから息子を守ろうとした父は、シッダールタを痛みや苦しみに触れさせまいと、カピラバストゥの王宮から出さずに大切に育てた。 29歳になり、結婚して息子もいたシッダールタだったが、王宮での贅沢(ぜいたく)な暮らしにうんざりしていた。 冒険心から外の世界へ出てみたところ、生まれて初めて病人と老人と死者を見かけた。 過酷な人生の現実に衝撃を受けた彼は、快適な暮らしも家族も捨て、人間の苦しみを終わらせるための知恵を求めて旅立った。 やがて今日のインド北東部、ブッダガヤの菩提樹(インドボダイジュ)の下で瞑想をしていたとき、ついに答えを見つけた。悟りを開き、ブッダとなったのだ。 学者たちは、彼がその後、人々に教えを説き、サンガ(僧伽=そうぎゃ)と呼ばれるようになる出家者集団をもつようになったと考えている。 ブッダは、悟りを開くために世俗に背を向け、執着を捨てることを説いた。 仏教では一般に、大半の人は輪廻(りんね)する、つまり死と再生を無限に繰り返しているとされ、この苦しみから解放されるためには悟りを開いて輪廻から解脱しなければならないと教えられている。 初期の仏典には、ブッダの生涯について共通の物語が記されているが、その時期についてはばらつきがあり、紀元前2500年頃とするものもあれば、紀元前3世紀末とするものもある。 ブッダの死後、その教えは徐々に発展して新しい独自の宗教となり、熱心な信者によってアジア各地に広められた。 だが当時の北インドでは、知的で宗教的な雰囲気のなかで多くの小さな宗教が生まれており、初期の仏教もその1つに過ぎなかったと考えられている。 (以下略、続きはソースでご確認下さい。) ナショナル ジオグラフィック日本版 10/12(月)7:13 https://news.yahoo.co.jp/articles/6f43edc68efb881c33c45c542f8e601d5de85a2b 「エミシ」の儀礼?奈良時代のカマドから大刀見つかる 八戸・法霊林遺跡、全国初 「エミシの精神文化を考える上で大事な発見」 竪穴建物跡で、カマドの排煙部から見つかった大刀=八戸市田面木の法霊林遺跡(県埋蔵文化財調査センター提供) https://amd.c.yimg.jp/amd/20201013-00000006-webtoo-000-1-view.jpg 青森県八戸市田面木の法霊林(ほうりょうばやし)遺跡で、奈良時代の竪穴建物跡から、8世紀後半以降に作られたとみられる大刀(たち)が、カマドの排煙部に入った状態で見つかった。 儀礼などのために入れたとみられる。むつ市田名部の酪農(らくのう)(3)遺跡からは、縄文時代後期前葉(約4千年前)のものとみられる環状列石が見つかった。 下北地域で初めての発掘例という。13日、本年度調査をした県埋蔵文化財調査センターが明らかにした。 カマドに土器が入れられていたことはあるが、法霊林遺跡のように排煙部に大刀が入れられていた例は「全国的にも認められない」(同センター)という。 住居から立ち去る際の儀礼などのためだったとみられ、当時この地域で活動しエミシと呼ばれた人々の社会を知る上で貴重な発見とされる。 大刀は鉄製で全長65センチ、刃の部分の長さ48センチで、木製のさやに納められ、良好な保存状態で見つかった。 柄頭の形から「方頭大刀(ほうとうたち)」と呼ばれる。 大刀は当時貴重品で、エミシの有力者を埋葬したとされる「末期古墳」からの出土例が多く、県内の集落跡からは、蕨手刀(わらびてとう)と呼ばれるものは見つかっているが、方頭大刀はこれまで出土した例がないという。 本年度の調査で、同遺跡からは奈良時代の竪穴建物跡9棟が見つかり、大刀はこのうち大型の建物跡で出土した。 同センターはこの建物跡には地域の有力者が住んでいたとみている。 刀がどこで作られたかは分かっておらず、同センターは北関東などを念頭に分析を進める。 県史通史編で「古代エミシの集落と末期古墳」の項を執筆した八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館の宇部則保発掘専門員は、貴重な鉄製の大刀を建物に残して立ち去ったとみられる点に注目し「この地域のエミシの精神文化、社会の構造を考える上で大事な発見。末期古墳との関係を考えていく必要がある」と語った。 10/13(火)15:58配信 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201013-00000006-webtoo-l02 ■聖徳太子の一族、焼き打ちされた痕跡 法隆寺の資料倉庫で80年ぶり発見…643年蘇我入鹿が焼き払い、山背大兄王ら一族は自害 奈良県斑鳩町で、聖徳太子が造営した斑鳩宮いかるがのみやの壁土の破片が約80年ぶりに見つかった。 戦前に発掘されたが、その後所在不明になっていた。 破片には、643年に焼き打ちされた際についたとみられる痕跡があり、研究者は「古代史の大事件を裏付ける貴重な資料」としている。 斑鳩宮は601年から聖徳太子が造営し、暮らした宮殿。聖徳太子の死後の643年、子の山背大兄王やましろのおおえのおうと皇位継承を巡って対立した蘇我入鹿が焼き払い、山背大兄王ら一族は自害したとされる。 町教委によると、法隆寺の「昭和の大改修」に伴い、1939年に東院伽藍がらんにある伝法堂で発掘調査が行われ、斑鳩宮とみられる柱跡が出土。 国が48年にまとめた発掘報告書には、「炭や焼けた壁土片多量を発見」と書かれていたが、戦中の混乱もあって壁土の所在がわからなくなっていた。 来年が聖徳太子没後1400年目にあたることから、町教委が報告書に書かれた壁土の所在を捜したところ、今年7月、法隆寺の資料倉庫で「伝法堂出土壁土」と書かれた木箱(縦67センチ、横30センチ、深さ15センチ)が見つかった。 中には壁土約30片が入っており、最も大きなものは縦30センチ、横16センチ、厚さ10センチ。 表面が焼かれて赤褐色などに変色していることから、町教委は焼失した斑鳩宮の壁土の可能性が高いと判断した。 壁土は、17日から斑鳩文化財センターで開く特別展「聖徳太子の足跡―斑鳩宮と斑鳩寺」で初公開される。 清水昭博・帝塚山大教授(歴史考古学)の話「日本の宮殿建築の部材として最古のものと考えられ、実物が確認された意義は大きい。今後の調査で壁や建物の構造などの解明が期待される」 2020年10月14日 11時48分 読売新聞オンライン https://news.livedoor.com/article/detail/19053288/ 【地方別に見た縄文人の遺伝的影響は?】 高めなのは九州と東北、低めな近畿と四国は中国・北京の漢民族に遺伝的に近い 縄文人の遺伝的寄与の比較。色が濃いほど沖縄県に近く、縄文人の寄与が高めであることを示す=大橋さん提供 https://amd.c.yimg.jp/amd/20201014-00000046-asahi-000-1-view.jpg クラスター分析 https://amd.c.yimg.jp/amd/20201014-00010010-ampreview-001-1-view.jpg 日本人11069名と中国・北京の漢民族の主成分分析の結果 https://amd.c.yimg.jp/amd/20201014-00010010-ampreview-000-1-view.jpg 47都道府県を対象にした主成分分析の結果 https://amd.c.yimg.jp/amd/20201014-00010010-ampreview-002-1-view.jpg 日本人約1万1千人の遺伝情報をもとに、47都道府県の人々が縄文人と渡来人の遺伝的影響をどの程度受けているかを、東京大学理学系研究科の大橋順准教授(人類遺伝学)らが調べたところ、 縄文人の影響が高めに残るのは沖縄県と九州や東北の各県で、低めなのは近畿と四国だった。 現代の日本人は、1万6千年前から日本列島にいた縄文人と、約3千年前以降に大陸から移住した渡来人とによって、形成されたと考えられる。だが、今に至るまでの過程で、人々がどのように混じり合ったかははっきりしない。 大橋さんらは民間のゲノム解析サービスで集まった顧客データの提供を受け、DN配列の違いをもとに各都道府県にいる人たちの遺伝構造を比較した。データ提供者に縄文人の寄与が高いとされるアイヌの人は含まれていなかった。 10/14(水) 15:00配信 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201014-00000046-asahi-soci ●47都道府県に居住する日本人約11000名の全ゲノムSNP遺伝子型データを解析し、現代日本人の遺伝的構造は各都道府県における縄文人と渡来人の混血の程度と地理的位置関係によって特徴づけられることを示した。 ●都道府県レベルで日本人の遺伝的集団構造を初めて明らかにした。 ●同研究により、日本人の形成過程の理解が進むだけでなく、疾患遺伝子関連研究において、適切な検体収集地域の選定が可能になると期待される。 ※省略 47都道府県を4つのクラスターに分けると、沖縄地方、東北・北海道地方、近畿・四国地方、九州・中国地方に大別され、関東地方や中部地方の各県は1つのクラスター内に収まらなかったという。 このことは、関東地方もしくは中部地方の都県を遺伝的に近縁な集団とみなすことはできず、そのような単位で日本人集団の遺伝的構造を論じることや、疾患遺伝子関連研究の対象検体を収集することは適切ではないことを示しているとのことだ。 また、47都道府県を対象に主成分分析を行ったところ、第1主成分は沖縄県と各都道府県の遺伝的距離を反映。 沖縄県に遺伝的に最も近いのは鹿児島県となり、クラスターを形成した地方に着目すると、九州地方と東北地方が沖縄県に遺伝的に近く、近畿地方と四国地方が遺伝的に遠いことが分かったとしている。 さらに、f2統計量の解析から、近畿地方や四国地方は中国・北京の漢民族に遺伝的に近いこともわかり、第2主成分は都道府県の緯度および経度と有意に相関していたという。 同研究の結果は、各都道府県の縄文人と大陸から来た渡来人との混血の程度の違いと地理的位置関係が本土人の遺伝的地域差を形成した主な要因であることを示唆しているとのこと。 同研究グループは、大部分の渡来人は朝鮮半島経由で日本列島に到達したと考えられるが、朝鮮半島から地理的に近い九州北部ではなく、 近畿地方や四国地方の人々に渡来人の遺伝的構成成分がより多く残っていることは、日本列島における縄文人と渡来人の混血過程を考えるうえで興味深いとし、 本土人のゲノム成分の80%程度は渡来人由来であると推定されているが、近畿地方や四国地方には、さらに多くの割合の渡来人が流入したのかもしれないという。 また、地理的位置も遺伝的構造に影響していることや、沖縄県に遺伝的に近い九州地方と東北地方が互いには近縁でないことから、渡来人との混血時に縄文人は遺伝的に分化していたと考えられるとのことだ。 同研究では、都道府県レベルで本土日本人の遺伝的集団構造を初めて明らかにした。 47都道府県の遺伝的近縁関係がわかったことで、日本列島全域での縄文人と渡来人の混血過程の理解が進むと期待されるという。 さらに、今後、日本人集団を対象にした疾患遺伝子関連研究において、集団階層化によるバイアスを極力避けた、適切な検体収集地域の選定が可能になると期待されるとのことだ。 10/14(水) 13:55配信 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201014-00010010-ampreview-bus_all ■石川で発見の「最古のおにぎり」、食用?厄よけ?今も謎 日本の国民食の一つに数えられる、おにぎり。ご飯を握ってのりを巻けば出来上がる手軽さと、多彩な具を包み込むことで生まれるバリエーションの豊かさ。 コンビニの棚の前で、「今日の二つはどれにしよう」と迷うのは、私(26)だけではないはずだ。 天高く馬肥ゆる秋。 おにぎり(シャケと昆布)を両手に、ふと思った。 一体いつから日本人はおにぎりと付き合ってきたんだろう、と。 実は、石川県内にその有力な手がかりが残されている。 見つかったのは、昭和の終わりが近づく1987年11月、石川県旧鹿西町(現中能登町)金丸にある弥生時代中期の「杉谷チャノバタケ遺跡」だった。 「日本最古のおにぎり」と呼ばれたそれは今、遺跡から約50キロ離れた金沢市郊外の石川県埋蔵文化財センターにある。 同センターの普及啓発担当の立原秀明さん(51)に見せてもらった。 半透明の容器の中、幾重にも重ねられた薄紙から出てきた。 ほぼ二等辺三角形で、底辺約5センチ、他の2辺約8センチ、厚み約3・5センチ。重さ約23グラムで、見慣れたおにぎりと比べ、随分小さい。 だが気になるのは、大きさよりも、その黒さ。 立原さんによると、蒸した後に焼かれたと考えられているという。 焼きおにぎりにしては、やり過ぎでは? 立原さんは「食用の可能性も否定できませんが、厄よけ用という説が有力です」。竪穴住居跡の内側の壁際で見つかったという。焼かれて米粒が炭化していたから約2千年後まで残る「奇跡」が起きたわけだ。 遺跡に人が住んでいた頃、すでに稲作は始まっていたが、おにぎりを食べていたかどうかは「分かりません」と立原さん。 発見時には「最古のおにぎり」と報じられたものの、正式には「チマキ状炭化米塊(たんかまいかい)」という。 作り方や用途、そもそも私たちが現在思い浮かべる「おにぎり」を当てはめることの是非も含め、議論が続いている。 ちなみに、おにぎりが普及したと確実に言えるのは、戦国時代以降だという。 一方、2千年後の中能登町の人々とおにぎりの付き合いは深い。 「おにぎりのまち」をPRする町は、条例で11月18日を「おにぎりの日」と定めた。最古のおにぎりのレプリカを町内3カ所に置いている。 町内にある県立鹿西高校は93年以来、文化祭で「おにぎりコンクール」を開催している。 今年は、生徒有志が地元食材を使った12のレシピを考案。保護者や管理栄養士らが見た目や独創性などを審査し、五つのレシピは、道の駅「織姫の里なかのと」で商品化されることになった。 このうち、すでに販売された「大葉香る古代米おにぎり」や「老若男女飯」(いずれも1個税込み150円、数量限定)は好評だったという。同校の岡山和美教諭(53)は「レシピがレシピで終わらずにおにぎりになることで地域の皆さんに喜ばれている」。 駅長の田中雅晴さん(81)も「レシピは、まちの活性化につながっている」と話す。 おにぎりは人を笑顔にする。無性に、焼きおにぎりが食べたくなった。焦げ目を多くしてみようか。(三井新) 朝日新聞デジタル 10/15(木) 19:08 https://news.yahoo.co.jp/articles/6f4fd5f3969171044c2eab94fee4f78d375a748e ■「ナスカの地上絵」新たに発見 丘にネコ科の動物 南米ペルーのミステリー、ナスカの巨大な地上絵に新たなものが発見されました。 丘の斜面に人工的に作られた線が見て取れます。画面の右側の上部に正面を向いた顔、横向きの身体やしっぽが丘の麓に伸びたネコ科の動物が描かれているようです。 ペルーの文化省は16日、世界遺産の「ナスカの地上絵」の保全作業をしている考古学者らが、幅37メートルの新たな地上絵を発見したと発表しました。 これまでに知られている地上絵より古い時期のもので、急な斜面に描かれていたため自然の浸食でほぼ見えない状態だったということです。 文化省の担当者は、ドローンなどの技術の発展により低い高度からの撮影が可能になったことで、今後まだ新たな地上絵が見つかるだろうと話しています。 (動画はソースでご確認下さい) tv-asahi [2020/10/17 18:50] https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000195872.html 1万年前の子連れの旅路、足跡化石から判明、驚きの詳しさ ■1.5km超を数時間で往復、復路は1人、マンモスとオオナマケモノの足跡も 1万年以上も前のこと。 1人の女性あるいは若い男性が、幼子を腰に抱え、せきたてられるように北へ向かっていた。 現在の米ニューメキシコ州ホワイトサンズ国立公園でのことだ。 泥の中を滑りながら裸足で歩く彼らの顔には、雨が打ちつけていたかもしれない。 途中、子どもをいっとき地面に下ろしながら、2人の旅は続いた。 ついたばかりの彼らの足跡の上を、マンモスやオオナマケモノが横切って行った。 何時間かして、旅人は南に向かって同じ道を戻って来た。 今度は、子どもを連れていなかった。 時は過ぎ、現代の科学者たちが、1.5キロメートル以上におよぶこの往復の旅を物語る足跡化石を発見し、調査した。 この時代のもので、これほど長く続く人間の足跡が見つかったのは初めてだ。 論文は10月9日付けで学術誌「Quaternary Science Reviews」誌に掲載された。 「こうしたものは今までに見たことがありません」と米チャタム大学の進化生物学者ケビン・ハタラ氏は話す。 なお氏は今回の調査には関わっていない。 発見されたのは、小さな子どものものを含む400個以上の足跡だ。 足跡の形状、構造、広がり方を分析することで、1人の古代人がこの地を越えて行った詳細な様子が、つるつるとした泥の上をつま先が滑ったことに至るまで明らかになった。 さらには、マンモスとオオナマケモノが人間が通った後に横切っていた痕跡も発見された。 マンモスは近くにいる人間の存在を気に留めなかったようだが、オオナマケモノは違ったようだ。 足跡からは、オオナマケモノが後脚で二足立ちになったことが示唆されており、現代のクマのように人間のにおいを確認していた可能性がある。 「当時の生態系の中に生きた人々の様子を想像することができます」と、論文の著者である英ボーンマス大学の古生物学者サリー・レイノルズ氏は話す。 オオナマケモノが人間の存在に気付いたらしいことについては、「骨の化石からはわからないことですよね」と指摘する。 (以下略、画像と続きはソースでご確認下さい。) ナショナル ジオグラフィック日本版 10/19(月)17:15 https://news.yahoo.co.jp/articles/ea6aeef84a336ff81a29f32426b84e4dc59e1d0b ■鏡から探る邪馬台国の謎…吉野ヶ里歴史公園フォーラムで3氏講演、討論 「年代論の解決が邪馬台国論争の決定的な課題」 「よみがえる邪馬台国」をテーマに開催されたフォーラム https://www.sankei.com/images/news/201020/rgn2010200006-p1.jpg 吉野ヶ里歴史公園(佐賀県吉野ヶ里町)で「よみがえる邪馬台国」をテーマにした特別記念フォーラムがあり、佐賀女子短期大学名誉教授の高島忠平氏、大分県立歴史博物館主任研究員の越智淳平氏、兵庫県立考古博物館学芸員の種定淳介氏が講演。邪馬台国の女王卑弥呼が魏から贈られたという三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)配布の意味などをめぐって論議を交わした。(九州総局 永尾和夫) ◆海指向した人々 越智氏は「古墳のはじまり〜宇佐地域からみた古墳と首長居館」と題して講演。北部九州と瀬戸内地域に挟まれた大分県宇佐地域、福岡県豊前地域の古墳について説明した。 この中で赤塚古墳(大分県宇佐市)から出土した三角縁神獣鏡5枚は、石塚山古墳(福岡県苅田町)のほか、京都や奈良など畿内の古墳から出土した鏡と同じ鋳型で作製されていることを指摘。「当時のヤマト政権と九州の関係を知る上で重要」と述べた。また、小部遺跡(宇佐市)のように、海を指向した人々が古墳時代の始まりとともに出現。こうした墳墓や集落の動態を明らかにすることが、邪馬台国時代の解明につながると語った。 ◆漢鏡7期の変遷 また、種定氏は「古鏡残照〜漢鏡の図像と銘文を読む」と題して、古代鏡の研究成果を披露した。漢鏡は「文様や銘文が多様で時間の変化に敏感」とされ、前漢から後漢まで、図像と銘文が7期にわたり変遷したと述べた。 吉野ヶ里遺跡から出土した異体字銘帯鏡は、この中の3期で紀元前1世紀前半の製作と指摘した。銘文は「久しく相見(まみ)えず、長く相忘る毋(なか)らん」と解読。この銘文はなぜか、鏡が製作された時代より百年古い表現とした。内容は主君を慕う臣下の心情を歌ったものとも、男女の愛情表現ともとれると語った。鏡のデザインはその後、儒教や神仙思想の影響を受けて変容、世界観を細かく表現するものになっていったと解説した。 ◆年代論解決が課題 最後に高島氏が「考古学からみたこれまでの邪馬台国論争〜青銅器と古墳をめぐって」と題して、畿内説と九州説に分かれる邪馬台国論争の歴史的経過について講演した。 畿内説では、三角縁神獣鏡など3世紀の銅鏡が多数出土し、纏向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)一帯の前方後円墳が列島では最古とされることなどが根拠となってきたと紹介した。 これに対して九州説は、吉野ヶ里遺跡で国内最大級の環濠集落などが発見され、魏志倭人伝に描かれたクニと符合する遺構が現れたことが、有力な拠りどころとなったと指摘した。ただ、考古学者の間で、50年から100年の年代観の違いがあるとして「年代論の解決が邪馬台国論争の決定的な課題」と提唱した。 さらに、卑弥呼が魏の皇帝からもらったといわれながら、中国では一枚も出土していない三角縁神獣鏡について見解を述べた。この鏡は中国南部にあった呉の神獣鏡の系統なので、畿内は呉の地域との結びつきが強かったと考えるのが自然とした。これに対し後漢の系統の鏡が多く出土している北部九州こそ、中国北部の魏とのつながりが深かったと論じた。 この後、高島氏の司会で3氏が討論した。 この中では三角縁神獣鏡がやり取りされた背景について論議。「鏡は卑弥呼が下位の首長に下賜したのではなく、下位の首長が上位の首長に鏡を献上することによって、祭祀を委ねるということを表す儀礼用のもの。このため、首長間で大量の鏡が流通した」という見解が示された。 今後、鏡配布の背景について、さらに細かい研究が必要という点で一致した。 10/20(火) 7:55配信 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201019-00000003-san-l41 南米に栄えた古代文明はスペイン人が持ち込んだ疫病で壊滅したらしい。 いま世界が中国が作った疫病で滅びようとしている、、、 ヒッタイト文明を滅ぼした海の民?って何者だったのか? 3362【03新】UFOs before Powered Up and Fter Powered Up パワーアップ前のUFOとパワーアップ後のUFO+Boyd Bushmanの死の床証言より https://youtu.be/biBmYcTsyAo ちなみに日本上空には葉巻型が待機しています。。 >>738 公表後まもなくインチキを暴かれてUFOビリーバーにすら話題にしなくなった ボイド・ブッシュマンの動画って何度目ですか?w ボイド・ブッシュマンの告白はデタラメでUFOの写真は映画やテレビドラマの特撮シーンを写したインチキ、エイリアンの写真も市販のオモチャの人形を写した捏造と検証されてます。 エイリアンの人形はボイド・ブッシュマンの告白の信憑性を落とすために似せて造られたものなどと反論もありますが、実際は告白動画が公表されるより前の1990年代後半から2008年頃までに市販されていたものです。 Debunked: Boyd Bushman, Area 51 scientist, claims existence of aliens in deathbed video [Hoax] | Metabunk https://www.metabunk.org/threads/debunked-boyd-bushman-area-51-scientist-claims-existence-of-aliens-in-deathbed-video-hoax.4886/ 【宇宙人秘話】あるエンジニアが死の間際に「宇宙人は存在する」と写真を公開→ 「嘘だ!」とネットユーザーが真実を暴きにかかる https://news.merumo.ne.jp/article/genre/2223556?page=2 日本上空の葉巻型とやらは飛行船かバルーンロケットでも見間違えたのでしょうか?w ゜゜゜゜゜-y(^。^)。o0○ 3363【07新】UFOs leave a TAIL behind when fly at High Speeds 高速飛行時に後方に「尾」を残すUFO by Hiroshi Hayashiはやし浩司 https://youtu.be/idmTO8NY_yo ちなみにポポカテペトル山噴火時にも ソレらしき物体が数回撮影されています。。 >>740 (o・ω・o)ノ ポポカテペトル山のは解りませんが、口永良部島のは羽ばたいている鳥が、ピンボケで写っているように見えま〜す☆ 遠くにある噴煙の動きがゆっくりに見えて、 飛行物体が早く見えるのは、遠近の違いでしょう。 距離の離れた場所からの固定カメラなので、口永良部島の山頂あたりに焦点があわされているので、手前の飛行物体は、おそらくは比較的カメラに近い位置(およそ数十mくらい?)を飛んでいるため 輪郭がハッキリとしない、ピンボケの映像となったのでしょうね。 噴煙の中に突っ込んでいるように見えるのはピンボケで飛行物体の色が噴煙の色の薄い部分になじんだことと 画質が低く解像度が荒いために形がハッキリと見えないためかな ^ ^ 出土の大刀5点は朝鮮半島で製造か 関東2例目、木更津・金鈴塚古墳 とぐろを巻く神獣の「龍」が装飾された太刀=千葉県木更津市提供 https://amd-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20201105-00000014-mai-000-1-view.jpg 国の重要文化財に指定されている千葉県木更津市の金鈴塚古墳(古墳時代後期)の出土品を再整理した木更津市は、19点ある装飾付大刀のうち5点は朝鮮半島からもたらされた舶載品であることが確認されたと発表した。 関東地方では群馬県で1点出土しているのみで、県内では初めて。畿内の政権との結びつきを示すものとして、注目される。【浅見茂晴】 市は2010年度から続けてきた出土品の再整理を終え、点数は当初の315点から490点となった。 土器などの破片69点を合わせ、「千葉県金鈴塚古墳出土品」と改め、9月30日に国の重要文化財に再指定された。 市によると、舶載品の装飾付大刀は、単龍環頭大刀(たんりゅうかんとうたち)1点▽単鳳環頭大刀(たんぽうかんとうたち)1点▽獅噛環頭大刀(しがみかんとうたち)3点。 刀の柄頭(つかがしら)にそれぞれ神獣の龍や鳳、獅の装飾が施されている。 舶載品の装飾付大刀は関東地方では、群馬県高崎市の綿貫観音山古墳から1点出土しているだけ。 蛍光X線分析調査で、金鈴塚古墳から出土した2点の双龍式環頭大刀は純銅質で鍛造だったが、単龍式と単鳳式、獅噛式は鋳造で銅とスズの合金の可能性が高いことが判明。 鉛はわずかしか含まれないことから、双龍式とは製造法が明らかに異なり、朝鮮半島の百済で作られたとみられる。 金鈴塚古墳の被葬者は不明だが、同古墳には3回埋葬されたことが分かっている。 朝鮮半島と直接、交流があったというより、木更津から畿内の政権に仕え、対外交渉に当たった人物と推定されている。 その功績が評価されて、装飾付大刀が贈られたとみられる。残る14本は、国産とともに、朝鮮半島から来た工人によって、日本国内で製造されたとみられるという。 金鈴塚古墳は横穴式石室を備えた古墳時代後期の6世紀末に築造された前方後円墳(墳丘長90メートル)。現在は後円部の一部が残っているだけ。 1933年に初めて発掘されたが途中で中止され、第二次大戦後の50年に県教委と早稲田大によって再開された。 飾大刀の出土数は日本一として知られる。59年6月には箱式石棺と、大きさ1センチ、重さ1グラムの金製すず5個などが国の重要文化財に指定された。 市は10年から、国立歴史民俗博物館(佐倉市)と共同で出土品を再調査していた。 木更津とその周辺は、古代から関東や東北の玄関口として栄え、市内だけで2000基以上の古墳が確認され、高部古墳群からは中国製銅鏡などが出土した。 出土品を収蔵する、市郷土博物館金のすずは、館内の空調工事のため、21年3月31日まで休館している。 11/5(木) 9:43配信 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201105-00000014-mai-cul ストーンヘンジ期に全島規模の宴会イベント、10倍の巨大環状遺跡も【古代文明、謎の魅力】 ブリテン島全域から人が訪れる初の集会だった、予想外の深く複雑な交流が判明 新石器時代後期にストーンヘンジ周辺に建てられた多くの祭祀場では、ブリテン島全土から人々が集まる宴が開かれていたという。 4500年の時を経てもなお、多くの人々を魅了する英国の世界遺産ストーンヘンジ。 この8月も巨石の産地が発表されて話題になったが、なぜ、どうやって建てたのかなど、いにしえの環状列石はずっと考古学の大きな謎とされてきた。 ストーンヘンジが建てられた目的については、さまざまな学説がある。 なかでも有力な学説のひとつは、古代人が重要な祭祀を行っていたというものだ。 この祭祀説にまつわる注目の研究結果が昨年、学術誌「Science Advances」誌に発表された。 ストーンヘンジの周辺にある先史時代の祭祀場には、なんとブリテン島全域から人々が集まって宴会が行われていたという。 予想外の発見をもたらしたのは、4500年前の食べ残しであるブタの研究だった。 そもそも、新石器時代後期(紀元前2800年〜前2400年頃)に、3キロほど北東にあるダーリントン・ウォールズや約15キロ北にあるマーデンなどの祭祀場で、大規模な宴会が開かれていたことは以前から知られていた。 それぞれ、ストーンヘンジを築いた人々が住んでいたとされる場所と、ブリテン島最大の環状遺跡があるところだ。 また、ダーリントン・ウォールズの発掘調査で、冬の間に大規模な宴が開かれ、大量の豚肉と少しの牛肉を焼いて食べていたことも分かっている。 発掘された8500点の骨を分析した結果、ブタとウシの割合は10:1だった。 こうした宴の目的が、地元の人々の親睦を深めるためだったのか、あるいはもっと広く、近隣との同盟関係を強化することにあったのかは分かっていなかった。 そこで研究者らがブタの骨を分析したところ、祭祀場とそこで振る舞われたごちそうが、ブリテン島の巨大な交流網のかなめになっていたことが明らかになった。 ストーンヘンジで火葬された人間の遺体と、ダーリントン・ウォールズから発掘されたウシの骨についてのそれまでの分析結果は、今日のウェールズなど、どちらもかなり遠いところからやって来たことを示唆していた。 けれども、ブタの骨を分析した研究者はいなかった。 ブタは長距離の移動が苦手なはずで、祭祀の参加者がどこから来たかを知る手がかりにはならないと考えられていたからだ。 しかし、ブタを遠くから連れてくることは本当に不可能なのだろうか? 疑問を抱いた研究者たちが、ダーリントン・ウォールズやマーデンなど、4カ所の新石器時代後期の遺跡から出土したブタの骨131点を分析した。 結果、そこで食べられたブタの大多数が、現地で育てられたものではなく、ブリテン島各地から連れてこられたものであることが明らかになった。 その距離は少なくとも50kmで、550km以上のこともあり、なかにはスコットランドから連れてこられたブタもいた。 ほかにも、たとえばダーリントン・ウォールズのブタは、さまざまな環境で育っていた一方で、餌は同じようなものだったことも分かった。 これは宴の規模の大きさを反映していると、論文の筆頭著者で英カーディフ大学の考古学講師であるリチャード・マジウィック氏は信じている。 つまり、地域で残飯を与えられたブタをかき集めたのではなく、ブタの大群を森で餌を食べさせながら移動させたのだ。 「宴に参加した人々は、儀式のために、はるばるブタを連れてきたのです」とマジウィック氏は言う。 『Lesser Beasts:A Snout-to-Tail History of the Humble Pig(劣った獣:つつましいブタたちの全歴史)』の著者であるマーク・エシッグ氏は、この結果は理にかなっていると考える。 「ブタの群れを移動させることなどできないというのは間違った思い込みです」とエシッグ氏。 19世紀の米国では、ブタをケンタッキー州中部からサウスカロライナ州沿岸部までいつも歩かせていたと指摘する。 新石器時代の祭祀場にブリテン島全土から人々が集まってきていて、なかにはかなり遠くからも来ていたことは、宴が開かれた祭祀場が歴史上最初の「汎ブリテン島」イベントの会場だったことを示している。 ここまで交流が深く、社会が複雑だったとは、誰も予想していなかった。 (以下略、続きはソースでご確認下さい。) ナショナル ジオグラフィック日本版 11/7(土)18:07 https://news.yahoo.co.jp/articles/9b40501af5a6f17eeaed751c43a51427a5941ab8 3378【00新重要】Heavy RainFall Incident and its Answer 大豪雨事件とは何だったのか+その答えと上の人からの返事 by Hiroshi Hayashi, JP.Earth https://youtu.be/N1XyKyi15sI 受け取り「カタ」は人ソレゾレ違います。。 キャッチのしカタや 飛ばしカタも様々です。 自分のヤリカタでイイのです。。 3379【03】Native Terrans on Earth 地球環境適応型エイリアン種人間・ネイティブ・テランズ by Hiroshi Hayashi, Japan https://youtu.be/8lxhmedMhCI ダ・ヴィンチの描いた骨格は マヤの白いアレに通じます。。 暗闇に光が届いたトキ 齎された人々は動揺する。。 届かぬ人々は 光を求め彷徨う... 国内最古の「分銅」、福岡で出土…大陸と規格共通 魏志倭人伝が伝える奴国の王都とされる福岡県春日市・須玖遺跡群 中国の史書・魏志倭人伝が伝える奴国なこくの王都とされる福岡県春日市の須玖すぐ遺跡群で、国内最古となる 弥生時代中期前半(紀元前2世紀頃)の計量用の重り「権けん」が出土した。 重さの規格は韓国出土の権と共通しており、奴国が大陸の度量衡の制度をいち早く受容し、青銅器生産などに利用していたことを示す発見だ。 福岡平野南部にある同遺跡群は、国内最古級の青銅器の生産工房跡として知られる。 2014年までに同市教育委員会の調査で出土した円筒形の石製品8点を武末純一・福岡大名誉教授(考古学)が分析し、 上下を平らに加工した形状などから権と判断した。 権とは天秤てんびんなどで重さを量る「分銅」にあたり、組み合わせることで、基本となる重さのさまざまな倍数の計量が可能になる。 今回見つかったのは5・85グラム〜337・19グラム。 ほぼ完全な形で残る5点は、韓国慶尚南道・茶戸里タホリ遺跡の権(約11グラム)の3倍(2点)、6倍、20倍、30倍の重さとなっていた。 武末名誉教授は、 「青銅器の鋳型とともに出土していることから、原材料の計量に用いられたのだろう。青銅器の国産が、朝鮮半島の技術を直接導入して行われたことを示すもの」 と評価している。 国内では「弥生分銅」と称される権が、紀元前後に近畿を中心に分布したが、その基本単位(8・67グラム)は大陸に類例がなく、 近畿文化圏独自のものと考えられている。 石川日出志・明治大教授(考古学)の話 「朝鮮半島と九州の間に共通の計量制度に基づく経済活動が成立していたことになる。当時の東アジアの中での流通や経済を探る上で重要な資料だ」 https://www.yomiuri.co.jp/culture/20201219-OYT1T50326/ 「出雲国風土記」の渡し場か 松江、川に石敷き護岸跡を発見 島根県埋蔵文化財調査センターは25日までに、松江市朝酌町の朝酌矢田2遺跡で、奈良時代に編さんされた「出雲国風土記」(733年)に登場する官営の渡し場「朝酌渡」とみられる石敷きの護岸跡が大橋川北岸で見つかったと発表した。 センターは「古代景観や交通史を考える上で重要な遺跡だ」としている。 出雲国風土記は、出雲国府(松江市)から隠岐に通じる官道「枉北道」(古代山陰道の支線)に、朝酌渡があったと記していた。 古代の官営の渡し場が見つかるのは初めて。 センターによると、遺構は南北約11m、東西約20mで、川に向かって緩やかに傾斜していた。 共同通信 2020/12/25 17:07 https://this.kiji.is/715109943047012352 「ローマ時代のファストフード店」発掘、状態良好 ポンペイ遺跡 2020年12月27日 15:30 https://www.afpbb.com/articles/-/3323572 【12月27日 AFP】 イタリアの古代ローマ都市ポンペイ(Pompeii)で、フレスコ画が描かれた「テルモポリウム」が非常に優れた保存状態で発見された。 テルモポリウムは、現代のファストフードカウンターのようなものだという。考古学者らが26日、明らかにした。 多色の柄で華麗に装飾されたカウンターは、昨年一部が発掘され、その全貌を明らかにするため発掘が続けられていた。 作業の最終段階では、ワインや温かい飲み物と一緒に提供するマガモやおんどりなど、食事メニューにあったとみられる動物の描写を含む静物画が複数発見された。 他にも、陶器鍋の中からは、カモの骨の破片や、ブタ、ヤギ、魚、カタツムリの死骸を発見。 スペイン料理のパエリアのように、いくつかの食材が一緒に調理されていたものもあった。 ポンペイ考古学公園(Archaeological Park of Pompeii)のマッシモ・オザンナ(Massimo Osanna)事務局長は、 「ポンペイの日常生活が生き生きと分かるだけでなく、一つの場所の全体を発掘したのは今回が初めてであるため、このテルモポリウムによって可能になる分析の可能性は他に例がないほど優れている」と述べた。 50歳ぐらいとみられる男性の遺骨なども発掘された。 オザンナ氏は伊通信社ANSAに対し、「店は急いで閉鎖され、所有者らが放棄したとみられるが、おそらく最高齢の男性か誰かが中にとどまり、最初の噴火で死亡した可能性もある」と説明している。 ポンペイは西暦79年、噴火したベズビオ火山(Mount Vesuvius)の火山灰に埋もれて消滅した。この噴火で、2000〜1万5000人が死亡した。 ギリシャ語で「温かい」を意味する「thermos」と「売る」を意味する「poleo」を語源とするテルモポリウムは、古代ローマ世界で人気が高く、ポンペイだけでも80店ほどあった。 (c)AFP/Gaël BRANCHEREAU tt youtube.com/watch?v=5XRwMBQPqo0 エジプト、サッカラ遺跡で新王国時代の木製のひつぎ50以上発掘 「歴史書き換える発見」 【AFP=時事】エジプトは17日、首都カイロ南方のサッカラ(Saqqara)遺跡で3000年以上前の木製のひつぎを50以上発掘したと発表した。 エジプト元考古相のザヒ・ハワス(Zahi Hawass)氏は「歴史を書き換える発見」だとしている。 サッカラ遺跡は、古王国時代の首都だったメンフィス(Memphis)の大規模墓地(ネクロポリス)で、十数基のピラミッドがある。 新王国(New Kingdom、紀元前16世紀から紀元前11世紀)時代にさかのぼる木製のひつぎが50以上、埋葬用の縦穴の中で発見され、遺跡の発掘作業が進められる中、人の頭蓋骨や骨など発掘された遺物が17日にメディアに公開された。 AFP=時事 1/18(月) 11:12 https://news.yahoo.co.jp/articles/f8a9bf0a4681026b265625012c310b13c247803a ー 速報 ー 1.11 テンと繋がり 2.11 さらに次元は上昇します。。 光によって確実にヤミは狭まり ウソは通じなくナリます。 「世界最古のビール工場」がエジプトで発掘される エジプトが2021年2月14日に、古代エジプトで最も重要な聖地だとされたアビドスで、5000年以上前のものとみられる「世界最古のビール醸造所」の遺跡が見つかったと発表しました。 エジプトの観光・考古省が2月14日に、Facebookで「ニューヨーク大学のマシュー・アダムズ氏とプリンストン大学のデボラ・ビシャック氏らが率いるエジプトとアメリカの合同考古学ミッションが、ソハーグ県北部のアビドスで世界最古のものとおぼしき大量生産型のビール醸造所の遺跡を発見しました」と発表しました。 このビール醸造所は、長さが20メートルで幅が2.5メートルの広さを持つ8つのセクションで構成されており、各セクションには穀物と水の混合物を煮るための土器40個が2列に設置されていました。 エジプト考古最高評議会で事務局長を務めるムスタファ・ワジリ氏は、「この工場は紀元前3000年ごろのエジプトを治めていたとされるナルメル王の時代までさかのぼる可能性があります」と話しています。 またアダムズ氏は、「調査の結果、この工場は同時に約2万2400リットルのビールを生産することができたことが分かりました。王の葬儀を執り行う施設内に設けられていたことを踏まえると、このビール工場は王族のための特別な儀式、おそらくいけにえの儀式に供するためのビールを作っていたと考えられます」と述べました。 古代エジプト人がビールを醸造していた痕跡が発掘されたのは今回が初めてではなく、2015年にはビールを作るために使っていたとみられる5000年前の陶器のかけらが、イスラエルのテルアビブにある工事現場で見つかっています。 https://gigazine.net/news/20210215-egypt-ancient-beer-factory/ ストーンヘンジ付近で謎の円筒形の物体が発見 2021年02月15日 20:22 英国の遺跡ストーンヘンジ付近で、古代の埋葬地や「謎の」囲い、多くのアーティファクトが考古学者らによって発見された。ニュースサイト「LiveScience」が伝えている。 今回の発見は、考古学的な作業の中で明らかになった。この作業はストーンヘンジ近くで行われているが、同地では地下トンネルの建設が予定されている。 研究者らは今回、現地で約4500年前の墓2つを発見した。そこには幼児と少女が埋葬されており、少女の墓からは銅製のキリ(千枚通し)や針の破片、杖か棍棒の一部ではないかと思われる謎の円筒形の物体が発見された。 研究者のマット・ライバーズ氏は、「これらの品々を残した人々や、近くに埋葬された人々がストーンヘンジの建設に何らかの役割を果たしていた可能性がある」と指摘している。 発見された土器やトナカイの角、火打ち石も、ストーンヘンジを建設した人々の所有品であったとみられている。さらに考古学者らは、ストーンヘンジの南東に保護する目的で作られた可能性がある溝を発見した。 https://jp.sputniknews.com/science/202102158155364/ ストーンヘンジの起源に新説、石はリユース品だった 2/16(火) 18:13 配信 直径や石の並び、素材も同じストーンサークルが見つかる 約4600年前に完成したストーンヘンジは、数百キロも離れた場所にあった、より古い巨石モニュメントの一部を使って造られたのかもしれない。(PHOTOGRAPH BY KENNETH GEIGER, NAT GEO IMAGE COLLECTION) 世界で最も有名な遺跡の1つ、英国のストーンヘンジ。4600年前にイングランド南部のソールズベリー平原に造られたこの遺跡は、今も多くの謎に包まれている。 ギャラリー:解き明かされるストーンヘンジと関連遺跡群 画像12点 最新の研究で、このストーンヘンジの始まりについて新たな物語が提唱された。2月12日付けで学術誌「Antiquity」に発表された論文によると、ストーンヘンジはオリジナルな創造物ではなく、ウェールズにあるさらに古い遺跡がその前身であるかもしれないというのだ。 その遺跡とは、ウェールズにある「ワイン・マウン」というストーンサークル(環状列石)。ストーンヘンジと同等の大きさで、石の配置と太陽との関わりも似ている。さらに、一部は同じ材料を使っているようにも見える。ストーンヘンジとの違いと言えば、現在のワイン・マウンには石がほとんどないことだ。 研究チームは、ワイン・マウンの建設者たちはが約5000年前にこれを解体し、その石の一部を280キロ東のソールズベリー平原まで運び、ストーンヘンジの建設に使ったのではないかと推測している。彼らは何のために、恐ろしく手間がかかり、実用的でもないそんな作業を行ったのだろうか? そのカギになるのが、ストーンヘンジに移設されたとされる重さ3トンの石「ブルーストーン」だ。古代ブリトン人にとって、ブルーストーンは「貴重品だっただけでなく、自分たちが何者であるかを示す本質でもあったのでしょう」と、今回の論文の筆頭著者である英ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)のマイケル・パーカー・ピアソン氏は語る。氏の研究にはナショナル ジオグラフィック協会も支援している。 ワイン・マウンでの発見は、実に刺激的な仮説につながると氏は考えている。ストーンヘンジのブルーストーンは、この地に移住してきた彼らの先祖やその記憶を示すものだったという説だ。新石器時代のブリトン人は、文字通り先祖の重みを背負って大地を横断していたことになる。 しかし、現段階で結論を出すのはまだ早いと、論文の著者らも認めている。「ストーンヘンジについていつも面白いと思うことの一つは、おそらく永遠に答えの出ない問いがたくさんあることです」と、「レスキュー英国考古学トラスト」の副会長ケイト・フィールデン氏は言う。なお氏は今回の研究には関わっていない。「私は、謎があるということが好きです」 (以下略、続きはソースでご確認下さい) ナショナル ジオグラフィック日本版 2/16(火) 18:13 https://news.yahoo.co.jp/articles/fb61726590dfe38b2d6759b41b6b73947fea5419 スライドで説明する滝沢課長(右端)=新潟市秋葉区で2021年2月21日、露木陽介撮影 https://cdn.mainichi.jp/vol1/2021/02/22/20210222ddlk15040413000p/9.jpg 新潟市秋葉区の県埋蔵文化財センターで21日、県内で発掘された古墳時代の遺跡などをもとに、新潟での古墳時代の生活を紹介する講演会があった。 講演会には30人が参加。同センター普及・資料課の滝沢規朗課長が講師を務め、北方と近畿の文化の境界に当たる新潟の特異な状況を説明した。 越後平野では、海から山脈までの距離が遠く、山からの水はけが悪く農業生産力が乏しいことから、古墳そのものの大きさは全国と比べて小さなものが多い。古墳時代前期に造られ始めた前方後円墳の日本海側最北が新潟市西蒲区(菖蒲塚古墳)にみられるなど、文化の中心であった近畿の影響が及ぶ北限であったことが分かるという。 一方、土器に縄文時代のような縄目の模様をつける東北地方の特徴を持つ土器(続縄文土器)が菖蒲塚古墳のすぐ近くで見つかるなど、北方との交流があった同時代の南限だったことも分かり、「新潟は邪馬台国から大和朝廷成立時の西と東北地方の動向が把握できる重要地点である」と結論付けた。 講演会に参加した新発田市の片桐一雄さん(73)は「越後の歴史の基礎を知ることができてよかった。県内では続々と古墳が見つかっているので新発見が楽しみだ」と話した。【露木陽介】 毎日新聞 2021/2/22 https://mainichi.jp/articles/20210222/ddl/k15/040/122000c?inb=ra American Airlines Pilot Sees UFO Over Plane, Feb 21, 2021, UFO Sighting News. https://youtu.be/8iKohBHlAOY コレからもっとハッキリしてきます。。 【悲報】はやし浩司先生,宇宙人と遭遇していなかった!? 3472【01】Gods' Landmark+Answer to Key Hole shape of Mounds神々のランドマーク+前方後円墳の謎の突起物by Hiroshi Hayashiはやし浩 https://youtu.be/ZBjogbEEqHk ぶんぶん3 日前 久しぶりに 林さんの動画を拝見いたしました。 確か 林さんは 宇宙人と遭遇していましたよね? そのお話しって どの回でしたっけ? 誰か教えて下さい お願いします。 Hiroshi Hayashi3 日前 こんばんは。 誤解です。 私は一度も、「遭遇した」と言ったことはありません。 書いたことも、人に話したこともありません。 また遭遇したこともありません。 ですから誤解です。 がっかりさせてごめんなさいね。 はやし浩司 北米最古の犬の骨がアラスカで見つかる、人類拡散の旅路を示唆 ■アラスカで見つかったシベリアの犬の子孫、1万150年前の骨片 米アラスカ大学博物館に「PP-00128」という標本があり、20年ほど前から、かなり古いクマのものだと考えられていた。 この標本は大腿骨の破片で、指でつまめるほど小さく、アラスカ南東部の海岸沿いの遺跡から発掘された。 同じ遺跡からは、数千年前の魚や鳥や哺乳類の骨のほか、人間の骨も発見されている。 2月24日付けで科学誌「Proceedings of the Royal Society B」に発表された論文によると、遺伝子解析の結果、PP-00128は、今から約1万150年前に人間の忠実な友として氷に覆われたアメリカ大陸にやってきたイヌの骨だったことが判明した。 この研究成果は、イヌがアメリカ大陸に入ってきた時期やルートを知る手がかりになるほか、人間と家畜化されたイヌとの長く深い関係を裏づけるものにもなる。 (以下略、続きはソースでご確認下さい) ナショナル ジオグラフィック日本版 2/27(土) 18:05 https://news.yahoo.co.jp/articles/c99415cfcda4384864e19a45ff4dbc137262e72f 隼人族甲冑盾木刀は鎌倉彫り 湿地でも風呂でも浮くし錆びない エジプトウルシ 足指比率 柔道エジプト有利 それ以外はギリシャ系 結婚は手指と足指の比率相性 当時の将軍の料亭 国産特別田畑 超芸術 だが今からすると値段は 【大日本帝国その後】 スマホがあれば ドローンが助ける という信仰と ポンペイと奴隷戦争 関係あるらしい 茶道ができるか できないか 女性は エジプトとメソポタミア どちらか インダスと中華注目 茶道向いていないなら他の長所 足指比率も相性 手指比率も相性 全体スキルグラフ 1茶道だけ 2スポーツだけ 3武道だけ 4 123のバランス 陸遜はポンペイを知っていた説 尊敬する劉備の子供の劉禅と 諸葛亮と同じ人肉食べない 劉備が食べていたかわからないが お坊ちゃん陸遜は 儒教なのに虫も殺せない しかし魏にも知られた蜀通 劉備も手強いのを知り 年配者が国内では弱虫陸遜と しかし年配者は豪傑劉備に弱く 感情戦だった 国内が 日本言語感情法則照合統計計算説 だから菅総理の息子が言語計算で 見つけられる説だが アメリカのロシアは外 日本は内 厳しいから海外系はなおさら ポンペイ説も言語計算 ただし日本国憲法と 科学的管理社会統一 アメリカが世界に任された らしい 大日本帝国時代から 海外は訳のわからない日本語 特にロリコンと菅総理の息子 内に厳しい理由はアメリカが 詳しく 言葉の誤認逮捕も復讐も ありえるプログラム PC世界だが 僕も言葉に気をつける 勘違いされないように だから科学で誤解解き ポンペイ説と日本と富嶽百景など ピンからキリまで 掲示板は 古代建築芸術と 記録協力者の型 僕も記録協力者 返還は変換 不当計算から見つける体験理解を 技術 記録協力者が感じ 日本国内は厳しいフラット 「ミイラの作り方」の最古のマニュアルを発見! 防腐処理の手順に新事実が記されていた Ancient Egyptian Papyrus Reveals Secrets to Embalming the Face! https://www.ancient-origins.net/news-history-archaeology/face-embalming-0014991 Ancient Egyptian manual reveals new details about mummification https://phys.org/news/2021-02-ancient-egyptian-manual-reveals-mummification.html 「ミイラの作り方」について、現存する最古の解説書が発見されました。 デンマーク・コペンハーゲン大学の古代エジプト学者、Sofie Schiødt氏は、最近になって再発見された約3500年前のパピルスを解読し、編集。 その中に、防腐処理(ミイラ化)についての新たな記述が発見され、今まで知られていなかった詳細なマニュアルが明らかになりました。 一体、どんな内容が記されていたのでしょうか。 読み手は「プロの防腐処理者」を想定? 今回調査されたパピルスは、2つの断片からなり、1つはパリのルーヴル美術館に、もう1つはコペンハーゲン大学のカールスバーグ・コレクションに所蔵されていました。 そのため、「パピルス・ルーヴル-カールスバーグ(Papyrus Louvre-Carlsberg)」と呼ばれています。 長さ6メートルに達するこのパピルスは、紀元前1450年頃のもので、薬剤や皮膚病を取り扱った医学文書の一部です。 その中に、防腐処理に関する短いマニュアルが発見されたことに、専門家らは驚きを隠せません。 古代エジプト人にとって、防腐処理は非常に神聖な技術であり、限られた少数の人にのみ口頭で伝えられていました。 その証拠に、防腐処理に関するパピルスはほぼ存在せず、これまでに見つかった記録はわずかに2つ。 いずれも今回のパピルスより1000年以上後の時代に書かれたものです。 パピルス・ルーヴル-カールスバーグを翻訳したSchiødt氏は、以下のように述べています。 「新たに判明した防腐処理のマニュアルは、あとの2つのパピルスには見られない記述がほとんどで、非常に細かい工程の記録でした。 想定されている読み手は、明らかに素人ではなく、防腐処理について知識のあるプロと見られます。 テキストは、防腐処理に必要な薬液のレシピや、様々な種類の包帯の使い分けなど、覚えきれない箇所が記されており、遺体の乾燥法といった基本のプロセスは省かれていました。」 (以下略、続きはソースでご確認下さい) ナゾロジー 2021.03.02 https://nazology.net/archives/84054 ちょっとド忘れしたから教えて欲しいのですが 土偶などで女性の頭の上に何かを載せてる性的嗜好に名前があったと思うんですがなんて名前だったでしょうか? なんか人間の普遍的な嗜好らしいです 三重県教委 生徒にわいせつ、教諭免職 当て逃げ主幹は停職 埋蔵文化財センターの男性主幹は昨年9月、いなべ市内のアパートの駐車場から自家用車で外出する際、停車中の妻の車や別の住民の車に衝突。そのまま走行を続け、約200メートル離れた田んぼに侵入した。 男性主幹は腰を打ち、車外に出て路上で倒れていたところ、通行人の一一九番で病院に搬送された。「気が動転してパニックになってしまった」と話し、妻の車にぶつかった後の記憶がないという。 https://this.kiji.is/747628824785108992?c=39546741839462401 エジプトの壁画とウルのスタンダードの人物表現の共通点 https://i.imgur.com/ueG3HL1.png シュメールとエジプト文明は同じ系統の民族の文明とおもわれます。 ナスカの地上絵を上回る世界最大規模の地上絵がインドの砂漠で見つかる by Ninara https://gigazine.net/news/20210527-largest-geoglyphs-indian-desert/ 巨大な地上絵と言えば南米のペルーに存在するナスカの地上絵を連想する人が多いはずですが、新たにインドとパキスタンにまたがって広がるタール砂漠で、ナスカの地上絵を上回る世界最大規模の地上絵が発見されました。あまりにも絵の全体像が大きすぎるため、描いた本人ですら絵を見ることはできなかったと考えられています。 New enigmatic geoglyphs in the Indian Thar Desert: The largest graphic realizations of mankind? - ScienceDirect https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S2352226721000362 Enigmatic Designs Found in India May Be The Largest Images Ever Made by Human Hands https://www.sciencealert.com/enigmatic-designs-found-in-india-may-be-the-largest-images-ever-made-by-human-hands Huge spiral found in Indian desert may be largest drawing ever made, experts say | Daily Mail Online https://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-9616319/Huge-spiral-Indian-desert-largest-drawing-experts-say.html フランスの研究者であり、親子でもあるCarlo Oetheimer氏とYohann Oetheimer氏は、Google Earthを使用してタール砂漠の調査を行っていたところ、オアシスの都市であるジャイサルメール付近で、地上絵と思われる幾何学的な線を発見したとのこと。その後、2016年には無人航空機を使用した現地調査を実施し、いくつかの溝は植林のために掘られたものだと判明したものの、植林とは関係のない地上絵も確認されました。 Oetheimer氏らが確認したタール砂漠の地上絵を表した図が以下。「Boha村」という村の付近に描かれた「Boha1」と呼ばれる巨大な渦巻きは長さ724m、幅201mの範囲にわたって描かれており、実に12kmに及ぶ1本の線で構成されています。また、Boha1の南西に描かれている「Boha2」と呼ばれる図形は、牛耕式に折り返している巨大な線とゆがんだ形で曲がりくねった図形、そして小さな渦巻きで構成されており、この図形も11kmにわたる1本の線で描かれています。 地面に描かれた巨大な線を地上で撮影した画像がこれ。溝の深さは10cm以下で幅も20〜50cmほどだそうで、以下の画像では隣の線までの距離が9mほど。間近で見てもこれが壮大な地上絵を構成しているとは気づくのは困難です。 Boha1とBoha2の周囲には他にも関連するとみられる地上絵があり、記事作成時点で確認できる線の総距離は48kmほどで、かつては80kmに及ぶ線が描かれていたのではないかと推定されています。研究チームは「これらの地上絵はこれまでのところ世界で最大であり、インド亜大陸(インド半島)で初めて発見された地上絵でもある上に、謎めいた痕跡についても独特です」と述べています。 この地上絵がなぜ描かれたのか、そして誰によって描かれたのかは不明。地上絵の付近にはヒンドゥー教の記念碑が複数見つかっているほか、地上絵が描かれたのは少なくとも150年前と比較的最近であることを研究チームは指摘しています。また、重要なポイントに複数の石が配置されていることから、地上絵を描くために面積測定の技術が使われた可能性があるとのこと。 Oetheimer氏らは、人間の活動によってこれらの地上絵が消失してしまう前にインド政府によって保護されることを望んでいます。「徹底的な調査の結果、Bohaの地上絵はこれまでに発見された中で最大の、人間によって抽象的かつ有機的に配置された幾何学的な地上絵だと思われます」と研究チームはコメントしました。 これほど巨大な地上絵の全体像を見るには地面から300m以上の高度が必要ですが、描かれた場所が起伏に乏しい砂漠の中であることから、描いた人物ですら地上絵を見ることはできなかったと考えられています。そのため、研究チームはこの地上絵がデザインを重視にした芸術的表現ではなく、何らかの文化的慣習に基づくものではないかと推測しています。 研究チームは論文中で、「この地上絵は、私たちに宗教的・天文学的・宇宙論的な意味合いを検討するように促してきます。これらの独自性から、地元で観察された例外的な天文現象を記念したものではないかと推測することが可能です」「これらのユニークな地上絵は、地理的および文化的な文脈と密接に関係しており、神聖なものや宇宙に関連する普遍的なメッセージが含まれているかもしれません」と述べました。 MYSTERY BOOMS RETURN! UFOs SWARM NAVY SHIP AND.. https://youtu.be/OgWC-g0PGx8 YHTもキマス。。 >>245 新型コロナワクチンを 卍3286卍ssは どう認識してるの…(´・ω・`)?? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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