司馬遼太郎

「韓国への想いのたけというのが深すぎて、ひとことでは言いにくかったのである。私は、日本人の祖先の国にゆくのだと、ということを言おうと思った。」

「日本の奈良朝以前の文化は、 百済人と新羅人の力によるどころが大きい。さらに土地開拓という点でも、大和の飛鳥や、近江は百済人の力で開かれたといってよく、関東の開拓は新羅人の存在を無視しては語れない。盆踊りは朝鮮の野踊りからきたものではないか。平安時代には野踊りが盛んであった。」

「飛鳥文化は百済文化をぬきにして語れない。王朝文化は百済と同じ。ほとんど百済ぐるみが日本にひっこしたのではないかという想像が『日本書紀』の記述によって可能だ。白鳳期といわれる芸術時代が花をひらくのも、亡命百済人たちが日本の宮廷に収容されたことをはずしては考えられない。」

「百済は北朝にたよらず、もっぱら揚子江以南の南朝にたより、その文化的影響を濃厚にうけた。その百済の影響を飛鳥期の日本がうけるため -- つまりは江南の六朝の文化がはるか極東の島へ飛び渡って -- 飛鳥文化の華をひらくというふしぎな作用をもたらすのである。百済が、南朝 (六朝) の文化を模倣したことが、この国の性格と運命を決定したといえるであろう。」

「壱岐には、唐人 -- 漂流朝鮮人であろう -- を祀った古趾が多い。海のむこうから来た客人を神に近いものとして崇敬する民俗が西日本の島々や海浜にあった。対馬・壱岐が、朝鮮からやってきた鹿卜の受け皿になっていたことは、まぎれもない。この時期の対馬・壱岐というのは、本土に対してもっとも華やかな位置を占めた時代であった。」

「稲作の伝来に関して想像すると、たしかに中国南部からもきたであろう。しかし主として朝鮮半島を経由してきたという説はうごかしがたい。三世紀の対馬の卑狗も、四世紀後半から五世紀の人と思われる鶏知の前方後円墳のぬしも、朝鮮半島や博多湾沿岸のひとびととおなじ型の米を食っていたであろう。」

「自分を日本人と規定するより倭人と規定するほうが、ずっと自分がひろがってゆく感じがする。」