エミシから「民族と歴史」へ

「蝦夷」とは、関西の王権が古代の関東・東北地方の住民をさして呼んだ言葉である。
一般的には「エミシ」と読み、平安時代の後期になると、「エゾ」ともいった。
ここではエミシと読み、喜田貞吉の卓越した意見をしばらく聞こう。

やはり、その話は「古伝説」から始まる。大国主神は高志国の沼河比売と結婚しようとして出雲を出発する。
ここにいう「コシノクニ」は「コシ人の国」という意味で、喜田によれば 「コシ人」こそがエミシである。
「出雲風土記」では大国主神は「越の八国」を平定している。この「コシ人の八カ国」 というのも、もちろんエミシの国である。
出雲市に合併された古志町の「古志」という村名も、むかしコシ人がいた場所で、「出雲族」はここにいたコシに、日淵河の堤防工事を命じている。

「古伝説」のこのような逸話は、縄文民族のエミシがいる土地に朝鮮半島から新たな民族が渡ってきたことを語っている。
弥生式土器をつくる民族がやってきて、縄文人と混血をくりかえし弥生人にな る。
渡来してきた弥生民族は、先住の縄文人を「コシ(越・高志)」と呼び、北に追い払った。
いまの越前、越後などの地名に越がついているのは、そこに、しばらくはコシ人(エミシ)が住みついていたからだ。

大国主神で象徴される出雲族は、コシ人の土地を暴力でうばう一方、「血緑化」して勢力をひろめた。
ヌナカワ姫との婚姻のエビソードも、政略結婚がくりかえされたことを証している。

喜田貞吉の結論ははっきりしている。 エミシは縄文時代からの列島の住人で、こんにちのアイヌと血脈を通じている。

大国主神に代表される渡来人は、出雲から北九州にかけて住みつき、稲作に精をだし、しだいに関西地方や中部地方へとひろがった。
いわゆる弥生時代の幕開けである。しかし、その弥生人も、数百年後、新しく渡来してきた「天孫民族」 の支配下におかれる。
まだ、あちこちに純粋に残っていたコシも災避だ。こんどは「天孫民族」に追われる。東北の地に逃げ、あるいは九州の南に追いやられた。
東北のコシは、大和や京都の天孫民族からエミシ(蝦夷)と呼ばれ、西のコシの後裔はハヤト(隼人)やクマソ(熊襲)になる。

エミシが、のちの北海道のアイヌと同一の民族で、縄文人と同一民族であることは、最近になって、ミトコンドリアDNAのタイプを調べることで結論がでた。(北海道のアイヌと沖縄の人は同じではなかった。)

喜田貞吉は、さきに述べたようにエミシはアイヌだと断言している。
DNAなど知らないまま、この結論をみちびきだした論理はつぎのようなものである。

エミシは自分たちのことを「カイ」と呼ぶ。「コシ」というのは、クニツカミ(出雲族など)がそう呼んだだけで、じつは自称「カイ」であった。
コシに接した「天孫民族」は、カイがほんとうの名だと知って、かれらを「蝦夷」の字でもって表記した。
「蝦夷」と書いて、「カイ」だ。「蝦」は蛙のことだが、虫偏の右にある旁が、「カ」という音をあらわしている。
「夷」は夷狄の「イ」だ。辺境の異民族という意味の漢字を使い、音は「カイ」と表記している。

平安初期の「弘仁私記」の序にも、蝦夷に「カイ」とルビをふっているし、平安末の「伊呂波字類抄」にも、カイの条に「蝦夷」とある。
のちに、といっても、うんとのちのことだ。幕末になって、松浦武四郎が樺太(サハリン)で、アイヌが「カイナ」と自称するのを聞いた。
「ナ」は尊称の語だから「カイ」でいい。アイヌもまた「カイ」と自称していた。

それでは、「カイナ」が、なぜ「アイヌ」と呼ばれるようになったのか。
カイナが、アイノ、アイヌと転化していくのだが、このことに、ここでたくさんのページをさくことはできない。

「喜田貞吉著作集」の第九巻は、まるごと一冊が 「蝦夷の研究」にあてられている。
さらに、第八巻の「民族史の研究」にも、エミシに関するおおくの言及がある。ぜひ、それらを見ていただきたい。
そこには、天孫族によってエミシが関西から遠ざけられて行く過程を、「ヒタカミ」という地名から考察した論考もある。