村上隆 [無断転載禁止]©2ch.net
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コンテキストなんていちいち組み立てて考えて作品作ってるやつなんてほんとにいるのかよ
大抵ぐちゃぐちゃに混ざり合っててわからないよ
iPhone中身見るのやめろ
何年もやられてて頭おかしくなりそう あと何年、病気だって言われ続けて
頭ぼーっとする薬飲まされ続けて
プライバシーなくされて
そんな生活続ければいいんだ 仲間同士で守りあってればいいよ
こっちのことは5ちゃんねらーだなんだって欠点探して叩いてればいいよ
病気だってことにしてればいいよ >>201
少なくともコンセプチュアルアートを名乗るならコンセプトは必要
コンテンポラリーならなぜそれがコンテンポラリーなのかが必要
あまりにちゃんとやってる人が少ないなら要塞のようなコンテクストでなくても戦える好機 村上はずっと黙ってて
たまに匿名でハッキングしてることなど仄めかして
キチガイ芸させて一人でおかしくなってるように見えるだろう
実際一部の人間以外から見たらこの一連の書き込みも頭がおかしいやつが書いたように見えるだろう
何年こんなこと続ければいいんだ? >>206
コンセプトってお前がつらつら書いてるように言語なのか?
じゃあ視覚言語である必要ないだろ
論文でも書けばいい >>208
コンセプトは言語だよ
実際論文がセットになる
ただ、作品はその論を表象したものになる
過去の現代美術に限らず美術は基本的に論文化されてる
ただし作家がどこまで論じるか、提示するか、キュレーターがどこまでキュレーションするかを経て展示されるよ
現代美術ではコンセプトがむき出しにしたコンセプトアートが登場した
視覚言語である必要を訴えるのもARTだよ
ARTは1つの技法や手法に限定しない。その代わりそれぞれが体系的にアーカイブされてる
今のところコンセプトアートに反論を掲げてたのはクレメントグリンバーグで存在論主義者だった
ジャクソンポロックやマークロスコを擁護した
視覚で感じることとその最小構成単位をアートにした
それは還元主義として成熟したよ 付け足して申し訳ないけど
言語化→視覚化→言語化→視覚化
のプロセスはアート活動として広く認められる行為で重要な行為
だから鑑賞したらそれを言語化することに本来は美術の点数をつけないといけない
作る人、みせる人、見る人は全て美術的なんだけど教育では作ることが美術だと教えてしまう節があるよ コンセプトは言語じゃないよ
たまたま言語に変換ができるってだけだ >>211
そうだね!確かに!コンセプトは言語ではないから、コンセプトを視覚化するか言語化する
を混同して表現したごめんね
コンセプトは言語だよの回答について誤りがあったよ
コンセプトは言語だよと言ったのは
問い「コンセプトってお前がつらつら書いてるように言語なのか?
じゃあ視覚言語である必要ないだろ
論文でも書けばいい」
を誤読したよ
コンセプトを言語化することが必要だよということが言いたかったよ
核は視覚言語化する必要がないということと、言語化する必要がないということが互いに排除し合う関係ではないということだよ ハッキングして口喧嘩で言い負かす用意してるとかほんと性格悪 >>208
美術の中の現代美術の中のコンセプチュアルアートのことだからね
美術全部に複雑なコンテクストが必要なわけじゃないよ プリミティブで無理やりカテゴリー分けしたら
そこから新しいものを付け足せということになるだろう
でも美術ってそんなに簡単にカテゴリー分けできるものなのか?
付随するいろいろな情報があるだろう
そこを無理やり切り捨てて貧しくさせてカテゴリー分けされても
そんなのお前の勝手だろって話だよ カテゴリーを厳密に規定して
そこから外れたら、「はい、ジャンル外」ってのもどうかと思うわな >>218
簡単にはカテゴリー分けできないよ
基本的には作家の声明が尊重されるそれがなんなのか
そしてそれが本当にそうなのかが議論される
追随される情報‥付帯情報とも取れるけどそれをさらに付け足したり、それが故に元の主張が成り立たなかったりする
例としてはジャクソンポロックの絵の具の飛び散った絵画は偶像を排斥したことと、絵画の構成要素は絵の具のみで成り立つことを証明したが、
追って作者の身体性が明らかに作品から感じ取れるとして絵の具のみの自立を否定された
このときの身体性とは絵筆を振ったりする動きが感じられるということだった
彼の作品の最も評価されたところはちょうど絵画の最小構成単位を模索していた時期に回答を作品で示したことだったからかなり痛烈な批判だった >>220
ジャンル以外というかどのジャンルに属しつつべつの傾向もあるという具合に複数が合わさることの方が多いかな
複数の論考がなされるから否定の論理も有効だけど肯定の論理も有効に働く そもそもどろどろしてるものにスパッとうまく切り分けられるわけがない
言語化しても30〜50%ぐらいだと思うな >>223
これは主観だけど
その通りだと思う文章や音声言語は完璧なコミュニケーションではない、記号言語、視覚も完璧ではない
それらが複合的にくみかわされる議論はとても熱狂的だと思う
不明瞭な情報だけど、教育の分野ではマルチプルインテリジェンスというそう ARTは広く開かれていて、誰でもが感じ、表現することができるしどんどん参加してほしい
美しいものを見たり何故か感動したり、励まされたり、インスピレーションを受けたりする
ではなぜそれらがARTであるのか
ARTとは何であるか
これは長い歴史と幾万の論理で構成されている
そしてそこには人類の叡智、ソフィアがある
ARTが好きなら名画の見方やARTと対峙したときの感覚を知っているはず
その次はARTの歴史を紐解き、ARTの議論まで行けば論文を読むことにもなるだろうけど、ARTが哲学の下位カテゴリでありながら文字以外も扱う哲学そのものだと知ってもらえると思う カオスラウンジとかもハッキングしてなきゃ知らん情報知ってるんだよな
最初にある病気のネタ画像ツイッターで流して遊んでたし
恐ろしいね
一生こっちのことは筒抜け状態なのかな
地獄なんだけど 田中:たとえば、2017年に発表された村上春樹の『騎士団長殺し』の中にも、36歳の画家の主人公が、次にように語る
場面があります。
“私は36歳になっていた。そろそろ40歳に手が届こうとしている。40歳になるまでに、なんとか画家として自分固有の
作品世界を確保しなくてはならない。私はずっとそう感じていた。40歳という年齢は人にとってひとつの分水嶺なのだ。
そこを越えたら、人はもう前と同じではいられない。それまでにまだあと4年ある。しかし4年なんてあっという間に過ぎ
てしまうだろう。(村上春樹『騎士団長殺し』新潮社、2017年)”
彼は、芸術作品として評価される絵が描きたいのに、生活のために肖像画の仕事で飯を食っていることに、コンプレッ
クスを感じているんです。
山田:世間的には、40にもなればなにがしかの者になっているはずだというふんわりしたイメージがあるけど、実際には
何者にもなれていない人のほうが圧倒的に多い。むしろ、昔より今の40歳のほうが、「こんなはずじゃなかったのに!」
という焦りはあるし、キツいんじゃないでしょうか。 レイヤーだのコンテクストだの訳の分からない横文字並べてれば相手が黙ると思いながら
書いてる本人も意味がロクに分からない文章書いてて虚しくならない?
大した才能もないのに知ったかぶりして虚勢張って生きるって本当に大変な人生だね。 >>226
>>226まず二点整理したいのだけど
「コンテクストとやら」と言ってるのはコンセプチュアルアートにおいてのコンテクストの話だったはず
マルセルデュシャンの泉について同じようにコンテクストというのはちょっと飛躍があると思う
なぜならこの時点ではコンセプチュアルアートの概念そのものが存在してない
(デュシャンをコンセプチュアルアートの先駆者として位置付けることはできる)
もう一点はコンテクストを説明というと語弊があるかな、作者でもなければ展示者でもないし、キュレーターでもないから >>226
•背景1800年後半
時代背景からいうと当時はまだ美術が自由なものとしての範囲がすごく狭かった
主に絵画と彫刻がARTであってかつ「崇高なもの」に限定されていた
ARTは画壇、サロンのものだった
一方で社会は工業化や奴隷の解放など近代化が急速に進んだ
•ここにきてARTはART自身を問いただす
なぜARTであり得るのか、ARTは何なのか
アート画壇はなぜARTを規制しているのか?
•コンセプト
ARTの問いに答えを示した
既製品(便器)をART作品として提示することでARTの前提とした「崇高なもの、美しいもの、オリジナルなど」一斉に否定し、人間は自由に発想して作品を作ることができ、そのことがARTであることを当時の画壇やサロンに示した
このことをARTは認めART自身を拡張し始める
以降、絵画は進歩主義の路線を取りこれまでにない画風を模索する
彫刻も同じように自由な形を模索する
更に絵画の進歩主義が成熟して、「ARTとは何か」から「絵画とは何か」を目指し還元主義に至る
彫刻もまた「彫刻は何か」という問いに向かい還元主義に至る
デュシャンの功績
ARTを広げた
•目で見るARTから理論で見るARTを生み出した
•「おぞましいもの」などもARTであることを導いた
•レディメイドという既製品の組み合わせもアートになりうるし、「職人的技術がすなわちART」とならないことも示した
•ARTが特定の政治や宗教のものでないこともサロンを否定することで示唆した
近代美術(モダニズム)
ARTにとってなくてはならない超絶偉大な作品だったので素晴らしいARTとされている
ART自身がARTを問い直して否定したり提案することが活発になるとそれはダダイズムとも呼ばれた
ダダ(破壊的)とかいうことだったはず >>229
誤解がある
相手を黙らせるなんて必要はないし、目指すものでもない
貴方の知っていることやARTについて思うところが聞ければ嬉しい
そこには当然、差異があってそれぞれのARTの解釈が交わされることを期待してます
なぜなら批判はARTの種で、ARTは批判について肯定的だと思う
ただし、批評の哲学に基づいてより良い議論になるための批評のことを言う パクリと文脈、レイヤーの明確な違いはなんなんだろうか?文脈は勝手に出来ていくものでもある。再表現ではなく未視感が重要でないだろうか?だがしかし脳をハックされた状態では、
それは難しい何故なら未来をみて先にクオリティの高い作品を作られるからだ。 例えばカイカイキキに所属しているobさんはグラフィックでしょうか?現代美術なんでしょうか? パクリだ何だって吹っかけてくるやつはああ脳内ハッキング仲間なんだなって周りに思われて終わりだと思います >>233
パクリと既知の出来事の流用
•パクリそのものが内緒で行われている場合(つまり新しいものや、オリジナルとして提示される)これは盗作やパクリである。つまり嘘がある
•これは〇〇を模倣したと明示されている場合、なぜそうしたのかご説明されアプロプリエイション(盗用芸術)として認められる
ポストモダン(次の近代)を考えるときによく使われた手法でポップアートやグラフィティ、レディメイドとあわさって使われることも多い
例えば
「実際のカボチャに〇を書いて女性のスカートを着せる」
このことで草間彌生のポップが消費されること、
特に女性に消費されること。
ARTの消費層が女性中心にかつ、美術がファッションとして流通していることを作品で示すことができる。
(あくまで例えばでそういう視点があるというだけのこと) チンポムの人間レストランの絵にクリソツの絵をその前に描いてました
その時のデータに日付も入ってます
おわり もし偶然似ただけならここで終わり
もしパクリだということにされたらデータの日付見せて終わり
ハッキングされたのかな?って事情を知ってる人は思う >>233
文脈とレイヤー
「文脈は歴史や背景が辿った道のり」を前提にしてそれをどう紡ぐか回答を模索する
例えば、絵画は写真に精緻な事実の描写という役割を渡し、絵画による絵画のための自律性を求めた→事実と異なる絵の書き方を進歩させていった
レイヤーは「層」という意味で作品にいくつものコンテクストを持たせること
例えば、1貯水ダムの前に寂れたバケツに水を入れたものを吊り下げることで水の有限性や希少価値を訴える
2古いバケツを使うことで昔から水は貴重であったことを訴える
3既製品のバケツを使うことで富の占有に抗議する
4タイトルを「泉」とすることで既得権益の破壊を示唆する
これで4つのレイヤーをもつ視覚的にはゴミみたいな作品ができる
コンセプトは水資源の独占が悪であるという考え ちなみに昔のタンブラーがどこからか一人でに発掘された時の為に予め言っておくと
予備校時代先生に自分と似た画風の画像を集めておくと良いと教わった
それで自分に近い絵や画像を集めていた
つまり自分で描いていた絵は先にあった obさんは漫画に近い奈良美智さん的な現代アートな気がします。現代アートと現代美術の違いってなんでしょうか?グラフィックは立花ハジメさんとか澁谷忠臣さんみたいなのじゃないかと勝手に考えてるんですが実際どうなんでしょうか?
漫画とグラフィック、イラスト、グラフィティー、ストリートアート、現代アートなどが複雑に絡み合っていてわかりづらい。
ゲームの漫画みたいな絵はグラフィックって言えばグラフィックにも見えるし、
futura2000 みたいなのがグラフィックだと思ってた私の世代と
今の漫画みたいなグラフィックとではまた感覚が少し違うのかなって感じます。 >>237
チンポムの電気ネズミも明らかに盗用芸術の手法に見えるけど、モティーフ(動機)そのものがキャラクターの場合はそうなるんだろうなぁと思った
テーマは社会現象的に日本の幼児性を突いてると思った
おたく文化を表象するMRと通じるものがあるかな、でもネズミが渋谷109に陣取ってたからブームと大衆も根底にありそうなものだった
人間レストラン行ったんだいいなぁ >>240
オリジナリティの喪失
という命題がARTに突きつけられて(インフラの発達によって似た者や過去のものがよく見えるようになった)真に新しいものなどないという風潮から還元主義やコンセプトを重視して、形としてではなく当代の人それぞれの考えに基づく美術が力を持つようになったのだと思う >>241
女の人が奈良美智さん風の絵を描くということですか。
作者が女性でかつ女の子を描いているというところが新しいということでしょうか。
obさんの絵にもコンテキストってあるのかしら?
絵の具を使っていれば現代美術
フォトショならグラフィックという違いな感じが書き込みから印象を受けました >>241
以下は考察不足の脆弱な文章ですが書いてみたいので書きます
日本語独自なんだけど
言葉的にARTは西洋美術史のことを指して言うことが多い「大文字のエーアールティ」などという
カタカナで「アート」といった場合には趣味の延長線上も含むなんとなく綺麗とか日本の大衆の楽しみ的なものを指すことがある
美術は哲学の下位概念としての美学≒ARTのこと
現在のARTは美術史上のart&craft→fineart→ART
グラフィックかイラストかなどなど
基本的には作家本人の声明による
それに対して論考がされた結果どう見られるか、あるいは作家の声明に由来して見たときにどうかが論じられるので作家は自らの作品をグラフィックであるかイラストであるかなどは明示するのが良いと思う >>244
コンピュータを使って作られたものも現代美術として提示するためのものは現代美術になるし、文脈(どの立場をとって制作しているか)によってはメディアアートにもなるかな
一瞬、CG(コンピュータグラフィックス)とグラフィックを混同しそうになったけどCGは技術的な言葉でそれで作ったからといって表象がグラフィックではないと気がついた
現代美術そのものは「現代の美術」ということでしかないので技法とかを規定してるわけではなくて
強いて言えば美術はどこまで自由化したかどんな条件下にあるかの時代区分かな >>244
CGみたいな未来感のある絵がグラフィックだと
考えていて絵の具を使ってそーゆーの描いてたらアートだと思うんだけど日本グラフィック展とかはアートだと認められなかったんでしょ?
海外のグラフィックと日本のグラフィックが違いがなくなるのを村上隆さんは嫌がってるように感じる。 >>246
1枚目と2枚目と7枚目は見覚えがあるけどもう何も覚えてない
問い「デュシャンの泉と似ているものがあると思うか?」
だけど1枚目や7枚目の既製品を作品の中に提示できること自体がデュシャンの行いの結果に含まれてると思う
2枚目の写真は写真論における写真の文脈では複数枚あればトポロジーだし、時代によってはニューカラーという見方ができる
写真の文脈はARTの文脈とは一致はしてない
どういう文脈の元で作られたかはその作品の時代と前時代の文脈がわからないと考察しようがない、コンセプチュアルアートであるならレイヤーが説明されている資料やその作品を論じた論客の論文が必要かな
基本的に近代以降のART作品そのものについてコンセプチュアルが全てでないし当然すでにアーカイブされているフォービズムとかを使っても良いものだよ
わかりやすくいうと知らないものは知らないし、教えて欲しい 作品を知らないことにはそれが写真なのか、彫刻なのか支持体は何かすらもわからない
自分の知識が足りない >>249
くしゃくしゃに丸めたメモ用紙が既製品てそんなもんどこで売ってるんですか?
まあ、そんなことどうでもいいけど、結局似てるものはどれ一つないって言うことでいいんですね? ここに書いてあることそのまま当てはめると
obさんはグラフィックということになりますね >>252
JNT HEADさんの方がグラフィックな感じがするけどobさんは漫画やイラストを現代アートでやってる感じがする >>251
メモ用紙そのものが既製品らしく見える
それは工業化されて販売されたものかとおもったから
デュシャン以前では作家が直接的に描いたり石材を彫ったものが美術だった
どれも似ているものがないといことの反対で既製品を用いることはデュシャンの泉によって正当化されたものだから似ている部分があると思う
そしてデュシャンに似ていることがARTではないし、デュシャンがARTを拡張したことでARTはさらに人の手によって自らを拡張すること自体を肯定的に捉えた
その意味で近代以降の美術はデュシャンに通じていると思う デカイデジタルのアニメってobさんだっけ?あれはグラフィックな気がします。 >>253
それはどういうことですか?
説明できますか?
感じがするじゃなくて
言語化しなきゃいけないってこのスレッドの人たちが書いてたので、お願いします >>254 石材だの余計なことをべらべら話さなくてよろしい。>>246の作品のどれにも似ているものはない、とお前が
判断したかどうか聞いてるの。どれも似てないんだな?イエスかノーか 似ているものがないっていうのね。
お前は自信がないから余計なことをしゃべってるわけだ。 >>257
誤解がある
鑑賞してどう思う、どう感じるということ自体は当然していいし
そもそも説明するのはそれが必要なとき場所、場合において
作者でもないしキュレーターでもないのであれば説明を正しくする必要もない
美術は見て楽しみ考えて楽しみ話し合って楽しむことができる >>262
じゃあ、どれですか?上から何番目ですか? >>261
このスレッドの人の意見とは違う人ですね。
このスレッドの人的には作者であるobさんが自分の絵はグラフィックとどう違うのか説明できないと現代美術ではなくなってしまうそうですよ
滅茶苦茶ですよね >>264
>反対で既製品を用いることはデュシャンの泉によって正当化されたものだから似ている部分があると思う
によって1枚目と7枚目は通じるものがあると感じる
ちなみに「似ている」の定義は示されていないのでこの場合は泉の事実である既製品という部分についていう >>266
立場が違う鑑賞者と作者が同じ責任を負うものではない
「作者であるodさん」が説明できることと「鑑賞者である253」が説明できることは同じ意味ではない
作者が作品を現代美術を示す根拠を説明しているか否かと
鑑賞者が作者の説明を完全に理解しているか否かは一致しない
見て楽しむ権利の中で強制されるものでもない >>267 ハッキリ言うけど>>246の作品の全部良さが分かるんなら、>>226の作品も良さが分かるはずです。
貴方は本質的に全部同じだっていうことに気がつかないの。
既製品の展示とかそんなもんどうでもいい。これらの作品の良さが分かるなら、建築にもはまってるはずです。
https://dotup.org/uploda/dotup.org1728295.jpg
あんまり文脈とかレイヤーとか小難しいこと言ってると、本当に実力がある人間が現れたときに貴方が恥かきますよ。
それだけです。 >>268
じゃあobさんはこのスレの定義の中だと今のところグラフィックアーティストということになりますね。
いつか村上隆に入れ知恵されて自分のコンセプトを喋るまでは。 >>270
空山基さんはグラフィックだと思いますか? >>269
文脈とかレイヤーは小難しいどころか間違えてる見方でしょうね
obさんが文脈やレイヤーで説明できないとしても現代美術じゃないとは思いません
歌舞伎のミエみたいに喋りの上で見栄えのいい技でしかないと思います >>272 言葉なんて言う抽象性を重視する低級なものと芸術は元々、そりが全く合わないわな。 >>269
気がつかないことは数多い
そのような知見を教えて欲しい
一応ここまで話をしていた領域は絵画、彫刻についてが主だったはずですが
建築の分野もまた何も知らないに等しい
第一芸術は建築
第二芸術は彫刻
第三芸術は絵画
第四芸術は音楽
第五芸術は詩
その中の絵画と彫刻の範囲でなおかつ美術史上の近代の範囲での問答だと思っていた
問いの回答が本質的にデュシャンと同じであるという言説ができれば教えて欲しい 常に見られてるかもしれないと思いながら過ごしてストレス外からなんかストレスを受けてそれに反応するしかないサイクルが物凄い嫌 なんか仄めかしてるやつがいても病気でしょって返されるから何もできないからやられっぱなし
それで頭おかしくなって病院入り
まだやってるやついるし
すぐマウンティングしてくるし
一生こうなのか >>272
自然主義的な感じるもの、崇高なもの、情動などの心の動きを美術否定していないしそうした見方を擁護していますが、文脈の解釈と論理もまた擁護しています
二元論的にどちらが間違っているという見方ではなくどちらか一方では不十分または両方でも説明のつかないものだと思います >>274 様々な表面的な差異を持たせながらも本質的に同一と体感できるか、と言って分からなければ、
貴方の頭の構造が元々、美術向きじゃないと言うことです。
ただ、人間が地球上に60億人いても、そういう頭の作りをもって生まれてくるのはごく僅か、ということです。
村上は確実に含まれませんけど。
日本でも本当に一流とされる作家なんて100人も必要ないと思います。その半分以下かも知れない。 スノーデン的なやつがなんか知らんがやってるのかと思うと嫌だけど諦めつくけど
パンピーのそこらへんの人も知ってるし
ハッキングして個人情報撒き散らしてる奴がいるのは明らか
20前半からプライベートがないプライベートの行動を揶揄されるという動物園の動物状態で過ごしてきたが誰にも信じてもらえない obさんのこと持ち出してキレ散らかしたのは後悔してるけど本当もう堪忍袋がやばいのは察して欲しい https://www.google.co.jp/amp/s/www.seleqt.net/design/history/amp/
ミュシャはグラフィック入ってると思うけどobさんはグラフィックというよりアニメやイラスト、漫画をアートでやってる感じがする。アニメゲームみたいなのをアナログでやってるっていうならグラフィックな気がします。 なるほど興味深い話です
体感によって同一とみなすことができる
そうした感覚の持ち主がいて、それは少数で、その中にARTの本質があるということですね
私にはその感覚がないのでしょう
おそらく、西洋美術史に限らないもっと広い意味の美術ですね
私には貴方の言わんとすることがわずかもわからないかもしれませんが、その体感とうものが哲学的なものであるのか崇高な感覚であるのかまたは仏教における空というものなのか、可能性というユニコーンなのか興味が尽きません
ありがとうございます >>244
obはマンガみたいな女の子を印象派的な筆致で描いてるって事でアートの文脈に乗せてるんじゃねーの? 西田幾多郎の純粋経験と言う言葉があれば他に必要ありません。 obってこの人?
http://gallery-kaikaikiki.com/category/artists/ob/
悪いけど、自分からすると、この人がやってるのってイラストとかの系統でファインアーツの系統では
全くないよ。 >>285
落とし所をひとつにするのは民主的でないよ >>287
美術は政治的な話ではありません。むしろ自分からすると物理的な話です。
憲法九条が護憲派と改憲派で解釈が違うとかそういう話と違いますんで。 美術と宗教、美術と政治は密接に関係していて、民衆の権利獲得の闘争の歴史でもあるし、倫理形成でもある
精神的な現象もあるし、物理的な現象もあるし、もちろん科学でもある どうぞ、GNCKだか黒瀬陽平だか使って酷評リンチしてください
どーぞ公開リンチすればよい
グラフィックだのこれは現代美術じゃないだのコンテクストがないだの言って晒し首にすればよい http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/touch/20131024/p1
デザイン性があるイラストは自分の好きでもないものも書くからアートではない。奈良美智さんは好きなものしか描かないよってことでアートだと思う。 アニメをグリーンバーグに代入しただけの何かはアートですか? 私怨で人を悪くいうのは良くないと思う
批判はそういう道具としてではなくなぜ批判するのかという目的を明確にする
批評はお互いのより深い理解のためや、議題に対してのより良い回答を得るために違いが努力するのが望ましいと思う ここのスレッドで
コンセプトやコンテクストを言語化できないならばそれは現代アートではなくグラフィックであると最初に書き込まれた
そこでやや書き方は悪かったがobさんの例を出した
言語化されるもの以外で掬えない形でコンセプトのようなものもあると言いたかった
そちらこそ、難癖付けてるようにしか思えない
結局突き詰めていけばフィーリングじゃん
好きなものを描いてるからアートというふにゃふにゃな結論 そもそもお前が盗撮して晒し者アイドル作家にしようという最低の企画を思いついて実行しようとしたら色々あって相手のこと散々な目に遭わせて現在に至ってるのにグラフィックがどうとかいう難癖、よく付けられるよね
頭おかしいんじゃないかと思うわ >>296
現代美術とコンセプチュアルアートが混同されていると思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています