一般に現代では、ダブルバインド的状況は蔓延しており、そこでは「笑い」*が治療としてある
とさえ言える。
だが、そうした状況から逃避せずに、形式化を極限まで問いつめる柄谷のような思想家による
著作があるし、映画ではエイゼンシュテインの『イワン雷帝』のような作品がある。
https://youtu.be/MaLjpUCZkPs

これは、エイゼンシュテイン自身も分析しているシーンで、主人公の感情が受動的な悲しみから
能動的な怒りへ展開するシーンである。
ジジェクも言及していたようにここにプーチンのプロトタイプを見出すことも出来るが、むしろ複数
のモチーフの重なり合いを見出すべきだろう。


ダブルバインドを笑いとして捉えた映画に、黒澤明の『影武者』がある。
この映画には以下のように3つほど笑いのシーンがあるが、これらは皆自己言及のパラドックス
を笑ったものである。

1、家臣の山縣が赤い顔をして信玄に我を忘れるとは何事かと、自ら我を忘れて説教をする。
2、隊列を組む兵士が見事な隊列だと感嘆したとたんに、列を乱すなと他の兵から説教される。
3、侍大将入場のために、砂場の足跡を消していたふたりの使用人が、自分の足跡を消すのを
忘れる。

理解されなかったとはいえ、これらはみな同一性の希求とその不可能性という映画本来のテーマ
と呼応するものである-----同様のシーンは『乱』にもあるが(狂阿弥=いたずら小僧が神様を「い
たずら小僧」と罵る)、こちらは悲劇的トーンで描かれる。