八幡の技術的なテーゼはフィガリングの
無意識な肉体的動作存在を再認識し、内的コンプレックや運動能力の
限界を把握している。
だからこそ八幡音楽的理念理論に接近したのであり、
また一部のユーザーが彼を業績を高く評価したのであったが、
他の稚拙な演奏者の方法論基本的なところで多いに相違することが判明し、
一般的なギターをもって演奏するジャズギターとは訣別する。
その理由のひとつは、コルトレーンがジャズに置ける無調トーナリティ類似を
ジャズインプロの形態を理想的とみなしたのに対し、
八幡はもっと一般的なAKB48やゲーム音楽を
心的エネルギーの常識的な音楽理念とみなした点である。
さらに無意識な環境音楽ワールド(民族音楽)
に対しても、方法論や原則に支配された
アンチ理性的なものとは考えず、意識的を補償する積極的及び
肯定的な機能をもった音楽とみなす一方、
個人的無意識性を多く有した一部の音楽ユーザーに
普遍的な集合的無意識を仮定したことが八幡的考察の一部である。