なんでマーラーの交響曲全集に
大地の歌が入ってないことが多いの? 大地の歌も一応交響曲でしょ? 国際マーラー協会のホームページに載ってるスタディ・スコアには記載されてるが 言葉が解らんので詳しいことは調べられぬw 楽譜の出版はマーラーの死後だし本人の意思がどの程度反映されてるかは謎だ 自筆譜に >Eine Symphonie in Gesangen, in sechs Satzen fur groses Orchester, Tenor- und Alt- (Bariton-, ad. lib.) Solo. みたいに書いた "跡" があるらしい アホンだら! /ノ (@)\ うわぁ〜〜知ったかぶりが .| (@) ⌒)\ 無知を競い合ってる〜〜ここ〜〜 .| (__ノ ̄| | ///;ト, \ |_/ / ////゙l゙l; \ U _ノ l .i .! | /´ `\ │ | .| | | { .ノ.ノ このスレに粘着するチャチャ入れだけが生き甲斐の糞団塊 2ちゃん初心者のオッサン 今日も懲りてないな 赤の他人が出版した譜に書いてあるかどうかはまったく関係ない そこだけが頼りの主張にはまったく見るべき価値がない そこはきちんとふまえた上で自由に語りあってくれ 1〜4番には歌曲が援用されていて明らかだけど、声帯の感覚や機能がマーラーの交響曲 に占める要素は見落とせないね。声楽のフレーズを器楽に置換する様がみれる。 器楽的交響曲に向かう5〜6番も亡き子やリュッケルト歌曲集が短い引用ながら顔を出す。 9番10番もほんとに短いけれど歌うようなフレーズが多数。歌曲の大家らしい巧みな旋律の交響曲。 大地の歌は8番を作曲していた時期と重なる。 中期の器楽的交響曲の後に歌曲の熱が発展して出てきたのかと推察してみる。 楽曲のなかで歌を器楽に、または器楽を歌に置き換えてみるのはマーラーの場合意味があるだろう 大地の歌では歌手の声はオーケストラのパートとして聴きたい。幸いにも私はドイツ語がわからない >>294 マーラの楽譜の問題に関してはことはそんなに単純じゃない。 赤の他人が総力を挙げてマーラーの意図を実現しようとしてるんだよ マーラーの交響曲 −残された楽譜と演奏の実際についての考察 http://www.shinkyo.com/concert/p199-2.html 楽譜読めないやつが格好良く決めようとしてるんだから、ほっといてあげようよ。 楽譜にケチつけ、何の話題も出せず、人のレスを小バカにする もう来るなよ ドイツ語が全く言葉として判らないから楽器として聞こえてる奴がいるってことか 別に馬鹿にしてるんじゃなくて>>296 を読んで純粋にそう思ったわ 馬鹿だろ 本当に交響曲だと信じ込んで他人の意見を受け入れられないみたいだし 前後の8番9番と比較するまでもなく大地の歌はいかにも伴奏って感じのオケパートなんだがなぁ そもそもテーマが小品過ぎるし >>273 は何を言ってるの?大地の歌って6曲全てが歌だよ? 歌曲というわりには歌手をオケと勝負させたりしてるんだよな 大地の歌」のオーケストレーションは、マーラーにとっては「4番」の次ぐらいに小さな編成ではあるが、 やはり3管編成のオーケストラがフォルテシモで鳴らしている前で独唱が音量で勝負するのは難しい。 マーラーも多くの部分ではそれに対する音響空間的な配慮(例えば独唱に音域と音色が似た音はオーケストラは出さない) をしているが、ここぞというところ(例えば1楽章の再現部というか3コーラス目につながるクライマックスの部分や、 4楽章の中間部から主部に戻る部分など)ではあえてその配慮をしていない。 そういう部分では独唱者は自分の最大音量を発揮してオーケストラにかき消されないようにしなければならない >歌曲というわりには歌手をオケと勝負させたりしてるんだよな オケに組み込まれているのが交響曲 >>297 そうだね、それはそう思うよ だから譜面の中に書かれてる音楽の内容で考察すべしと思ってる >>298 、>>299 あまりにも阿呆で情けなすぎる 単純な日本語、文章の意味が理解できない人が混じっているようなので再度 赤の他人が出版した譜に「交響曲とか歌曲とかいう文言が」書いてあるかどうかはまったく関係ない そこだけが頼りの主張にはまったく見るべき価値がない そこはきちんとふまえた上で自由に語りあってくれ 楽譜の表紙ではなく、中身の譜面の音符や記号や指示注釈の話は当然主張の対象に決まっている そんな基本的なことも理解できずないまま興奮してレスする輩に議論ができるのか疑問だ ちなみに楽譜の読めない追えない輩はここにはよもやきていないと信じる 歌を器楽とみなす それは貴方が脳内で勝手にやってくれ >>305 スレ主? あんたも御高説を披露したら 自由に語り合ってるので、もう出てこなくていいぞ え? そんなこと言いました? >歌曲というわりには歌手をオケと勝負させたりしてるんだよな 角笛もそうですが ってこと。 ああ失礼そういう意味でしたか でもオケが薄くて伴奏風だというのは違うと思います。 それは>>300 に言ってくれる?薄いとは思わんから しかし、他の交響曲とは違って 詩(歌詞)を表現するための歌を支えているっていうのは、賛成しておく しかも冒頭から終曲までね スコアの冒頭に歌詞が書いてある交響曲なんてある? こりゃ歌曲集でしょ。 >>300 296は266と発言者は同じでね。オーケストラ伴奏付き歌曲という方なの マーラーの声帯のセンスは器楽的交響曲にも断片的に多数出てくる 大地の歌は初期の歌曲と違って、歌手が受け持つ旋律でも断片的で器楽的な旋律がでてくる 伴奏に溶け込む感じもあるだろ。 「月をみろ」と指させば、指ばかりみるヤツか 結局100年経ってもマーラーの但し書きの Eine Symphonie in Gesangen, in sechs Satzen fur groses Orchester, Tenor- und Alt- (Bariton-, ad. lib.) Solo. を消して連作歌曲とする明確な根拠がなかったということ。だから国際マーラー協会でも Das Lied von der Erde Eine Symphonie in Gesängen, in sechs Sätzen für großes Orchester, Tenor- und Alt- (Bariton-, ad. lib.) Solo. Textautor: Hans Bethge (1876-1946), Die chinesiche Flöte, Nachdichtungen chinesischer Lyrik, 1907. Entstehung: 1908-9. と記載されている。聴き専のクラオタがここでいくら喚いてもあと100年後もこの曲は 「テノールとアルト(またはバリトン)とオーケストラのための交響曲だろう クラオタのこれみよがしな意見などマーラーが但し書きのまえには何の価値もない それがクラシックの世界である。 歌曲だと思いたいなら心のなかでだけ思えばいい。 >>313 (=>>305 ) は釣り(虚勢) >聴き専の〜 以下が、単なる想像と幼稚な意見文 楽譜って、ただし書きのことだったのかw いやー、とんでもないご高説ありがとうございます ID:eWcZ+fPa の>>315 は相当な勘違いスカタン(笑) 何かわからんが相当悔しいのか溜まってるのか。。。 >>313 はその通りだと思うね 逆に言えばここをどう覆せるのか、というところだ 歌曲派の言葉には、ここに至るまで個人の主観的な感想とか悪口雑言ばっかりで 新たな根拠も論拠もまったく示されないから、どうにもこうにも議論になってないわ >楽譜って、ただし書きのことだったのかw もう痴呆か?早いな >交響曲に聞こえる時点でout ボクちゃんは天然の阿呆か? って書くとまたいろいろ罵詈雑言を必死に並べ立てて終わるだけなんだろうなw それで個人的にすっきりするんなら好きにしたらいいが そのことで歌曲であることを他人に説得できる可能性は一切ない では引き続き自由に語りあってくれ 以後スルー推奨 >根拠も論拠 ドイツ語も英語も読めないのが「マーラー協会」コピペ一辺倒 これが根拠 自分は幾多の質問は無視 罵詈雑言が多い>>318 同意 てか、鏡に向かっている人が邪魔をしている どう見ても楽譜読めない(どころか持ってない)し 強がって上から目線で書けば書くほど、馬脚をあらわしているな 残念 楽譜は所有しており分析もしている どう見ても〜、というのが極めて希望的かつ主観的で説得力皆無 大地の歌を語ろうとする前に、 想像力の発揮と柔軟な考え方やができるようにするなど先にすることがあるようだな ID:eWcZ+fPa の>>315 は、他人を説得できない苛立ちは百歩譲って分からんでもないが 同一人物判定すらまともにできない初心者のようなので指摘したまで 涙目でしばらくロムってろということだ 歌曲派の言葉には、ここに至るまで個人の主観的な感想とか悪口雑言ばっかりで 新たな根拠も論拠もまったく示されない、 というこのスレの事実をまずは覆してからものを言え クラ板も本当に住民のレベルが落ちたなと思う 分別のある質の高い人はもうここから脱出しているんだなきっと では引き続き自由に語りあってくれ 邪魔にされているだけで、誰も説得(笑)なんかしようとしてないようだが… 交響曲を主張するほうはあれこれと主張の根拠を挙げてきている 一方、歌曲を主張するほうは、悔しければ、腹が立つなら、 一つでも新たな議論の材料を提示してから言えということ こう言うとまたいろいろ罵詈雑言を繰り返してそれだけで終わるんだろうが それで個人的にすっきりするんなら好きにしたらよろしい それならそれでそれだけのためのスレということだ では引き続き自由に語りあってくれ では、通りすがりの私めは消えますんで 認知症の相手など、このスレでは真剣になさらぬように 脱線ついでに 全集に含めなかった指揮者、レコード会社は見識が高い >>326 おまえのせいで話がループするんだよ 人の書き込みを読んで無さ杉 交響曲と言えるかどうか語るのは勝手にしてりゃいいが この曲が歌曲じゃないわけないだろ そんなアホな主張はここでしか見たことねーわ マーラーがDas Lied von der Erdeと歌としているのに マーラーがこの曲を交響曲第9番「大地の歌」としていたら交響曲だろうよ 交響曲かどうかなんてその程度のことでしか言えないのに何でアホな主張を続けてんだか 曲の展開によって決まるとか定義付けなんてされてないっつーの されてたらおまえがいらん主張しなくてももっと賢い音楽学者やらがちゃんと決定してくれてるから オケ伴奏じゃなくてピアノ伴奏版って国内盤でどういうタイトルになってるの? こんな感じなわけ?→交響曲「大地の歌」(ピアノ伴奏版) オケ伴奏でも交響曲「大地の歌」という表記はインチキを極めてるけどな 交響曲と主張するアホもこれは否定できないだろ↓ 交響曲第7番「夜の歌」 交響曲第8番「千人の交響曲」 大地の歌(テノールとアルト(またはバリトン)とオーケストラのための交響曲) 交響曲第9番 ”運命”とか”未完成”とか”皇帝”とか”田園”と同じように人気が出るように仕向けられてるだけ そもそもマーラーは交響曲にタイトルなんて一つも付けてないのにね ビアノ伴奏版が歌曲 オケ伴奏版が交響曲 んなバカなw 全集に含めた指揮者、レコード会社は非常に見識が高い カラヤンのCD(ガレリアのEU盤)には、Eine Symphonie 〜 のカッコ書きがある カッコ書きで交響曲に分類するのもどうかと思うが 俺はどっちでもいいけど シロートの分析がどれほどのものか知らんが かなりの指揮者(作曲家兼指揮者)が全集に含めていないという事実 カッコ書きを記載してあるCD、少ないんじゃねーの? 苦し紛れに他人のレスをひっくり返してないで、先に具体的な分析示せばいいのに >>333 過去の作曲家が9番を書いて死んだからナンバリングしなかったってのは 単なる勝手な想像だよね?マーラーがそんなしょーもないこと言ったの? っていうか9番をナンバリングしたしね もしそんなくだらないことに拘ったのなら9番を完成させた時点で 大地の歌に9番とナンバリングして完成した9番を10番とするよね >>335 それいったらチャイコのマンフレッドだってそうでしょ。 マンフレッドが交響曲ではないという意見はさすがに聞いたことない。 アレって,歌入り? 交響曲がなんちゃら協会がカッコ書きにしてんの? 赤の他人がどう表記したのかは知らんけど 別に俺はどっちでもいいんだぜ 交響曲で結構 歌曲でも結構 >>338 いつもの知ったかさんか? 明日(今日でもいいけどw)は>>323 のキャラで登場か。 的外れなのは一緒かもね いずれにしろ歌曲と交響曲が高度に融合した見事な音楽だ あらためて>>1 の疑問はごもっともで なぜ入れなかったか…だな 違うでしょ ってかあなたずーっとここで何やってんの 大地の歌の話はしないの?w 歌曲を交響曲のモチーフにしたり転用したりを何度も繰り返しながら マーラーが作曲家として人生の最後のほうで行き着いた究極の形態であって、 交響曲と歌曲が高次元で渾然一体となって融合した音楽だという見解にはまったく同意 マーラーの最高傑作かもしれないなと思ってます 長い沈黙 きかれた事が都合悪いと徹底スルー 賛同できる意見には、すぐ尻尾を振る 自分は、ただの煽りに終始するレスをする癖に、 他人が同じことをされると堪え性がなくなる ほら、マンフレッドは括弧書きなの? それはチャイコフスキー協会的な組織のHPにでも書いてあるの? 歌入ってるの? >同一人物判定すらまともに出来ないで煽るだけなのなら >涙目でしばらくロムってろ 客観的に見てこれに同意です 苦し紛れにレスを借用、改変 話を逸らす この人>80過ぎから頑張ってるな マンフレッドと大地の歌のケースも区別できないなら、書き込むな って事だ 結局、マーラー本人が「交響曲と見なさなかった」証拠は何一つないということでFA? それはそうだな それを意思あるいは遺志とみなせるかどうかは別にして いいんじゃねえの ピアノ伴奏で歌曲版も作っているが ブラームスなんかは交響曲のピアノ版を自分で書いてるな ピアノ伴奏だから歌曲というのはちょっと短絡かな ピアノ編曲に歌の声部も含んでいればね しかも自分で管弦楽版と並行して行っている 管弦楽版とリズムなど違いがある 子細に見ていくと、伴奏の違いで交響曲になったり、歌曲になってしまうという矛盾が生じてしまうので ブラームスやベートーベンのリスト編曲とは区別して考えてるけど、俺は マーラーはピアノ伴奏付き歌曲として演奏されることを前提に楽譜を書いている 他の交響曲と大地の歌の成立が決定的に違うところ 大地の歌は交響曲と歌曲の両面を持つ、と。 矛盾をそのまま内包して オーケストラ稿とピアノ稿については どちらかが先にすべて作られた後にもう一方が作られたのではなく 入り乱れるように同時並行で作曲されているらしいと思われることから 同一の構想のもとに生み出された別々の作品として作曲されたものと解釈することができる 交響曲として「みなしていなかった」かも知れんな 少なくともナンバー付きの交響曲とは同列ではない 交響曲と意識して創作したのか、管弦楽伴奏付歌曲を意識して創作したのか、といえば 歌曲集としてはピアノ伴奏稿を並行してきっちり残していることから鑑みて オーケストラ稿のほうは交響曲を意識していたと思います それまでの歌曲の管弦楽伴奏が二管編成で歌を補助しているようにシンプルだったのに対し 大地の歌は三管編成と交響曲規模に拡大されていることと 楽器の書法や多層的になって複雑さを増している点、結果としての響きの分厚さなども鑑みると オーケストラ稿のほうは交響曲を意識していたと思います そうなんでしょうけどね… 第3曲と第4曲のタイトルの違い,一部の歌詞の違いetc. 少しでも別の曲にしたがったのかも知れんな 同時に(音楽の内容的にほぼ全く)同じ曲が歌以外の編成の変化で ジャンル分けを変えてしまうことに抵抗は感じるけども CDなどの全集に入れるかどうかの>>1 については、また別な要素もあるし どんなに議論しても無駄な気がするねw この議論過去いろんなところで見て来たけど交響曲派も歌曲派も絶対意見を変えないから平行線 結局一応交響曲くくりだけど歌曲と思うならそれでもOKというこの議論のいつも通りの落とし所で終わる 日本人はDas Lied von der Erdeを読めないから歌曲だと理解できてないだけ 欧米出身の指揮者が交響曲と認識することなんてない バーンスタインのソニーの全集みたいに1番から9番と10番第一楽章と亡き子を偲ぶ歌、 みたいな感じで歌曲(大地の歌等)が収録されているものがあるだけ 別にバーンスタインが亡き子を偲ぶ歌を交響曲と認識していたわけではないw >>365 歌曲の中で大地の歌だけはマーラーが自分で聞いて修正できてないんだよ 音が分厚いから交響曲とかねーわ 9番ですら修正できていない分かなりおかしい 8番の次の交響曲が大地の歌だったとして・・・複雑さが増してるかねぇ かなりのスケールダウンだと思うけどな ドイツ語が読めるかどうかの問題なのかw 9番に修正の余地があるのは知られている 大地の歌は? 大地の歌の録音が終わるまでは全集としてのリリースを認めてなかったテンシュテットや、 シノーポリ、インバル、ベルティーニ、ラトル、クーベリック、ティルソン=トーマス、若杉、などは 交響曲(またはその範疇)と認識していたんじゃないでしょうか 複雑さを増している〜の話はそれまでの管弦楽伴奏歌曲との比較であって 8番とではありませんから マーラーほどの作曲家なら大地の歌の場合にはそれほど改訂はしなかったのではと思います 9番は響きが飽和気味な部分もあるのでだぶんきっと少し改訂したんだろうなと思います そう言えばバーンスタインのグラモフォンの新全集のパッケージには 第三巻が 「SYMPHONIES OF LOVE & DEATH」 となっていて 8番、9番、10番、大地の歌、がセットされていますね バーンスタインの意思か、制作側の意思か、あるいは欧州の一般的な慣習の踏襲か それは分かりませんけれども 9番は響きの整理よりもフェルマータ等の横の整理の余地 インバル、ベルティーニ、若杉 は企画が日本サイド シノーポリやラトルはマーラー録音集 MTT、テンシュテットのケースは分からん テンシュテットは角笛も含めた集成のことでは?(既に忘れている) クーベリックは全集には入っていない ショルティは、アナログシリーズの末尾の録音ながら 集中して録音している時期に当たる しかしEUのCD全集からは除外されているのは周知の通り テンシュテットも同様 入っているものの方が少ない バーンスタインも然り 入っていないものの方が多い 俺は日本人なので、大地の歌>交響曲の刷り込みは多少あった(帯には今でも) しかし、最近はどっちつかずだなw シノーポリ、ラトルは録音集とも言えますがいちおうタイトルは交響曲全集かなと テンシュテットは大地の歌録音するも気に入らない部分があるので録り直しするまでリリースを 認めてなかったという話が伝えられていますね 結局、録り直しを実現させる前に病魔に侵され他界されたんでしたっけね 大地の歌の有無に関わらず、交響曲全集と銘打ってても、 嘆きの歌や管弦楽伴奏歌曲が併録されているケースは結構ありますよね かなりのケースでそうかも・・・フィルアップに便利なのかな何なのかな、小沢ですらそうですから シノーポリ,ラトル 違うぞ 10siymphnien 10Symphonies (※1〜10番) で、大地の歌は歌曲と同列の扱い 交響曲《大地の歌》ってタイトルつけられたパッケージメディアは 欧米盤ではお目にかかったことがない ジャケ浦に例の但し書きがあるくらい(DGな) 失礼しました シノーポリの海外盤コレクターズエディションは「The Complete Recordings」となってますね 録音したものを全部厚めましたよ全集、ですね ただこういう全集化の姿からは大地の歌をどうとらえていたかは見えてきませんね ラトル海外盤のほうも確かに録音集ですが 「The Complete Synphonies」 という表記もありますね でもまあこれもシノーポリと同様の、全部集めましたよ全集でしょうかね ただ交響曲と認識している欧米出身の指揮者がゼロというのはないと思います それと企画が日本サイドのものであったとしてもそれが生存中のリリースであるなら 指揮者の意思は「それなりの形」で反映されていると見るのが妥当ではないでしょうか 没後に勝手にリリースしたものなら権利者や遺族の意思程度で決まるのでしょうね 現役盤のジャケット(ケース)もお確かめあれ 交響曲群とは区別されている まあ結局のところは↓ 367 名前:名無しの笛の踊り[sage] 投稿日:2012/08/02(木) 22:04:29.07 ID:622RBcje どんなに議論しても無駄な気がするねw この議論過去いろんなところで見て来たけど交響曲派も歌曲派も絶対意見を変えないから平行線 結局一応交響曲くくりだけど歌曲と思うならそれでもOKというこの議論のいつも通りの落とし所で終わる 過去スレ見てもそんな感じで自然消滅だし(結論出るはずないので)、 後は各自ネットで調べてそれぞれで納得すべしという感じ 別に結論を出すためにスレや板があるわけではない 仕切りは職場でやって下さい イミフなことを書いて滑ったときの虚しさったら辛いよなあ ↑ /\___/\ /'''''' ''''''::\ |(●), 、(●)、.| フフフ! | ,,ノ(、_, )ヽ、,, .:| | `-=ニ=- ' .:::::| \ `ニニ´ ._/ (`ー‐--‐‐―/ ).|´ | | ヽ| ゝ ノ ヽ ノ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 「大地の歌」ではなく 「浮世の歌」と訳したほうが日本語のニュアンスに近いらしい read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる